第3話 誰にも分からない価値
全70話で完結予定です。毎日5話ずつ、7:10 / 12:10 / 17:10 / 20:10 / 22:10 に投稿します。
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実家の子爵邸に戻って、三日が過ぎた。
久しぶりの自分の部屋は、思っていたよりずっと狭く感じられた。長く王宮の宿舎で暮らしていたせいだろう。窓辺の椅子に腰かけて、私はぼんやりと庭を眺めていた。
することが、何もない。
朝から晩まで他国の書簡を読み、交渉の席に立ち、言葉を運び続けた日々。あれが噓のように、時間が空白になった。手持ち無沙汰に、机に向かっては各国語の本を開き、けれどすぐに閉じてしまう。読んだところで、もう使う場所がないのだ。
私は、何のために言葉を学んできたのだろう。
ふと、そんな問いが浮かんで、自分でも驚いた。考えても仕方のないことだ。才があったから学んだ。学んだから仕事を得た。ただそれだけのことで、そこに大層な意味などありはしない。
――お前はただ、言葉を右から左に流すだけの口寄せ役だろう。
ジェラルドの声が、不意に蘇る。
あの言葉に、私はまだうまく言い返せないでいた。腹は立っていないつもりだった。けれど、胸の奥がときどき、ちりちりと焦げるように痛む。この感情に何という名前をつければいいのか、私には分からなかった。
他人の言葉なら、あれほど読めるのに。
私は、机に積んだ各国語の本を、ぼんやりと眺めた。北方の叙事詩、南方の交易記録、海洋同盟の古い条約集。どれも、私が、誰に命じられたわけでもなく、ただ言葉を知りたくて、読み込んできたものだった。
幼い頃から、私は、言葉が好きだった。同じ一言でも、国が違えば、込められた想いが、まるで変わる。その機微を解きほぐすことが、何より、楽しかった。家に財産がなくても、後ろ盾がなくても、言葉だけは、私を裏切らなかった。
その言葉が、今、私を、どこへも連れて行ってくれない。
窓の外で、小鳥が鳴いた。のどかな、平和な午後。けれど、その平和が、かえって、胸を締めつける。私の積み上げてきたものは、本当に、何の意味も、なかったのだろうか。
――いいえ。
心の隅で、小さな反発が、芽生えた。意味がなかったはずがない。私は、確かに、この手で、いくつもの交渉を救ってきた。それを、誰も見ていなかっただけ。
その思いを、私はまだ、確信には、できずにいた。
その日の午後、思いがけない客があった。
「バルト様」
引退間際の老外交官、バルト・オルセン。私が新人だった頃、唯一、私の訳を「正確だ」と褒めてくれた人だった。
応接間に通すと、彼は深く皺の刻まれた顔で、まっすぐに私を見た。
「災難だったな、オーレリア」
「お耳に入っておりましたか」
「通辞院じゅうの噂だ。……いや、噂ですらない。誰も、君がいなくなったことの意味を、まだ分かっていない」
バルトは、茶に口をつけてから、静かに言った。
「君は、自分を何だと思っている」
「……替えのきく、通訳官です」
答えると、老人は深く息を吐いた。
「違う。君は、この国の外交を、たった一人で支えていた人間だ。サルディアの婉曲、北方諸国の比喩、海洋同盟の沈黙の作法――その全部を読めるのは、ヴェルガで君だけだった。君がいたから、この国は致命的な誤りを犯さずに済んでいた。それを、誰も知らずにいたんだ。君自身でさえ、な」
私は、言葉に詰まった。
褒められているはずなのに、素直に受け取れなかった。そんな大層なものだと思えば、今のこの状況が、あまりにみじめになる。
「……買いかぶりです、バルト様。私がいなくても、後任の方がきっと」
「いいや」
老人は、首を横に振った。その目に、はっきりとした憂いが宿っていた。
「言葉というのは、辞書を引けば訳せるものだと、皆そう思っている。だが、外交の言葉は違う。表に出た意味の、その裏を読み損なえば――国は、知らぬ間に隣人を敵に変える。君がいなくなった今、それを止める者はいない」
バルトの声は、予言めいて低かった。
「私は長く外交の場にいた。だから分かる。これから、ヴェルガの言葉は、少しずつ噛み合わなくなっていく。最初は些細なすれ違いから。そして、気づいたときには――取り返しのつかないところまで」
私は、その言葉をうまく信じられなかった。
まさか、そんな。私一人が抜けたくらいで、国の外交が傾くなんて。それは、いくらなんでも大げさだ。
けれど、バルトの真剣な眼差しは、お世辞や慰めのそれではなかった。
「自分の価値を、今度こそ、自分で認めなさい。誰かに決めてもらうものではないのだから」
そう言い残して、老人は帰っていった。
一人になった応接間で、私はしばらく動けずにいた。
バルトの言葉の一つ一つが、胸の中で、まだ響いている。あの方は、私が新人だった頃から、ずっと、私の訳を見ていてくれた。手柄にもならない、誰も褒めない、地味な仕事を。「正確だ」と、ただ一度、言ってくれた、あの言葉が、どれほど私を支えてきたか。
あの方だけは、知っていてくれた。私が、何をしていたかを。
その事実が、温かく、けれど、同時に、もどかしかった。たった一人にしか、見てもらえなかった。それが、私の半生だった。
自分の価値。そんなもの、考えたこともなかった。
窓の外で、夕暮れが庭をゆっくりと染めていく。
その同じ頃。
遠く王宮の通辞院では、隣国へ送られた一通の返書が、相手国の宮廷で読み上げられていた。後任の通訳が「誠実に」字義通りに訳した、その一文を巡って――受け取った側の表情が、静かに、しかし確かに、曇り始めていたことを。
私は、まだ知らない。




