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王宮筆頭通訳官を辞めた翌朝、二国間の会話はすべて噛み合わなくなった  作者: ヲワ・おわり


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第5話 君の訳がなければ

全70話で完結予定です。毎日5話ずつ、7:10 / 12:10 / 17:10 / 20:10 / 22:10 に投稿します。

面白いと思っていただけましたら、評価で応援してもらえると励みになります。

 書状を開く指が、自分のものでないように震えていた。

 中の文字は、流れるようで、それでいて力強い筆跡だった。事務的な代筆ではない。書いた者の、人柄がそのまま滲み出るような字。

 《オーレリア・ヴェント殿》

 《先の会談において、私の言葉を正しく訳したのは、貴女ただ一人だった》

 《あの夜、私は初めて、自分の真意が過たず相手に届く心地を知った。あれは私にとって、得難い経験だった》

 息が、浅くなる。

 あの夜のこと。許可も得ずに立ち上がって、殿下の言葉の裏を訳した、あの一瞬。殿下は、それを覚えていた。手柄を奪われ、誰の記憶にも残らなかったはずのあの働きを、たった一人、覚えていてくれた人がいた。

 文面は、こう続いていた。

 《貴女が職を辞したと聞いた。ヴェルガの判断は、私には理解しがたい》

 《どうか、サルディアへ来てはくれないか。我が国の外務府で、貴女に相応の地位と裁量を約束する》

 そして、末尾に。

 《君の訳がなければ、私はこの大陸の誰とも、本当の話ができない》

 その一行を、私は何度も読み返した。

 読むたびに、胸の奥で、何かがゆっくりと崩れていく。長いあいだ自分に言い聞かせてきた「替えのきく口寄せ役」という言葉が、その一文の前で、音もなく溶けていくようだった。

「……これは」

 声が掠れた。

「これは、本当に、殿下が?」

「殿下ご自身が、筆をお執りになりました」

 使者は静かに頷いた。

「殿下は、人を肩書きでお選びになりません。我がサルディアは、出自よりも実力を重んじる国にございます。殿下はあの夜、貴女の仕事をご覧になった。だからこそ、貴女を望んでおられるのです」

 実力を、重んじる国。

 その言葉が、信じられなかった。私の生きてきた場所では、価値を決めるのはいつも家格と肩書きで、実務は「誰にでもできること」だった。だから私は、表に立つことを諦め、自分の働きに名前がつかないことを、当たり前だと思ってきた。

 使者は、私の戸惑いを見て取ったのか、穏やかに、言葉を継いだ。

「ヴェント様。あの会談の夜、殿下は、決裂を覚悟しておられました。半年かけた交渉が、目の前で潰える。それは、両国にとって、計り知れぬ損失でした。――それを、あなたが、たった一言で、救った」

「私は、ただ、殿下のお言葉を、正しく訳しただけです」

「その『正しく訳す』ことが、どれほど稀有なことか。殿下は、誰よりも、ご存じなのです」

 使者の声には、嘘の響きが、なかった。長く言葉を読んできた私には、それが、分かる。彼は、心から、私を必要だと信じて、ここへ来た。

 胸の奥が、震えた。誰かに、こんなふうに、まっすぐ必要とされたことが、これまでに、あっただろうか。

 ヴェルガでは、私の働きは、誰の目にも、留まらなかった。手柄は奪われ、名は記録に残らず、私は、いつも、替えのきく道具でしかなかった。

 なのに、今。

 ここに、私の仕事を見ていた人がいる。それを、たった一人ではなく、国として迎えたいと言ってくれる人が。

「……私のような者に、そこまでの価値が、本当にあるのでしょうか」

 思わず、口をついて出た。すると使者は、少しだけ表情を緩めた。

「その問いの答えは、殿下がすでに書いておられます。――君の訳がなければ、誰とも本当の話ができない、と」

 私は、招聘状を、胸に抱いた。

 羊皮紙の、わずかな冷たさ。けれど、そこに記された言葉は、どこまでも、温かかった。誰かが、私の働きを見て、私を必要としている。たったそれだけのことが、こんなにも、人を救うのだと、初めて知った。

 ヴェルガでの、長い、報われない日々。手柄を奪われ、侮られ、それでも黙って言葉を運んだ、あの孤独な時間。それらが、無駄ではなかったと、この一通が、教えてくれる。あの働きを、見ていてくれた人が、いた。

 私は、目を閉じた。胸の奥に、温かいものが、満ちていく。

 その夜、私は父に書状を見せた。

 子爵である父は、文面を読み終えると、深く長い息を吐いた。

「……この国は、お前を捨てた。婚約も、職も、お前の半生も、まるで価値のないものとして放り出した。だが、隣国の王太子殿下は、お前の何たるかを正しく見ておられる」

 父の声は、静かな怒りと、それから誇りに満ちていた。

「オーレリア。お前が決めなさい。だが、私はこう思う。――お前を要らぬと言った場所に、義理立てする必要などない」

 窓の外では、夜空に星が滲んでいた。

 私は、書状の末尾の一行を、もう一度なぞった。

 君の訳がなければ。

 誰かにそう言ってもらえる日が来るなんて、思ってもみなかった。胸の奥が熱くて、けれどその熱が嬉しさなのか、怖さなのか、私にはまだ、うまく名前がつけられなかった。

 ただ、一つだけ、はっきりしていることがあった。

 ――この手で、もう一度、言葉を運びたい。

 今度は、それを見ていてくれる人のいる場所で。

 私は顔を上げ、父をまっすぐに見た。

「お父様。私、サルディアへ行きます」

 父が、深く、頷いた。その目に、長年、娘の不遇を見守ってきた者の、安堵が滲んでいた。

「……よく、言った。お前の人生だ。胸を張って、行きなさい」

「はい、お父様」

 私は、もう一度、招聘状の末尾を、指でなぞった。君の訳がなければ。その一行が、これからの私を、支えてくれる気がした。

 窓辺に立ち、私は、北の方角――ヴェルガではなく、その先にある、サルディアの空を、思い描いた。見たこともない国。けれど、そこには、私の言葉を、待っている人がいる。

 その決断が、傾きかけたヴェルガの命運と、私自身の心を、どこへ運んでいくのか。

 このときの私は、まだ何も知らずにいた。

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