第45話 孤立
殿下が引き渡しを拒んだことで、宮廷の空気は、さらに張り詰めた。戦争の足音が近づく中、その決断は、あまりに、危険なものに思えた。少なくとも、多くの貴族たちには。
ロドリク侯――かつて私を認めた彼でさえ、今度は、慎重論を唱えた。
「殿下。私は、ヴェント殿の実力を認めました。それは、今も変わりません。先の交渉での働きは、見事でした。ですが、これは、別の問題です。一人の人間のために、国全体を戦争の危険に晒すのは、王太子として、正しい判断と言えるのか」
「ロドリク侯……」
「いいえ、お聞きください。殿下が、ヴェント殿に、個人的な情をお持ちであることは、もはや、宮廷の誰もが察しております。だからこそ、申し上げる。私情で、国の舵を誤ってはなりません。為政者の私情は、時に、国を、滅ぼします」
その言葉に、貴族たちの多くが、頷いた。
殿下は、孤立しかけていた。私を守るという決断が、宮廷の支持を、失わせつつあった。かつて、実力で私を認めさせた、その宮廷の信頼が、今、私のせいで、殿下から、離れていく。
私は、その様子を、苦しい思いで見ていた。
私のせいで、殿下が、追い詰められている。私を守るという、その一点のために、これまで築いてきた信頼を、すり減らしている。為政者として、最も大切な、人々の支持を。
――私さえ、いなければ。
その考えが、ふと、頭をよぎった。
私が、おとなしくヴェルガへ戻れば。あるいは、サルディアから去れば。殿下は、こんな苦境に立たされずに済む。戦争の危機も、遠のくかもしれない。私が消えれば、すべて、丸く収まるのではないか。
ヴェルガにいた頃の癖が、こんな時に、顔を出す。困難に直面すると、私はいつも、「自分が消えれば」と考えてしまう。自分の存在が、周りの負担になっていると、思い込んでしまう。それは、長年、価値を否定され続けた者の、染みついた習性だった。
その夜、私は、レナに、その思いを零した。
「私が、いなくなれば……殿下は、楽になるのかしら」
「ヴェント様!」
レナが、めずらしく、きつい声を上げた。その目には、怒りに似た、強い光が宿っていた。普段の、明るく優しい彼女からは、想像もつかない、激しさだった。それだけ、私の言葉が、彼女を、悲しませたのだろう。
「そんなこと、言わないでください。ヴェント様が身を引いたら、殿下が、どれだけ傷つくか……それに、濡れ衣も、晴れないまま。ヴェント様の名誉は、汚されたまま、終わってしまうんですよ」
「でも、私のせいで、殿下が孤立して……」
「違います」
レナは、まっすぐに私を見た。一歩も、引かずに。
「殿下は、ヴェント様を守りたくて、自分で選んで、戦っているんです。それを、『私のせい』だなんて言ったら、殿下の覚悟を、無駄にすることになります。殿下は、ヴェント様に、逃げてほしいなんて、絶対に、思っていません」
その言葉が、胸に刺さった。
私は、また、間違えようとしていた。身を引くことが、誰かのためになる、と。それは、ヴェルガにいた頃の、俯いて受け流すだけの私の、悪い癖だった。自分が消えれば、丸く収まる。そう思い込んで、逃げる癖。
逃げては、いけない。
私が身を引いても、濡れ衣は晴れない。私の言葉が汚されたまま、殿下の覚悟も無になる。それでは、誰も救われない。私が、戦うことでしか、この状況は、変えられないのだ。
それに、と私は思う。身を引くことは、結局、また「自分には価値がない」と認めることになる。私が消えた方が、皆のためになる――それは、私の存在を、邪魔者だと、決めつけることだ。せっかく、サルディアで、自分の価値を、取り戻したのに。また、あの、暗い思い込みに、逆戻りしてしまう。
いけない。私は、もう、あの頃の私では、ない。私には、価値がある。だから、逃げない。戦って、私の価値を、私の潔白を、自分の手で、証明するのだ。それこそが、私が、本当の意味で、自分を、取り戻す道だった。
「……そうね。ごめんなさい、レナ」
私は、首を振った。自分の弱さを、恥じながら。
「逃げては、いけないわね。私は、戦わなければ。自分のためにも、殿下のためにも。私の潔白を証明することが、殿下の覚悟に、報いる、唯一の道だわ」
身を引くことは、優しさではない。それは、ただの逃避だ。自分を守るための、卑怯な逃げだ。
レナは、私の手を、そっと握った。「ヴェント様なら、できます。私も、文官のみんなも、力を貸します。一人で、戦わせたりしません」。その言葉に、私の胸は、温かくなった。一人ではない。ヴェルガにいた頃の、あの孤独な戦いとは、違う。私には、信じてくれる仲間が、いる。
私は、自責の念を、闘志に変えた。
その夜、私は、これからの戦いの段取りを、一つずつ、組み立てた。バルトが、本物の記録を確保する。それを、サルディアへ届ける。そして、国家間の査問の場で、その証拠を突きつけ、捏造を暴く。一つでも、欠ければ、勝てない。けれど、一つずつ、確実に、進めていけば、必ず、道は開ける。
潔白を証明し、濡れ衣を晴らし、戦争を止める。守られるだけでなく、私自身の力で。その決意だけが、孤立する殿下に、私が報いられる、唯一の道だった。レナの言葉が、迷いかけた私の背を、力強く、押してくれた。私には、まだ、戦う理由が、ある。そして、戦うための、力も、味方も。私は、窓の外の月を見上げ、静かに、覚悟を、固めた。明日からの、長い戦いに向けて。




