第52話 偽りの証拠
「反論の前に、一つ、確認させてください」
私は、ジェラルドが並べた偽の証拠を、手に取った。落ち着いた手つきで。指先は、もう、震えていなかった。
「ジェラルド殿。これらが、私が在職中に残した訳だと、主張されるのですね」
「その通りだ。記録の魔法で残された、動かぬ証拠だ。覆せるものなら、覆してみるがいい」
ジェラルドは、余裕の表情で、言い放った。罠に、自ら、足を踏み入れていることも、知らずに。彼は、私が、ただ感情的に「これは私の訳ではない」と訴えるだけだと、高をくくっていた。証拠の前では、そんな主張は、無力だと。だから、余裕だったのだ。けれど、私が用意していたのは、感情ではなく、彼の証拠そのものを、覆す、論理だった。
「記録の魔法――そう、書き換えられない、記録の魔法ですね」
私は、静かに頷いた。彼の言葉を、確認するように。一語一語、会議場の全員の耳に、刻みつけるように。この「書き換えられない」という言葉が、後で、彼自身の首を、絞めることになる。彼は、まだ、それに、気づいていない。
そして、その「誤訳」とされる文書を、一つずつ、検証し始めた。会議場の、全員に、聞こえるように。
「この、リンドルとの条約の訳。『相応の対応を考えている』を、字義通りに訳しています。これは、リンドルの慣用句では『催促』を意味する。確かに、誤りです。リンドルとの対立を、招いた誤訳と、同じものです」
ジェラルドが、勝ち誇った顔をする。私が、誤りを認めたと、思ったのだろう。
「ですが」と、私は続けた。声の調子を、変えずに。
「私は、リンドルの言葉の癖を、熟知しています。この一文を、私が訳すなら、決して字義訳はしません。『今後とも変わらぬ友誼を願う』と、意味を汲んで訳します。――この稚拙な字義訳は、私の癖ではない。むしろ、私の後任の、癖そのものです」
「ほう、口では何とでも言える。だが、証拠は、ここにある。記録の魔法が、これを、あなたの訳だと、証明している」
「ええ。では、伺います」
私は、ジェラルドを、まっすぐに見た。彼の目を、捉えて。
「この字義訳の癖――『相応の対応』を催促と取り違えるこの誤り。これは、いったい、誰の癖でしょうか。この同じ誤りこそが、リンドルとの対立を、引き起こしたのではありませんでしたか」
ジェラルドの表情が、わずかに、強張った。
「これは、私の後任が犯した、あの誤訳の癖と、寸分違わず一致します。リンドルとの対立を引き起こした、あの誤訳。つまり――この『証拠』は、後任が実際に犯した誤訳を、私のものとして、日付を偽装したものです。後任の失策を、追い出した私に、なすりつけたのです」
会議場が、ざわついた。立会人たちが、顔を見合わせる。
言葉には、書いた者の、指紋のような癖がある。訳語の選び方、文の組み立て、慣用句の扱い。それは、長年、無数の言葉と向き合ってきた私には、一目で、見分けられる。この偽文書を訳したのは、私ではない。それは、私にとっては、火を見るより、明らかだった。けれど、それだけでは、証拠にならない。私の主張に、すぎない。だから、私は、誰の目にも明らかな、動かぬ証拠を、用意していた。
「言いがかりだ!」とジェラルドが声を荒げた。余裕の仮面が、剥がれ始める。「この文書は、記録の魔法で、君の在職中の日付が刻まれている! 偽装などできるはずが――」
「記録の魔法に、日付は刻まれません」
私は、静かに、けれど鋭く、遮った。彼の論理の、核心を、突くように。
「記録の魔法が証明するのは、『その文面が、書き換えられていない』ことだけ。『いつ記録されたか』は、刻まれません。あなたは、後から新しく記録した偽の文書に、別の方法で偽の日付を添えた。――そうですね?」
ジェラルドの顔から、笑みが、完全に、消えた。
「では、新旧の記録を、どう見分けるか。それを証明するものが、ここにあります」
私は、もう一つの書類――バルトとニナが命がけで届けた、あの記録を、卓上に取り出した。会議場の、全員の視線が、その書類に、集まる。
「記録の魔法には、もう一つ、あなたが見落とした性質がある。――記録の、『順番』です」
その言葉に、ジェラルドの目が、大きく、見開かれた。順番。その一語が、何を意味するのか。彼の頭の中で、ようやく、すべてが、繋がったのだ。
「記録の魔法は、一度に、複数を施せません。ゆえに、条約や書簡は、施された順に、記録庫に並べられる。その『並び』は、後から、変えることが、できません」
私は、卓上に取り出した記録図を、ゆっくりと、広げた。
「これは、ヴェルガの記録庫の、正確な並びを記したものです。立会人の、署名つき。ここに記された私の本物の訳は、当時の他の記録と、整然と、正しい順番で並んでいます。一方――あなたが提出した、この偽の証拠は」
私は、一拍、置いた。会議場の、全員が、固唾を呑む。
「記録庫の、不自然な位置に、後から割り込まされている。本物の記録の連なりの中に、無理やり、ねじ込まれている。その並びの乱れが、何よりの証拠です。この文書が、後から作られた、捏造であることの」
ジェラルドの顔が、見る間に、青ざめていった。彼が、絶対の自信を持っていた、その計画の、致命的な穴に。今、ようやく、気づいたのだ。けれど、もう、手遅れだった。彼は、言葉を軽んじ、記録を侮った。だからこそ、記録の、この厳格な秩序を、見落とした。その慢心が、今、彼自身を、追い詰めていた。




