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王宮筆頭通訳官を辞めた翌朝、二国間の会話はすべて噛み合わなくなった  作者: ヲワ・おわり


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第6話 旅立ちの朝

全70話で完結予定です。毎日5話ずつ、7:10 / 12:10 / 17:10 / 20:10 / 22:10 に投稿します。

面白いと思っていただけましたら、評価で応援してもらえると励みになります。

 サルディアへ発つ朝は、霧が深かった。

 荷物といっても、大したものはない。各国語の辞書と、長年書き溜めた手帳の束。それだけが、私がヴェルガで築いたものの、ほとんどすべてだった。

 馬車に荷を積んでいると、門前に老いた人影が現れた。

「バルト様」

 杖をついたバルト・オルセンが、霧の中をゆっくりと歩いてくる。見送りに来てくれたのだ。

「サルディアへ行くと聞いた。良い決断だ」

「お見送り、ありがとうございます」

「礼はいらん。それより――」

 老人は、懐から小さな包みを取り出した。開けると、古びた一冊の手帳だった。

「私が現役の頃に書き留めた、サルディア宮廷の言い回しの覚え書きだ。今はもう古くなった部分もあろうが、向こうの作法を知る、足がかりにはなる。持っていきなさい」

 受け取った手帳は、長年使い込まれて、角が丸くなっていた。一語一語に、外交に生きた人の年月が染み込んでいる。

「……こんな大切なものを」

「君になら、活かせる。私が抱えて朽ちさせるより、ずっといい」

 バルトは目を細めて、それから声を低くした。

「オーレリア。一つだけ、忠告がある。サルディアは実力を重んじる国だ。だが、それは裏を返せば――結果を出せぬ者には、容赦がないということでもある。向こうには向こうの、難しさがあるだろう」

「……はい」

「だがな。君なら大丈夫だ。私が保証する」

 そう言って、老人は不器用に微笑んだ。

「ただし、一つだけ約束しなさい。今度こそ、自分の価値を、自分で認めること。誰に何と言われようと、君の仕事は、国を救う仕事だ。それを、二度と忘れてはならんよ」

 その言葉が、胸に深く落ちた。

 自分の価値を、自分で認める。何度も言われたその言葉を、まだ私は、心の底から信じきれてはいなかった。けれど――いつか、信じられるようになりたいと、初めてそう思った。

「バルト様。一つ、お伺いしてもよろしいですか」

「なんだね」

「私は……本当に、国を支えていたのでしょうか。誰にも気づかれぬまま」

 我ながら、情けない問いだった。けれどバルトは、笑わなかった。ただ、まっすぐに、私を見た。

「君が抜けた今、その答えは、いずれ、この国全体が、思い知ることになる。――残念ながら、最も痛ましい形で、な」

 その言葉の重さに、私は、息を呑んだ。

 あの方の予言が、どうか、外れてほしい。そう願う一方で、心のどこかでは、それが、当たってしまうことを、確信してもいた。

「行ってまいります」

 私は深く頭を下げ、馬車に乗り込んだ。

 車輪が回り出す。ヴェルガの街並みが、霧の向こうへ遠ざかっていく。

 生まれ育った国。私を育て、そして要らぬと言った国。振り返ると、未練が顔に出てしまいそうで、私は前だけを見ていた。

 馬車の中で、私は、バルトから譲られた手帳を、そっと開いた。古びた紙面に並ぶ、外交に生きた老人の覚え書き。サルディアの言い回し、北方の作法、海洋同盟の沈黙の意味。その一語一語に、彼が積み重ねてきた年月が、染み込んでいる。

 《言葉の裏を読むのは、難しい。だが、最も読み損なうのは、いつも、己の心の声だ》

 ふと目に留まった一文に、私は、しばらく見入った。

 己の心の声。私は、それを、ちゃんと聞けているのだろうか。サルディアへ向かうこの決断も、本当に、私自身が望んだことなのか。それとも、ただ、行き場を失って、流されているだけなのか。

 分からなかった。けれど、一つだけ、確かなことがある。あの招聘状を読んだとき、胸の奥が、確かに、熱くなった。もう一度、言葉を運びたいと、心が、叫んだ。

 その声だけは――聞き間違えていないと、思いたかった。


 馬車が街の門を抜けようとしたとき、検問の兵士たちが何やら騒いでいた。

「だから、通行証の文言がおかしいんだって。リンドルから来た隊商が、書類の不備で足止め食らってる」

「最近こういうの、増えたよなあ。お偉いさん同士が揉めてるとか何とか」

 私は、馬車の窓から、その光景を見るともなしに見た。

 リンドルとの行き違い。市場で聞いた噂が、こんなところにまで影を落としている。あの返書の一文が――。

 いや、と私は思考を止めた。

 もう、私には関係のないことだ。私はこの国を出ていく。後のことは、後の人が考えればいい。そう、頭では分かっている。

 なのに、胸の奥のざわつきは、なかなか消えてくれなかった。言葉のすれ違いは、こうして人を足止めし、商いを止め、やがて何を引き起こすのか。長く外交の場にいた私には、その先が、嫌になるほど見えてしまう。

 馬車は国境へ向かって走り続ける。

 私の背後で、ヴェルガの言葉は、少しずつ、確実に、噛み合わなくなり始めていた。

 そして前方には、見たこともない異国の地平が、霧を割って広がっていた。

 馬車に揺られながら、私は、自分の手のひらを、じっと見つめた。何の力も持たない、ただの手。剣も振るえず、魔法も使えない。けれど、この手が運ぶ言葉が、国の運命を、左右することがある。それを、私は、知っている。

 その力を、今度は、見ていてくれる人のいる場所で、振るうのだ。

 ――新しい場所で、私はもう一度、言葉を運ぶ。

 不安と、かすかな期待を抱えて、私はサルディアへの道を進んだ。

 二度と、振り返らない。そう決めたはずなのに、胸の奥には、まだ、消えない小さな痛みが、残っていた。それでも私は、前を向き続けた。新しい場所が、私を、待っている。

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