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王宮筆頭通訳官を辞めた翌朝、二国間の会話はすべて噛み合わなくなった  作者: ヲワ・おわり


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40/70

第40話 守られるだけでは

全70話で完結予定です。毎日5話ずつ、7:10 / 12:10 / 17:10 / 20:10 / 22:10 に投稿します。

面白いと思っていただけましたら、評価で応援してもらえると励みになります。

 その夜、殿下が、私の執務室を訪れた。

 その表情は、これまで見たどんな時よりも、険しかった。けれど、その奥には、私を案じる、確かな温もりが、あった。

「ヴェント。ヴェルガの要求は、断る」

 殿下は、開口一番、そう言った。挨拶も、前置きもなく。それだけ、急いで、私に伝えたかったのだろう。私が、不安に苛まれていることを、見抜いていたのかもしれない。

「君を引き渡すなど、あり得ない。あの告発は、明らかな捏造だ。君が、あんな稚拙な誤訳をするはずがない。私が、誰より知っている。君の訳が、どれほど正確で、どれほど心が込められているか」

 その断言が、震える私の心を、支えた。誰かが、私を信じてくれている。それだけで、こんなにも、心強い。

 ヴェルガでは、こうではなかった。私が、どれほど正確に訳しても、誰も、それを信じてはくれなかった。成功すれば外交官の手柄、失敗すれば通訳の落ち度。私の言葉は、いつも、疑いの目で見られていた。

 けれど、この方は、違う。「君が、あんな稚拙な誤訳をするはずがない」と、迷いなく、言い切ってくれる。私の仕事を、私の人格を、誰よりも、深く理解してくれている。その信頼が、どれほど、得難いものか。

「ですが、殿下。引き渡しを断れば、ヴェルガは、それを口実に、戦争を……。私のために、サルディアを、危険に晒すことになります」

「構わない」

 殿下は、きっぱりと言った。迷いの、欠片もなかった。

「君を犠牲にして得る平和など、私は望まない。たとえ、政治的にどれほどの代償を払うことになろうと――君を、守る」

 その言葉に、胸が、震えた。

 君を、守る。それは、有能な人材を守る言葉ではなかった。もっと、個人的で、まっすぐな――。けれど、私はまだ、それを「政治的な配慮」と完全に切り離して、受け取ることができずにいた。長年の癖が、また、顔を出す。きっと、殿下は、サルディアの正義のために、不当な要求に屈しないだけだ。無実の者を、生贄にしない、という信念のために。そう、思おうとした。

 けれど、それ以上に、私の中で、別の決意が、固まっていた。

「殿下。お言葉は、ありがたく存じます。けれど――私は、守られるだけでは、嫌なのです」

「ヴェント?」

「私は、自分の手で、この濡れ衣を晴らしたい」

 私は、まっすぐに殿下を見た。その目を、まっすぐに、見返して。

「殿下に守られて、危機を逃れることはできるかもしれません。けれど、それでは、『私が誤訳した』という疑いは、永遠に残ります。私の言葉が、汚されたまま。私の誇りが、踏みにじられたまま。――それだけは、耐えられません」

 言葉に誠実であることは、私の誇りだ。それは、私が、ヴェルガで否定され続けても、決して手放さなかった、たった一つのもの。その誇りを、捏造で汚されたまま、誰かに守られて生き延びるなど、できない。それでは、生き延びても、私は、私でなくなってしまう。

「私は、私自身の力で、潔白を証明します。逃げも、隠れも、しません。公の場で、私の言葉が、決して誤っていなかったことを、証明してみせます。そして、誰が、何のために、この罠を仕掛けたのかも、明らかにします」

 殿下は、しばらく、私を見つめていた。

 その目に、驚きと、それから――深い、敬意のような色が、浮かんだ。私の覚悟を、受け止めるように。

「……君は、本当に、強い人だな」

 殿下は、静かに言った。その声には、感嘆が、滲んでいた。

「失敗から立ち直り、濡れ衣を着せられてもなお、自分の足で立とうとする。守られることを、良しとしない。――その強さに、私は」

 殿下は、また、言葉を、飲み込んだ。けれど、今度は、その先を、無理に隠そうとはしなかった。ただ、静かに、微笑んだ。

「分かった。ならば、私は、君が戦うための場を、整えよう。君が、潔白を証明できる、公正な場を。――国家間の、正式な査問の場を。そこでなら、君は、君の言葉で、戦える」

「ありがとうございます、殿下」

 私は、深く頭を下げた。胸が、熱かった。

 恐怖は、まだ消えていなかった。けれど、それ以上に、闘志が、私の中で燃えていた。守られる側から、自ら戦う側へ。私は、また、一歩、踏み出す。

 殿下が去ったあと、私は、一人、執務室に残った。

 恐ろしくないと言えば、嘘になる。ヴェルガに引き渡されれば、待っているのは、見せしめの処刑かもしれない。サルディアでも、私を差し出すべきだという声が、上がるだろう。私の立場は、これ以上ないほど、危うかった。

 けれど、それでも、私は、逃げないと決めた。逃げれば、私の言葉は、汚されたままになる。私が、人生をかけて守ってきた、たった一つの誇りが。それだけは、絶対に、譲れなかった。

 私は、窓辺に立ち、北の空を見上げた。あの空の向こう、ヴェルガの記録庫に、私の本物の訳が、眠っている。記録の魔法によって、書き換えられることなく、永遠に。それが、私の潔白を、証明してくれる。あとは、それを、どうやって、表に出すか。

 濡れ衣を晴らす鍵は、必ず、ある。私の正しい訳は、消えていない。あの、永遠に書き換えられぬ――記録の魔法の中に。あの文書庫で、殿下と交わした言葉を、私は、思い出していた。記録は、嘘をつかない、と。

 その言葉が、今、希望の灯となって、私の胸を、照らしていた。どんなに暗い夜でも、その灯さえあれば、私は、進める。私は、拳を握りしめ、来るべき戦いに、思いを馳せた。

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