第57話 全権
私の示した和平案を軸に、交渉が始まろうとしていた。
だが、それは、極めて繊細な作業だった。両国の面子を、寸分の狂いもなく保ちながら、合意へ導く。一語の選び方を誤れば、せっかくの橋が、崩れ落ちる。和解の機運が、再び、敵意に、変わってしまう。
誰が、この繊細な交渉を、取り仕切るのか。それが、問題だった。下手な者が当たれば、せっかくの和平案も、実行の段階で、崩れかねない。両国の本音を読み、面子を保ちながら、合意へと導く。それは、並大抵の者には、できぬ役目だった。
殿下は、決断した。会議場の、全員の前で。一切の、ためらいなく。
「この大交渉の、全権を、ヴェント殿に委ねたい」
その言葉に、会議場が、どよめいた。
「殿下、それは……」とロドリク侯が、思わず声を上げた。「一通訳に、国家の命運を懸けた交渉の、全権を?」
「ああ」
殿下は、迷いなく頷いた。揺るぎない、声で。
「両国の言葉を、心を、これほど深く読める者は、彼女のほかにいない。戦争を止められるとしたら、それは、剣でも、権力でもない。――言葉だ。ならば、言葉の専門家に、託すのが、道理だ。私は、彼女を、信じている」
ロドリク侯は、しばらく、私を見つめていた。値踏みするような、けれど、もう、敵意のない視線で。
そして、ゆっくりと、頷いた。
「……よろしいでしょう」
彼の言葉に、私は、驚いた。あのロドリク侯が、こうもあっさりと。
「ヴェント殿。私は、あなたを疑い、試し、解任しようとさえした。何度も、あなたの行く手を、阻もうとした。だが、あなたは、そのすべてを、実力で覆してきた。失敗からも、立ち直った。濡れ衣も、自らの手で、晴らした。査問での働き、そして、この和平案。――もはや、出自を問う気は、ない。実力なら、認める。それが、私の流儀だ」
最も手強い敵対者だったロドリク侯が、私を、完全に認めた瞬間だった。長い時間をかけて、私が、実力で、勝ち取った、信頼だった。
胸が、熱くなった。
他国から来た、出自も後ろ盾もない通訳官。その私が今、サルディアの貴族たちの総意のもとに、国家の命運を懸けた大交渉の、全権を委ねられている。
ヴェルガで「口寄せ役」と侮られた頃の私が、見たら、信じられないだろう。あの、俯いてばかりいた私が。誰にも、必要とされないと、思い込んでいた私が。今、国家の運命を、託されている。
けれど、私は、知っていた。これは、偶然ではない。私が、これまで、言葉に誠実であり続けたから。失敗しても、立ち直り、濡れ衣を着せられても、逃げなかったから。その、一つひとつの積み重ねが、今日の、この信頼に、繋がっている。私は、自分の力で、ここまで、来たのだ。誰かに与えられたのではなく。その確信が、私の、背を、支えていた。
全権を委ねられる。それは、計り知れない、重圧だった。もし、私が、しくじれば。両国は、戦争へと、突き進む。無数の命が、失われる。その責任を、私一人が、背負うことになる。
けれど、不思議と、怯みは、なかった。むしろ、闘志が、湧いてきた。これこそ、私が、生涯をかけて、磨いてきた力を、発揮する場だ。言葉で、国と国を、繋ぐ。戦を、防ぐ。それが、私の、生きる意味だった。この大役を、果たすために、私は、ここまで、歩いてきたのかもしれない。
「殿下。ロドリク侯。そして、皆様」
私は、深く、頭を下げた。込み上げる想いを、抑えながら。
「この大役、謹んで、お引き受けします。必ず、戦争を止め、両国に、和平をもたらしてみせます。私の、すべての言葉を、尽くして」
顔を上げると、殿下が、私を見ていた。
その眼差しは、もう、隠されてはいなかった。仕事への信頼。そして、その奥にある、一人の人間への、深い想い。会議場の、衆目の中でも、その想いは、まっすぐに、私へと、向けられていた。
査問のあと、すべてが片付いたら、互いに伝えたいことがある。そう、約束した。
この大交渉が、その「すべて」の、最後の一つだった。これを乗り越えれば、私たちは、ようやく。互いの心を、訳し合える。
私は、込み上げる想いを、ぐっと胸に収め、大交渉の準備に、向かった。
準備に、抜かりは、許されない。両国の、これまでのすべての主張、その裏にある本音、面子の在りか、譲れる点と譲れない点。それらを、一つずつ、整理していく。どの言葉を、どう訳せば、双方が、納得するか。どの順序で、何を、提示すれば、和解へと、導けるか。一手、一手を、慎重に、組み立てる。将棋の、棋士のように。
卓に向かい、私は、両国の記録を、もう一度、丹念に読み返した。過去の会談で、どの言葉が、相手を硬化させ、どの言葉が、歩み寄りを生んだのか。その一つひとつに、和解への鍵が、隠されている。言葉は、生きものだ。同じ意味でも、選び方ひとつで、人の心を、開きもし、閉ざしもする。私は、その機微を、誰よりも、知っていた。だからこそ、この大役を、託されたのだ。
夜が、更けていく。窓の外で、星が、瞬いていた。明日、私は、この国の、いや、二つの国の、運命を、背負って、卓に着く。怖くないと言えば、嘘になる。けれど、私の傍らには、殿下がいる。私を信じてくれる人たちが、いる。一人ではない。その思いが、私の手の震えを、静かに、鎮めていった。私は、ふっと、息を吐いた。そして、再び、記録へと、目を落とした。明日のために。和平のために。
決着の時が、近づいていた。私の、言葉による、最後の戦いの、決着が。両国の、無数の命運を、懸けた戦いの。私は、すべての知恵と、経験を、注ぎ込む覚悟だった。この戦いに、勝つために。そして、その先に待つ、殿下との約束を、果たすために。




