第39話 濡れ衣
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その告発は、青天の霹靂だった。
ヴェルガの使者が、サルディア王宮に、正式な文書を提出した。その内容に、外務府は騒然となった。安堵に包まれていた空気が、一瞬で、凍りついた。
「ヴェルガは、こう主張しています。――両国関係の崩壊、リンドルとの対立、そして此度の戦争危機。そのすべての元凶は、オーレリア・ヴェントが、ヴェルガ在職中に残した『誤訳』にある、と」
その報告に、私は、自分の耳を疑った。
「誤訳……? 私の?」
「はい。ヴェルガは、ヴェント殿が意図的に、あるいは過失で、重要な条約や書簡を誤って訳した。それが、後の混乱の種を蒔いた、と。証拠の文書も、添えられています」
差し出された写しを、私は震える手で受け取った。
そこには、確かに「私が訳した」とされる文書があった。リンドルとの条約の、一節。けれど、その訳は――明らかに、誤っていた。私なら、決して選ばない、稚拙な字義訳。リンドルの慣用句を、そのまま、字義通りに訳した、あの誤り。
「こんなもの、私は訳していません……!」
声が、上ずった。
「これは、偽物です。私の訳ではない。私は、こんな誤りを犯したことは、一度も――」
けれど、言いながら、私は血の気が引いていくのを感じた。
偽物だと、どう証明する? 私が訳したのではないと、どうやって?
ヴェルガは、私が反論できないことを、見越している。私はもう、ヴェルガの人間ではない。あの国の記録庫に、自由に立ち入ることもできない。私の正しい訳がどこにあるのか、確かめる術がない。卑劣な、けれど、巧妙な罠だった。
しかも、この字義訳の癖。これは――私の後任が犯した、あの誤訳の癖そのものだ。後任が実際に犯した過ちを、私のものとして、すり替えている。なんという、倒錯。実際に誤訳を防げたはずの私に、その誤訳の責任を、着せようとしている。
すべてが、見えてきた。彼らは、自らの過ちを認められず、その責任を、追い出した私に、なすりつけようとしている。私を切り捨てた判断が、間違っていたと認めれば、自分たちの非が、明らかになる。だから、混乱の原因を、すべて、私の「過去の誤訳」に、すり替えた。私さえ悪者にすれば、彼らは、傷つかずに済む。
なんて、卑怯な。怒りが、こみ上げる。けれど、ここで感情的になっては、相手の思う壺だ。私は、深く息を吸い、込み上げる怒りを、静かに、抑え込んだ。冷静に。冷静に、対処しなければ。感情に流された読みは、必ず、誤る。あの失敗で、私は、それを学んだはずだ。
私は、写しを、もう一度、丹念に読み返した。誤訳の内容、文体、言葉の選び方。そのすべてが、私のものではないと、私には、分かる。私の訳には、私の癖がある。リンドルの慣用句を、決して字義通りには訳さない、私なりの流儀が。この偽文書には、それがない。むしろ、後任の、あの稚拙な癖が、色濃く残っている。
けれど――それを、どう、他人に証明すればいいのか。「これは私の癖ではない」と言ったところで、それは、私の主張にすぎない。客観的な、動かぬ証拠が、要る。私の訳が、本当はどうだったのかを、示すものが。
ロドリク侯が、難しい顔で言った。
「これが事実なら、由々しき事態だ。だが、もし濡れ衣なら、ヴェルガの卑劣な策謀ということになる」
貴族たちの間に、動揺が走った。せっかく、和平の糸口が見えたところに、この告発。事態は、再び、混迷を深めていく。
「いずれにせよ、ヴェルガは、この告発を盾に、要求してきています。――『元凶であるヴェント殿の身柄を、ヴェルガに引き渡せ』と」
引き渡し。
その言葉に、私は凍りついた。
ヴェルガに戻されれば、どうなるか。濡れ衣を着せられ、すべての責任を負わされ、見せしめにされるだろう。あの国に、私を公正に裁く気など、ない。私は、彼らの保身のための、生贄にされる。
そして――サルディアの貴族の中には、戦争を避けるために、私を差し出すべきだと考える者も、出てくるだろう。一通訳の身柄で戦争が避けられるなら、安いものだと。その計算が、成り立ってしまう。
私は、絶体絶命の窮地に、立たされた。
言葉に、誠実であろうとしてきた。それだけが、私の誇りだった。誰にも見られなくても、正確であろうと、心を砕いてきた。なのに、その言葉を、捏造され、武器にされ、私自身を陥れる罠にされている。私が最も大切にしてきたものを、踏みにじられている。
悔しさと、恐怖が、込み上げた。膝が、震えそうになる。
けれど――俯いている場合では、なかった。
私は、ぐっと顔を上げた。失敗から立ち直ったあの時のように。ここで、崩れてはいけない。
この濡れ衣を、晴らさなければ。どんな手を使ってでも。私の言葉の、誇りにかけて。私は、罠を仕掛けた者たちの悪意を、必ず、暴いてみせる。そう、固く、決意した。
動かぬ証拠。それを、どこで、見つければいいのか。私の本物の訳は、ヴェルガの記録庫にある。けれど、私には、もう、そこへ立ち入る術がない。ジェラルドは、それを見越して、この罠を仕掛けたのだ。
けれど――必ず、道はあるはずだ。記録の魔法は、書き換えられない。私の正しい訳は、消されることなく、必ず、どこかに、残っている。それを、表に出す方法さえ、見つかれば。
私は、思考を巡らせた。恐怖に、震えている場合ではない。これは、私の言葉と、誇りをかけた、戦いなのだから。冷静に、知恵を尽くして、この窮地を、切り抜けてみせる。窓の外を見つめる私の目には、もう、怯えではなく、闘志が、宿っていた。




