第43話 内なる良心
ヴェルガ王宮、記録庫。
老外交官バルト・オルセンは、夜陰に紛れて、その場所に立っていた。引退した身とはいえ、長年の功績ゆえ、彼には記録庫への立ち入りが、まだ許されていた。誰にも、気づかれぬように。足音を、忍ばせて。
ずらりと並ぶ、淡く光る羊皮紙の棚。その中から、彼は、オーレリアが在職中に残した訳文を、丹念に探していった。一枚、また一枚と。古い記録の中から、彼女の仕事の痕跡を、辿るように。
リンドルとの条約。北方諸国との書簡。海洋同盟との取り決め。そのどれもが、正確で、美しい訳だった。表の意味の裏を読み、相手の真意を過たず映し取った、職人の仕事。一語の選び方に、彼女の、言葉への誠実さが、滲んでいた。
バルトは、それらの記録を見るたびに、胸が痛んだ。これほどの才を、ヴェルガは、自ら手放したのだ。「口寄せ役」と侮り、追い出した。そして、彼女がいなくなった途端、国の外交は、音を立てて崩れた。それでもなお、彼らは、過ちを認めず、その責任を、彼女になすりつけようとしている。なんという、愚かさ。なんという、卑劣さ。
老外交官の胸に、静かな怒りが、燃えていた。彼は、長い外交人生で、数えきれぬほどの、駆け引きを見てきた。けれど、これほど、見るに堪えぬ所業は、なかった。無実の者に罪を着せ、自らの保身を図る。それは、外交の世界の、最も卑しい部分だった。
「……やはり、君の訳は、一つの誤りもない」
バルトは、感嘆の息を漏らした。
長年、外交の場にいた彼には、分かる。これほどの訳ができる者は、稀だ。オーレリアは、まさに、稀代の通訳官だった。それを、ヴェルガは、軽んじ、追い出した。その愚かさを、バルトは、改めて、嘆いた。
そして、彼は、確かめた。これらの本物の記録は、当時の他の記録と、正しい順番で並んでいる。整然と、寸分の狂いもなく。一方、ジェラルドが「証拠」として持ち出した偽の文書は――記録庫の、不自然な位置に、後から押し込まれたように置かれていた。並びが、明らかに、飛んでいる。本物の記録の連なりの中に、無理やり、ねじ込まれている。
本物は、整然と。偽物は、割り込んで。
その違いは、一目で分かった。記録の魔法の、厳格な秩序が、ジェラルドの偽装を、暴いていた。
「これが、動かぬ証拠だ。記録の魔法は、嘘をつかぬ。ジェラルドよ、お前の小細工も、この厳格な秩序の前では、無力だ」
バルトは、独りごちた。長年、言葉と記録に携わってきた者として、その秩序の厳しさを、誰よりも、知っていた。
バルトは、本物の記録の位置と、前後の並びを、克明に書き写した。そして、信頼できる立会人を立て、その記録庫の状態を、正式に証言できるよう手配した。これさえあれば、オーレリアの潔白は、証明できる。
だが、その作業の最中。
背後で、足音がした。
「……バルト殿。こんな夜更けに、何を?」
ハーヴェイ院長だった。バルトの動きを、警戒していたのだ。
バルトは、振り返り、静かに老人を見据えた。長年、同じ宮廷で過ごしてきた、旧知の相手を。
「ハーヴェイ殿。あなたは、自分が何をしているか、分かっているのか」
「な、何のことだか」
「オーレリアに、無実の罪を着せ、その口を封じるために、記録を歪めようとしている。――外交に生きた者として、恥を知りなさい」
ハーヴェイは、青ざめた。
「わ、私は……ジェラルド殿が……私だって、本当は……」
その声は、震えていた。保身のために罪に加担しながら、心のどこかで、彼自身も、それが間違いだと、分かっていたのだ。良心の呵責に、彼は、苦しんでいた。
「あなたとて、本当は、分かっているはずだ」
バルトは、続けた。
「オーレリアが、誤訳など、するはずがない。彼女ほど、言葉に誠実な者は、いなかった。あなたも、長年、彼女の仕事を、見てきた。その正確さを、誰よりも、知っているはずだ。なのに、その彼女に、無実の罪を着せる。それが、どれほどの、罪か」
ハーヴェイの肩が、震えた。
「まだ、引き返せる」
バルトは、静かに言った。責めるのではなく、諭すように。
「真実を、明らかにしなさい。それが、外交を預かった者の、最後の責任だ。今ならば、まだ、間に合う。あなたが、自らの手で、過ちを正すのだ」
ハーヴェイは、何も言えずに、立ち尽くした。
その心の中で、保身と良心が、激しくせめぎ合っていた。地位を守りたいという欲と、これ以上、罪を重ねたくないという、外交官としての、最後の矜持と。
「私は……少し、考えさせてほしい」
ハーヴェイは、絞り出すように、そう言って、立ち去った。その背中は、長年の保身で凝り固まった老人のものというより、深く、迷い、苦しむ、一人の人間のものだった。バルトの言葉は、確かに、彼の心の奥底に、届いていた。眠っていた良心を、揺り起こしていた。
バルトは、その背を、静かに見送った。彼を、責める気には、なれなかった。保身に屈する弱さは、誰の心にも、潜んでいる。ただ、最後の一線で、踏みとどまれるかどうか。それが、人を、分ける。ハーヴェイが、どちらを選ぶか。それは、まだ、分からなかった。
バルトは、確保した証拠を、ひそかにサルディアへ送る手筈を整えた。
ヴェルガの内側に、まだ、良心は残っていた。私を救うための糸が、国境を越えて、確かに、伸び始めていた。そして、その糸は、思わぬ協力者によって、さらに、太く、強く、結ばれていくことになる。




