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王宮筆頭通訳官を辞めた翌朝、二国間の会話はすべて噛み合わなくなった  作者: ヲワ・おわり


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37/70

第37話 飲み込まれた言葉

全70話で完結予定です。毎日5話ずつ、7:10 / 12:10 / 17:10 / 20:10 / 22:10 に投稿します。

面白いと思っていただけましたら、評価で応援してもらえると励みになります。

 交渉を終えた夜、殿下が、私の執務室を訪れた。

 扉が開く音に振り向くと、そこに、殿下が立っていた。その顔は、いつになく、晴れやかだった。

「見事だった、ヴェント」

 その声には、抑えきれない喜びが、滲んでいた。まるで、自分のことのように。

「殿下」

「君は、自分の力で、失敗を取り返した。ロドリク侯さえ、君を認めた。誰に守られることもなく、自分の足で、立ち直ってみせた。――誇らしいよ」

「殿下が、信じてくださったおかげです。あの時、見限られていたら、私は、立ち直れませんでした」

 私は、頭を下げた。けれど、殿下は、首を振った。

「いや。私が信じたのは、当然のことをしたまでだ。立ち直ってみせたのは、君自身の力だ。私は、ただ、君が立ち上がるのを、待っていただけだ」

 殿下は、一歩、私に近づいた。

 執務室には、私たち二人きり。燭台の灯が、二人の影を、壁に長く伸ばしていた。窓の外は、すっかり夜の帳が下りている。静寂が、二人を、包んでいた。

「ヴェント。……私は、君に、伝えたいことがある」

 殿下の声が、いつもと違った。低く、けれど、どこか必死な響きがあった。

 私の心臓が、跳ねた。レナの話が、頭をよぎる。あの方が言いかけて飲み込む言葉。その続きを、今度こそ、聞けるのだろうか。胸が、痛いほど、高鳴る。

 この数日で、私の中の何かが、変わっていた。失敗し、立ち直る中で、私は、自分の弱さも、強さも、まっすぐに見つめるようになった。そして――自分の心の真意からも、もう、目を逸らせなくなっていた。私は、この人が、好きだ。その答えは、もう、胸の中で、はっきりとした形を、取り始めていた。

 だからこそ、殿下が何を言おうとしているのか、知りたかった。もし、それが、私の想いと同じものなら。考えるだけで、息が、苦しくなる。

「君が、失敗して、自分を責めていたとき。私は……君が思う以上に、君のことが」

 殿下の言葉が、そこで、止まった。

 私を見つめる青い瞳が、揺れていた。何かを、伝えようとして。けれど、その先を、口にできずにいる。あと一言。あと一言で、何かが、決定的に変わる。その予感に、私は、息を、詰めた。

「殿下……?」

「――いや」

 殿下は、目を伏せた。そして、苦しげに、言葉を飲み込んだ。

「すまない。今は、言うべきではないな」

 その声には、深い、自制の苦しみが、滲んでいた。言いたいことを、立場ゆえに、飲み込む。その葛藤が、痛いほど、伝わってきた。

「なぜ、です」

 思わず、私は問うていた。自分でも、驚くほど、強い声で。その続きを、聞きたかった。心の底から。

 殿下は、窓の外、北の空を見た。

「戦争の危機が、まだ去っていない。和平の糸口は掴んだが、決着には、至っていない。王太子として、私情を優先できる時ではない。……君に伝えたいことは、すべてが片付いてから、改めて。今は、それまで、待ってほしい」

 その横顔には、立場と感情の間で引き裂かれる、苦しみがあった。言いたいことを、言えない。その苦しみが、痛いほど、伝わってきた。

 私は、胸が締めつけられた。

 言いかけて、また、飲み込まれた言葉。その続きを、私はもう、ほとんど確信しかけていた。けれど――殿下が、それを言えない理由も、分かってしまう。今は、戦争を止めることが、何よりも先だ。

 私情を、後回しにする。それは、王太子としての、正しい判断だった。立派な、けれど、もどかしい判断だった。

 なのに、私の胸は、もどかしさで、張り裂けそうだった。あと一言。あと一言で、私たちは、互いの真意を、訳し合えるのに。これほど近くにいて、これほど想い合っているかもしれないのに、私たちは、まだ、その一線を、越えられずにいる。

 他人の言葉なら、こんなにも、はっきりと読めるのに。いざ、自分のことになると――私はまだ、その「あと一言」を、自分から口にする勇気を、持てずにいた。殿下が言えないなら、私が言えばいい。そう思うのに、できなかった。

「……承知しました、殿下」

 私は、それだけ言って、頭を下げた。込み上げる想いを、私もまた、飲み込んで。

 二人の間に、言葉にならない想いだけが、濃く、静かに、漂っていた。

 すべてが片付いたら。その約束だけを、胸に抱いて。私たちは、それぞれの想いを、まだ、訳されぬまま、心の奥に、しまい込んだ。

 殿下が去ったあと、私は、しばらく、その場に立ち尽くしていた。胸の高鳴りが、なかなか、鎮まらない。「君のことが」。その続きを、私は、ほとんど、確信していた。あの、必死な声音。揺れる瞳。あれは、もう、「有能な部下への評価」では、説明がつかない。

 ならば、なぜ、私は、こんなにも、もどかしいのだろう。答えは、簡単だった。私もまた、自分の想いを、伝えられずにいるから。殿下が言えないなら、私が言えばいい。けれど、その勇気が、まだ、足りない。叶うかもしれない恋を前に、私は、臆病なまま、立ちすくんでいた。

 すべてが片付いたら。その日が、来たら。今度こそ、私は、自分の心の真意を、まっすぐに、訳そう。そう、静かに、決意した。窓の外の星に、誓うように。

 不思議だった。他人の言葉の裏なら、あれほど恐れずに覗き込めるのに。自分の想いを口にすることだけは、これほど、勇気がいる。けれど、殿下もまた、同じ場所で、立ちすくんでいるのだ。言葉にすることの難しさを、誰よりも知る二人が、互いに、その一言を、抱えたまま。なんて、不器用な二人だろう。けれど、その不器用さが、今は、なぜか、愛おしかった。

 けれど、その「すべてが片付く」までの道のりに、どれほどの試練が待っているか。このときの私たちは、まだ、知らずにいた。

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