第2話 口寄せ役
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翌朝、私は通辞院の長官室に呼び出された。
ハーヴェイ院長の机の前には、なぜかジェラルドも立っていた。婚約者である彼が、私を見るその目には、いつもの気怠げな優越と、それから何か新しい――侮蔑に近いものが混じっていた。
「オーレリア。昨夜の会談での振る舞いについてだ」
院長が、書類を片手に切り出した。
「通訳官の分際で、交渉の席で勝手に発言した。許可も得ずに、だ。これは越権行為であり、外交団の体面を損ねる行いだった」
「……それは」
反論の言葉を、私は探した。あの場で発言しなければ、交渉は決裂していた。けれど、それを口にしたところで、私の手柄が記録に残るわけではない。昨夜のうちに、功績はすべてジェラルドのものになっている。
「殿下の真意を、誰かが訳す必要がありました」
ようやく、それだけを言った。
ジェラルドが、鼻で笑った。
「真意? お前はただ、言葉を右から左に流すだけの口寄せ役だろう。たまたま当たっただけのことを、まるで自分が交渉を動かしたかのように振る舞う。みっともないとは思わないのか」
――口寄せ役。
その言葉が、胸の真ん中に冷たく刺さった。
言葉を、右から左に流すだけ。そうではないと、私は知っている。サルディア語の「慎重」が持つ温度を、語尾の間が示す譲歩を、視線が落ちた先の意味を。それらを読み解いて初めて、言葉は正しく届く。けれど、それを説明したところで、彼には永遠に伝わらないのだろう。
ジェラルドにとって、私の仕事はずっと「誰にでもできること」だったのだ。
「もう一つ、伝えておくことがある」
彼は、上着の内側から一通の書状を取り出した。
「君との婚約は、解消させてもらう。家同士で結んだだけの、実務的な縁だ。互いに身軽になった方が、これからの仕事もしやすいだろう」
差し出された書状を、私は受け取った。婚約解消の合意書。すでにジェラルドの署名が入っている。
不思議と、悲しみは湧かなかった。この縁に、もともと愛などなかった。それでも、こんなにもあっさりと切られるのかと、心のどこかが小さく軋んだ。
愛のない婚約だったとはいえ、私は、それなりに誠実に、彼に尽くしてきたつもりだった。彼が交渉でつまずけば、夜遅くまで資料を整え、相手国の作法を教えた。彼の手柄の陰には、いつも、私の名前のない働きがあった。けれど彼は、その一つも、覚えてはいないのだろう。彼の目に映る私は、最初から最後まで、便利な道具に過ぎなかった。
――それなら、なぜ。
胸の奥で、小さな声がした。なぜ私は、こんなにも長く、この人のために、心を砕いてきたのだろう。報われるあてなど、最初からなかったのに。
その問いの答えを、私はまた、うまく言葉にできなかった。自分の感情というものは、いつも、霧の向こうにあるようで、掴めない。他人の言葉の裏なら、一瞬で見透かせるのに。
私は、書状を、そっと畳んだ。
「それと」と院長が続けた。「君の筆頭通訳官の任は、解く。後任にはすでに目処がついている。長らくご苦労だった」
解任。婚約解消。一晩のうちに、私は職と身分の両方を失った。
「……承知いたしました」
私は深く頭を下げた。声は、自分でも驚くほど静かだった。
言い返したい言葉なら、いくらでもあった。私がいなくなって、本当にこの通辞院が回ると思っているのか。殿下のような相手の真意を、誰が読むのか。けれど、それを並べ立てるのは、きっとみっともないことなのだろう。ジェラルドの言う通りに。
だから私は、何も言わなかった。
長官室を出て、自分の机に戻る。
積み上がった辞書、各国の慣用表現を書き留めた手帳の束、何年もかけて作った言い回しの対照表。私の半生そのものが、この小さな机の上に詰まっていた。
それを、一つずつ箱に収めていく。
「先輩……?」
後輩の通訳官、ニナだった。事情を聞いたのだろう、青ざめた顔で駆け寄ってくる。
「噓ですよね? 先輩が辞めさせられるなんて、そんな……だって、先輩がいなかったら、難しい交渉は誰が」
「大丈夫よ、ニナ」
私は微笑んだ。
「言葉は、ちゃんと勉強した人が訳せば、きっと通じる。あなたなら、できるわ」
本当は、分かっていた。ニナでは、まだ、難しい交渉の真意までは読めない。それを教える時間も、もう、私には残されていない。けれど、その不安を口にすれば、彼女を追い詰めるだけだ。だから、私は微笑んでみせた。
「困ったことがあったら、バルト様を頼りなさい。あの方なら、きっと力になってくださる」
「先輩……本当に、行ってしまうんですか」
ニナの声が、震えていた。私のために、こんなにも、心を痛めてくれる人がいる。その事実が、冷えた胸を、わずかに温めた。
ニナは何か言いたげに口を開いて、けれど結局、唇を噛んで俯いた。
箱を抱えて、私は通辞院を出た。
振り返らなかった。振り返れば、きっと未練が顔に出てしまう。
門をくぐったところで、空を見上げた。よく晴れた、何の変哲もない朝だった。
この空の下で、私は、何者でもなくなった。筆頭通訳官でも、誰かの婚約者でもない、ただのオーレリア。けれど、不思議と、足取りは、思っていたより軽かった。
――これで、終わり。
そう思った。本当に、そう思っていたのだ。
けれど、私が机から消えたその同じ朝、通辞院の片隅では、一人の後任通訳が、隣国宛ての返書を訳し始めていた。辞書を引き、丁寧に、一語一語を字義通りに。
その文面に潜んだ、ひとつの婉曲な棘に、誰も気づかないまま。




