第41話 偽りの構図
濡れ衣を晴らすため、私はまず、敵が仕掛けた罠の構図を、解き明かすことから始めた。
ヴェルガが証拠として提出した「私の誤訳」とされる文書。それを、繰り返し、繰り返し、読み込んだ。一語一語を、丹念に、分析しながら。
そして、確信した。これは、私の訳では、断じてない、と。
「この文書の訳……稚拙すぎます」
私は、殿下に、写しを示した。
「リンドルの慣用句を、字義通りに訳している。これは、私の癖ではありません。むしろ――私の後任が、リンドルとの対立を引き起こした、あの誤訳の癖そのものです。言葉の選び方、語順、訳語の硬さ。すべてが、後任のものと、一致しています」
「つまり?」
「彼らは、後任が犯した実際の誤訳を、『私が在職中に残したもの』として、日付を偽装したのです。後任の失策を、私になすりつけた。実際に起きた誤訳の責任を、その誤訳を防げたはずの私に、押しつけている」
言葉には、書いた者の、指紋のような癖が、必ず残る。どれほど巧妙に偽装しても、訳語の選び方、文の組み立て方、慣用句の扱い方――そこに、その人間の流儀が、滲み出る。私は、長年、無数の言葉と向き合ってきた。だからこそ、分かる。この偽文書を訳したのは、私ではない。後任の青年だ。それは、私にとっては、火を見るより明らかだった。
けれど、その「明らかさ」は、私にしか分からない。言葉の癖を見分ける目を持たぬ者には、ただの主張にすぎない。客観的な証拠が、要る。それも、誰の目にも、覆しようのない、動かぬ証拠が。
構図が、見えてきた。私は、その倒錯した論理を、殿下に説明した。
「ヴェルガは、後任の誤訳が混乱の原因だと、内心では分かっています。けれど、それを認めれば、私を切り捨てた判断の誤りも、明るみに出る。私を『口寄せ役』と侮り、追い出したことが、すべての始まりだったと、認めることになる。だから、混乱の原因を、追い出した私の『過去の誤訳』に、すり替えた。私さえ悪者にすれば、彼らの判断は、正しかったことになる」
「なんという、倒錯だ」
殿下が、眉をひそめた。
「ええ。けれど、証明は、容易ではありません」
私は、唇を噛んだ。
「私が在職中に残した、本物の正確な訳。それが、ヴェルガの記録庫に残っているはず。それを示せば、『私の訳は正確だった』『この偽文書は捏造だ』と証明できます。けれど――」
「ヴェルガが、その本物の記録を、隠すか、消すか、しているだろうな」
殿下が、後を引き取った。
「ええ。記録の魔法は、書き換えられない。けれど、『隠す』ことは、できます。本物の記録を、誰の目にも触れぬよう、封じてしまえば――偽の証拠だけが、表に残る。ジェラルドは、おそらく、それを、やっています」
敵は、それを狙っている。本物を隠し、偽物を表に出す。記録が改竄できないなら、改竄できる「見せ方」を、操作する。巧妙な、けれど、確かに穴のある計画だった。
「では、本物の記録を、どうにかして、表に出さねばならない」
「はい。ですが、私には、ヴェルガの記録庫に立ち入る術が、ありません。私はもう、あの国の人間ではない。記録庫は、厳重に守られています。どうやって、本物の記録を、表に出すか――それが、最大の難関です」
行き詰まりかけた。けれど、私は、諦めなかった。必ず、道はある。記録の魔法が、私の味方をしてくれるはずだ。なぜなら、それは、嘘をつかないのだから。真実を、永遠に、刻み続けるのだから。
ジェラルドは、本物を「隠す」ことはできても、「消す」ことは、できない。記録の魔法とは、そういうものだ。どこかに、必ず、私の正しい訳が、眠っている。それを、信頼できる誰かが、見つけ出してくれさえすれば。
けれど、ヴェルガに、私の味方など、いるだろうか。私を切り捨てた、あの国に。そう思いかけて、私は、一人の老外交官の顔を、思い浮かべた。私が新人だった頃、唯一、私の訳を「正確だ」と褒めてくれた人。私が国を去る時、「自分の価値を、自分で認めなさい」と言ってくれた人。
もし、あの方が。バルト様が、まだ、私を信じてくれているなら。淡い期待が、胸に灯る。けれど、もう何ヶ月も、便りはない。あの方も、崩れゆく母国の中で、苦境に立たされているかもしれない。
それでも、私には、あの方しか、頼れる人が、思い浮かばなかった。ヴェルガの記録庫に立ち入れて、なおかつ、私を信じてくれる人。それは、バルト様を、おいて、ほかにいない。
届くかどうかも分からない手紙を、書こうか。そう思いかけた、まさにその時だった。運命のように、あの方からの密書が、私のもとへ、届いたのは。
その時。
外務府に、一通の密書が届いた。差出人の名を見て、私は、はっと息を呑んだ。
懐かしい、けれど、力強い筆跡。それは――バルト・オルセン。ヴェルガに残る、ただ一人の、私の理解者からだった。
私が国を去ってもなお、私の正しさを、信じてくれている人。その人からの密書を、私は、震える手で、開いた。そこに、活路があることを、祈りながら。
封を切る指が、もどかしい。この密書が、私の運命を、左右するかもしれない。希望なのか、それとも、新たな絶望なのか。祈るような気持ちで、私は、便箋を、広げた。
懐かしい筆跡が、目に飛び込んでくる。その一文字目を読んだ瞬間、私の目に、じわりと、涙が滲んだ。あの方は、まだ、私を、信じてくれていた。




