第49話 届けられた証
ヴェルガ王宮、深夜。
バルトは、確保した証拠を、サルディアへ運ぶ手筈を整えていた。記録庫の本物の記録と、その並びを記した克明な記録。立会人の署名つきの証言書。それらを、信頼できる早馬に託すのだ。一刻も早く、国境を越えて、サルディアへ。
だが、ジェラルドの手の者が、記録庫周辺の警戒を、強めていた。証拠の持ち出しは、容易ではない。下手に動けば、すべてが、露見する。バルトは、慎重に、機会をうかがっていた。
その時、思いがけない助けが現れた。
「バルト様。私が、お運びします」
声の主は――ニナだった。オーレリアを慕う、あの後輩通訳官。
「ニナ殿。なぜ、君が」
「私、ずっと、おかしいと思っていたんです」
ニナの目には、決意が宿っていた。普段の、おどおどした様子とは、別人のように。
「オーレリア先輩が、誤訳なんてするはずがない。先輩がいた頃、ヴェルガの外交は、何の問題もなかった。先輩が抜けた途端、すべてが崩れた。――なのに、その責任を、先輩になすりつけるなんて。私、許せないんです」
「だが、これは、危険な役目だ。ジェラルド殿に知れれば、君も無事では済まん。君の、これからの人生に、関わる」
「構いません」
ニナは、きっぱりと言った。一歩も、引かずに。
「先輩は、私に言ってくれました。辞めていく日に。『言葉は、ちゃんと勉強した人が訳せば、きっと通じる。あなたなら、できる』って。あの言葉に、どれだけ救われたか。先輩がいなくなって、私、何度も、心が折れそうになりました。でも、あの言葉が、いつも、私を、支えてくれた。――今度は、私が、先輩を救う番です」
その言葉に、バルトは、深く頷いた。胸を打たれたように。
「……分かった。頼む。だが、くれぐれも、無理はするな」
ニナは、証拠の文書を、衣の下に隠し持ち、夜の王宮を抜け出した。下級の通訳官である彼女は、警戒の目につきにくい。誰も、まさか、あの目立たない娘が、国の命運を握る証拠を運んでいるとは、思わない。彼女は、その「目立たなさ」を、武器にした。
心臓が、痛いほど、高鳴っていた。見つかれば、終わりだ。けれど、ニナは、足を、止めなかった。先輩のために。オーレリアが、自分にくれた、あの言葉に、報いるために。
廊下の角で、衛兵とすれ違う。ニナは、平静を装い、軽く会釈をして、通り過ぎた。背中に、冷たい汗が、流れる。衛兵が、振り返らないことを、祈りながら。幸い、衛兵は、彼女を、気にも留めなかった。ただの、下級の通訳官。誰の目にも、そうとしか、映らない。
その「目立たなさ」が、今は、何よりの、味方だった。かつて、オーレリアもまた、こうして、誰にも気づかれぬまま、国を支えていたのだ。表に立たず、影で。ニナは、今、その先輩の歩んだ道を、なぞるように、進んでいた。誰にも気づかれぬまま、けれど、確かに、国の運命を、左右する役目を、果たすために。
彼女は、危険を冒して、証拠を国境の早馬まで、確かに届けた。早馬が、夜の闇へと、駆け出していく。それを見送りながら、ニナは、祈った。どうか、間に合いますように。先輩の、潔白が、証明されますように。
翌朝。
サルディアの外務府に、その証拠が、到着した。
私は、届けられた文書を、震える手で開いた。
そこには、私が在職中に残した、正確な訳の記録。そして、それが記録庫の正しい並びに収まっていることを示す、克明な記録図。ジェラルドの偽の証拠が、いかに不自然な位置に割り込まされているかが、一目で分かる。
立会人の証言書には、見覚えのある、けれど、少し成長した筆跡で――ニナの名も、記されていた。
「ニナ……」
胸が、熱くなった。涙が、滲む。
私が蒔いた、小さな言葉の種が。あの日の、何気ない励ましが。今、こうして、私を救う実りになって、返ってきた。言葉は、巡る。私が、誰かにかけた言葉が、巡り巡って、私を、救う。
私は、決して、一人ではなかった。バルト様、ニナ、そして、まだ顔も知らぬ、多くの協力者。皆が、私のために、動いてくれた。その思いの、重さ。温かさ。
ヴェルガにいた頃の私は、孤独だった。誰にも頼れず、誰にも信じてもらえず、ただ一人で、言葉と向き合っていた。けれど、今は、違う。私のために、危険を冒してくれる人がいる。私を、信じてくれる人がいる。その違いが、どれほど、大きいか。
私は、ニナの署名を、そっと、指でなぞった。あの、おどおどしていた後輩が、こんなにも、勇敢に。私が、彼女に残した言葉が、彼女を、ここまで、強くした。言葉は、人を、変える。傷つけることも、救うことも、できる。だからこそ、私は、言葉に、誠実でありたかった。その信念が、今、報われようとしている。
「殿下」
私は、顔を上げた。涙を拭い、まっすぐに、前を見て。
「証拠が、揃いました。これで、戦えます」
査問の場は、目前。すべての準備が、整った。あとは、この証拠と、私の言葉で、真実を、明らかにするだけだ。
殿下は、届いた証拠を確かめると、深く、頷いた。「これで、戦える。よくぞ、ここまで」。その声には、安堵と、私への、深い信頼が、滲んでいた。「ヴェント。明日は、私も、隣にいる。一人で、背負わなくていい」。その言葉が、私の胸を、温かく、満たした。
はい、と私は、頷いた。一人ではない。その確信を、胸に抱いて。私は、明日の戦いへと、向かう。言葉を軽んじた者たちに、言葉の真の力を、思い知らせるために。そして、私自身の、誇りを、取り戻すために。




