第4話 些細なこと
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王宮、通辞院。
後任の筆頭通訳官に任じられた青年は、得意げだった。
「院長、北方のリンドル王国宛ての返書、訳し終えました。先方の祝辞に対する、丁寧な返礼の文面です」
「うむ、ご苦労。さすがは、しっかりした仕事だ」
ハーヴェイ院長は、ろくに中身も確かめずに頷いた。オーレリアという厄介な女が抜けて、院内の空気はむしろ軽くなったとさえ感じていた。彼女は優秀すぎて、扱いづらかった。代わりはいくらでもいる。言葉を訳すだけの仕事なのだから。
その返書には、こうあった。
《貴国の格別なるご厚情、痛み入ります。我が国としても、相応の対応を考えております》
文面だけ見れば、何の問題もない。だが――リンドル王国の宮廷では、「相応の対応を考えている」という言い回しは、長年の慣習の中で、特別な響きを帯びていた。それは祝意に対する礼ではなく、《貸し借りの清算を求める》という、外交上の催促の定型句だったのだ。
かつてオーレリアであれば、決してこの訳を選ばなかった。彼女ならこう変えていただろう。《ご厚情に深く感謝し、変わらぬ友誼を願う》と。意味を、正しく届くように。
だが、その違いを知る者は、もう通辞院にいなかった。
返書を受け取ったリンドルの宮廷は、首をかしげた。祝辞を送っただけなのに、なぜヴェルガは「清算」を持ち出してくるのか。何か、含むところでもあるのか――。
小さな、本当に小さな棘だった。けれど棘は、抜かれぬまま、静かに膿み始める。
言葉のすれ違いとは、そういうものだ。最初は、誰も気づかない。ほんの一語の、取り違え。けれど、その一語が、相手の心に、小さな不信の種を蒔く。種は、芽を出し、根を張り、やがて、抜き差しならぬ対立へと、育っていく。
かつて、オーレリアは、その種を、芽吹く前に、一つ残らず摘み取っていた。表に出た言葉の裏を読み、誤解が生まれる前に、訳語を選び直す。誰にも気づかれぬ、地道な仕事。けれど、それこそが、国の平穏を、根底で支えていた。
その彼女は、もういない。
通辞院には、辞書を引くことはできても、言葉の奥にある人の心までは読めぬ者たちだけが、残されていた。彼らは、自分たちが、どれほど危ういものの上に立っているか、まだ、知らなかった。
数日後、その兆候は、私の耳にも届いた。
市場へ買い物に出た折、商人たちの噂話が聞こえてきたのだ。
「リンドルとの取引が、急に渋くなったらしいぜ」
「ああ、なんでも王宮同士で行き違いがあったとかで。関税の話も止まっちまった」
私は、足を止めた。
リンドル。北方の、あの言い回しに独特の癖を持つ国。胸の奥で、嫌な予感が鳴った。けれど、すぐに打ち消す。私はもう、通辞院の人間ではない。心配する立場にも、知る術もないのだ。
それでも――足は、なかなか、動いてくれなかった。
リンドルの言葉は、特に厄介だった。「相応の対応」「友誼」といった、一見、穏やかな言い回しが、文脈によって、まるで違う意味を帯びる。その機微を、後任は、知っているだろうか。あの青年は、辞書を引くことはできても、言葉の奥にある人の心までは、読めないかもしれない。
もし、誤訳が起きていたら。最初は、些細なすれ違いから。けれど、放っておけば――。
私は、頭を振って、その考えを、追い払った。詮無いことだ。私には、もう、何もできない。それなのに、こうして案じてしまうのは、長く外交に生きた者の、悲しい性なのかもしれなかった。
――気にしても、仕方がない。
そう思いながら邸に戻ると、門前に、見慣れない馬車が停まっていた。
紋章を見て、息が止まりそうになった。
翼を広げた獅子――サルディア王家の紋章。
使用人が、戸惑った様子で私を出迎えた。
「お嬢様、その……サルディア王国から、使者の方がお見えで。どうしてもお嬢様にお会いしたいと」
サルディアの、使者。
なぜ。私はもう、ヴェルガの通訳官ですらないのに。あの会談で、私が殿下の真意を訳したことを、咎めにでも来たのだろうか。
応接間に入ると、礼装に身を包んだ壮年の男が、深々と頭を下げた。
「オーレリア・ヴェント様。突然の訪問、お許しください。私はサルディア王国外務府の使者にございます」
男は、恭しく一通の書状を差し出した。上質な羊皮紙に、王家の封蝋。
「我が主、クラウス・サルディア王太子殿下より、あなた様への、正式なお申し出を携えてまいりました」
お申し出。
差し出された書状を、私は受け取れずにいた。心臓が、痛いほど早く打っている。
咎めではない。咎めに、これほど丁重な封蝋は使わない。
では、これは――いったい、何。
「どうか、お改めください」
使者の言葉に促され、私はようやく、震える指で封を切った。
封蝋の下から現れた羊皮紙は、上質で、わずかに、青みを帯びていた。サルディア王家が、最も重要な書状にのみ用いる紙。その事実だけで、これが、ただの形式的な打診ではないと、分かった。
心臓が、痛いほど、打っている。
私の人生で、これほど丁重に扱われたことが、あっただろうか。ヴェルガでは、私の名は、いつも、書類の隅に小さく記されるだけだった。それすら、ないことの方が、多かった。
なのに、今、隣国の王家が、私一人のために、最上の紙を使い、使者を遣わしている。
その重みに、指先が、震えた。
文面に目を走らせる前から、私は、予感していた。これが、私の人生を、大きく変える一通になることを。良い方へか、悪い方へかは、まだ、分からない。けれど、これまでの、何者でもない日々が、ここで終わるのだということだけは、確かに、感じていた。




