第58話 大交渉
戦争回避を懸けた、大交渉が始まった。
長卓を挟んで、ヴェルガとサルディアの代表が、向かい合う。その中央に、私が立った。両国の言葉を、心を、繋ぐ者として。全権を、委ねられた者として。
最初は、互いに、硬かった。先の査問での対立が、まだ、尾を引いている。空気は、張り詰めていた。
ヴェルガの強硬派は、なお、威勢のいい言葉を並べた。
《サルディアが、誠意を示さぬ限り、我が国は引かぬ》
付き従う者が、それを、強硬なまま伝えようとする。けれど、私は、その裏の本音を、丁寧に訳し直した。角の立たない、けれど、本質を捉えた言葉で。
「ヴェルガの代表は、こう仰っています。『面子を保てる形さえあれば、矛を収める用意がある。ただ、一方的に屈したと見られることだけは、避けたい』」
ヴェルガの代表が、はっとした。自分の本音を、的確に、言い当てられて。
通訳とは、本来、相手の言葉を、そのまま、別の言語に、移し替える仕事だ。けれど、私のしていることは、それを、超えていた。表に出た強硬な言葉を、その奥にある、本当の願いへと、訳し直す。相手が、本当は、言いたくても、面子ゆえに言えないことを、代わりに、言葉にする。それは、ただの翻訳ではなく、心を、繋ぐ仕事だった。
私は、サルディア側にも、向き直った。
「サルディアの皆様の本音は、こうです。『報復は望まない。安定した関係を、取り戻したい。勝者として振る舞うつもりは、ない』」
双方の、隠された本音が、卓上に並んだ。表の対立の言葉ではなく、裏の、本当の願いが。
すると、不思議なことが起きた。
あれほど対立していた両者が、互いの本音を知った途端、態度を、和らげ始めたのだ。なんだ、相手も、戦争を望んでいなかったのか――その安堵が、場に広がっていく。互いを、化け物のように、思い込んでいた。けれど、本当は、同じことを、願っていた。その事実が、両者の、頑なな心を、解きほぐしていく。
私は、一つ一つ、言葉の橋を架けていった。
ヴェルガの「賠償を求める」という強硬な要求は、「今後の通商上の優遇を願う」という、実利的で、面子を傷つけない形に。サルディアの「遺憾の意」は、ヴェルガが「対等な和解」と受け取れる言い回しに。表の言葉ではなく、裏の本音で。誰も「負けた」と感じない、絶妙な合意へと、両国を、少しずつ、導いていく。
会議場の空気が、変わっていく。敵意が、安堵に。対立が、歩み寄りに。緊張に満ちていた場が、少しずつ、和やかさを、取り戻していく。
殿下は、私のすぐそばで、その交渉を、静かに支えていた。私が言葉の橋を架け、殿下が、王太子としての権威で、それを保証する。私が示した本音の取引を、「サルディアは、それを約束する」と、重みのある一言で、裏づける。二人の呼吸は、あの仲裁の時と同じ――いや、それ以上に、合っていた。
長年、連れ添った相棒のように。言葉にせずとも、互いの考えが、伝わる。私が、次に何を言おうとしているか、殿下には、分かる。殿下が、どう動こうとしているか、私には、分かる。その、息の合った連携が、難しい交渉を、前へ前へと、進めていった。
ふと、初めて出会った、あの会議場の夜を、思い出した。あの時も、私が殿下の真意を訳し、殿下が、それを受けて、交渉を動かした。あれから、長い時が、流れた。私たちは、いくつもの困難を、共に、乗り越えてきた。そして今、再び、肩を並べて、最大の戦いに、臨んでいる。この人と、共に戦えること。それが、何より、心強かった。そして、何より、幸福だった。
交渉は、刻一刻と、進んでいった。私は、一語も、おろそかにしなかった。両国の代表が口にする言葉、その語尾の揺れ、視線の動き、沈黙の長さ。そのすべてから、本音を掬い上げ、相手に伝わる言葉へと、訳し直していく。時に、強硬な言葉を、和らげ。時に、曖昧な言葉に、譲歩の意を、込めて。私の選ぶ一語一語が、両国を、和平へと、近づけていく。それは、これまでの人生で、培ってきたすべてを、注ぎ込む作業だった。
額に、汗が滲む。けれど、不思議と、疲れは、感じなかった。むしろ、全身が、研ぎ澄まされていくようだった。言葉が、私を通って、二つの国の間を、行き来する。その一つひとつが、命を、救っていく。これこそが、私の、生きる意味だ。誰にも気づかれずとも、言葉で、人と人を、国と国を、繋ぐこと。私は、今、その使命の、頂点に、立っていた。
和平は、あと一歩のところまで、近づいた。
誰もが、戦争の回避を、確信し始めた、その時。
ヴェルガ代表団の末席で、ずっと黙していた一人の男が、突然、立ち上がった。
ジェラルド・モルテーンだった。
すべてを失い、追い詰められた彼の目には、もはや、正気とは思えぬ、暗い光が宿っていた。捏造を暴かれ、ハーヴェイにも裏切られ、すべてを失った男の、最後の、悪あがき。
彼にとって、和平が成立することは、自らの罪が、確定することを、意味した。混乱の元凶が、自分であったと、公に、認められること。だから、彼は、何としても、この和平を、壊そうとしていた。たとえ、両国を、戦争に、巻き込んででも。自分が助かるためなら、何千、何万の命さえ、厭わない。その、歪んだ保身が、彼を、最後の凶行へと、駆り立てていた。
「――待て」
彼の声に、会議場の和やかな空気が、ぴたりと、凍りついた。せっかく、和平へと、傾きかけた針が、再び、止まる。私は、彼を、見据えた。最後の、障害を。




