第44話 引き渡さない
ヴェルガからの引き渡し要求は、サルディア宮廷に、大きな波紋を広げた。戦争の影が、現実のものとして、人々の心に、重くのしかかる。その圧力の中で、サルディア宮廷は、大きく、揺れていた。
貴族たちの中には、こう主張する者が現れた。戦争への恐怖に、駆られて。
「一通訳の身柄で、戦争が避けられるなら、安いものではないか」
「そうだ。彼女は、元はヴェルガの人間。我が国が、危険を冒してまで庇う義理はない。差し出せば、ヴェルガも、矛を収めよう」
戦争への恐怖が、人々を、私を差し出す方へと、傾けていく。無理もなかった。国境には、ヴェルガの軍が、迫っている。一人の女を引き渡すだけで、その脅威が消えるなら――そう考える者がいるのも、当然だった。
その空気の中で、殿下は、毅然と立っていた。一人、孤高に。周囲の動揺にも、恐怖にも、流されることなく。
その姿は、私が、初めて出会った日の、あの会議場での殿下を、思い出させた。決裂寸前の交渉の席で、退路を残しながら、けれど、決して屈しなかった、あの横顔を。この方は、いつだって、こうなのだ。困難の中でこそ、その芯の強さが、際立つ。
「私は、ヴェント殿を引き渡さない」
殿下は、貴族たちの前で、明言した。一切の、迷いなく。その声は、広間の隅々まで、はっきりと、響き渡った。
「彼女への告発は、捏造だ。それを承知の上で、無実の人間を、戦争を避けるための生贄として差し出す。――そんな国に、守る価値があるか。一度、無実の者を生贄にすれば、サルディアは、そういう国になる。次は、また別の誰かを、差し出すことになる」
「ですが、殿下。現実に、戦争の危機が……」
「ならば、別の道で、戦争を止める」
殿下は、引かなかった。その信念は、揺るがなかった。
「彼女を差し出して得る平和は、偽りの平和だ。正義を、恐怖に売り渡した、まやかしの平和だ。私は、そんな国の王には、なりたくない。――そして、彼女は、必ず、自らの潔白を証明する。私は、それを、信じている」
その言葉に、貴族たちは、口をつぐんだ。殿下の覚悟の前に、反論の言葉を、失っていた。
戦争を避けるためなら、一人の女を差し出せばいい。それは、一見、合理的な判断に思える。けれど、殿下は、その「合理」の奥にある、危うさを、見抜いていた。一度、正義を、恐怖に売り渡せば。一度、無実の者を、生贄にすれば。その国は、二度と、後戻りできない。次の危機が来れば、また、別の誰かを差し出す。そうして、国は、少しずつ、腐っていく。殿下が守ろうとしているのは、私一人ではなかった。サルディアという国の、魂そのものだった。
殿下は、政治的なリスクを、すべて引き受ける覚悟だった。引き渡しを拒めば、ヴェルガに開戦の口実を与えるかもしれない。宮廷内の不満も、高まるだろう。求心力も、揺らぐ。それでも、殿下は、私を守ると言った。私という、一人の人間の、尊厳のために。
その夜、私は、殿下に深く頭を下げた。
「殿下。私のために、これほどのご負担を……本当に、よろしいのですか。殿下のお立場が、危うくなります」
「当然だ」
殿下は、迷いなく答えた。
「君を見捨てることなど、できるはずがない。君は、私にとって――」
また、言葉が、途切れた。けれど、その先を、私は、もう、ほとんど、分かっていた。
その声の、まっすぐさに、私の胸は、震えた。
けれど――私はまた、その想いを、自分の中で、ねじ曲げかけた。長年の癖が、こんな時でも、顔を出す。殿下が、私を守るのは、きっと、サルディアの正義のためだ。無実の者を生贄にしない、という、王太子としての信念のため。私という人間のためではなく、「正しさ」のために、戦ってくれているのだ。
そう考える方が、私には、楽だった。
もし、殿下が、私「個人」のために、ここまでしてくれているのだとしたら。その想いに、私は、どう応えればいいのか分からない。だから、いちばん都合のいい解釈に、逃げ込んだ。――殿下は、正義のために、私を守ってくれている、と。
その誤読が、殿下の本心を、どれほど深く、すれ違わせているか。私は、まだ、気づいていなかった。いや、気づきかけていながら、最後の一線で、目を逸らしていた。
ただ、この恩に報いるためにも、必ず潔白を証明しようと、決意を新たにするばかりだった。殿下が、これほどまでに、私を信じ、守ってくれている。ならば、私は、その信頼に、結果で、応えなければならない。それが、今の私に、できる、唯一のことだった。
執務室を辞して、私は、自室への廊下を、歩いた。窓の外には、冷たい月が、浮かんでいる。その光を見ながら、私は、殿下の、言いさした言葉を、反芻していた。「君は、私にとって――」。その先を、聞きたかった。けれど、同時に、聞くのが、怖くもあった。
すべてが片付いたら。殿下は、そう言った。ならば、まずは、この濡れ衣を、晴らすこと。戦争を、止めること。それが、先だ。私情は、その後でいい。私は、自分にそう言い聞かせ、込み上げる想いを、また、胸の奥に、しまい込んだ。今は、戦いに、集中しなければ。
月明かりの下、私は、拳を握りしめた。殿下が、これほどまでに、私を信じてくれている。その信頼を、無駄には、できない。必ず、潔白を証明し、戦争を止め、そして――この恩に、報いる。それが、私の、果たすべき務めだった。冷たい月が、私の決意を、静かに、照らしていた。




