第33話 信じる
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「――ヴェント」
殿下の声に、私は顔を上げられずにいた。
叱責されるのだろうか。失望させてしまったのだろうか。私の読み違いが、サルディアを危機に陥れた。当然の報いだ。何を言われても、仕方がない。私は、覚悟して、その言葉を、待った。
けれど、殿下の口から出たのは、まったく別の言葉だった。
「顔を上げろ」
穏やかな、けれど、有無を言わせぬ声だった。
私が、おそるおそる顔を上げると、殿下は、まっすぐに私を見ていた。その目に、責める色は、なかった。むしろ、いつもと変わらぬ、深い信頼が、宿っていた。
なぜ、と私は思った。私は、あなたの信頼を、裏切ったのに。あなたは、私の読みを信じて、国境の守りを緩め、その結果、サルディアを危機に陥れた。失望して、当然なのに。怒って、当然なのに。なのに、なぜ、そんな目で、私を見るのですか。
その問いは、声にならなかった。ただ、殿下の、揺るがぬ眼差しの前で、私は、立ち尽くすことしか、できなかった。
「君は、誤った。それは事実だ」
殿下は、貴族たちにも聞こえるよう、はっきりと言った。
「だが、その誤りは、ヴェルガが意図的に文書を歪め、君を陥れようとした結果だ。彼らは、君が真意を読むことを、警戒した。だからこそ、君だけを標的に、言葉の罠を仕掛けた。誰が読んでも、見抜くのは困難だった。それを、君一人の罪とするのは、筋が違う」
「ですが、私は……」
「ヴェント」
殿下は、私の言葉を、優しく遮った。
「一度の誤りで、君の価値が変わると思うか。――私は、思わない」
その一言が、崩れかけた私の心を、しっかりと支えた。冷たい水の底に沈みかけていた私を、誰かが、すくい上げてくれたような。たった一言。けれど、その一言に、どれほどの重みが、込められていたか。私の半生を、否定し続けてきた言葉を、たった一言で、覆すような。
「君は、これまで、いくつもの交渉を救ってきた。多国間の難局も、リンドルとの仲裁も、君の言葉がなければ、まとまらなかった。たった一度、敵の罠に嵌ったからといって、その積み重ねが、消えるわけではない。君が成してきたことは、消えはしない」
殿下は、ロドリク侯の方を見た。その視線は、鋭かった。
「ロドリク侯。一度の失敗で人を切り捨てるなら、それは実力主義ではない。ただの臆病だ。本当に有能な者は、失敗から立ち直る。そして、より強くなる。私は、彼女が立ち直るところを、見届けたい」
ロドリク侯は、苦々しげに口をつぐんだ。反論の言葉を、探しているようだったが、見つからなかったのだろう。
私は、殿下の言葉を、震えながら聞いていた。
信じてくれている。一度の失敗で、見限らずに。私の積み重ねてきたものを、ちゃんと見てくれている。失敗した私を、それでもなお、信じてくれる人が、ここにいる。
胸が、熱くなった。涙が、込み上げそうになる。
けれど――同時に、私はまだ、その温かさを、完全には受け取りきれずにいた。長年の癖は、こんな時でも、抜けなかった。
殿下が私を信じてくれるのは、「有能だから」かもしれない。期待しているから、立ち直ることを求めている。それは、優しさであると同時に、有能な人材への、合理的な判断でもある。そう思う癖が、まだ、抜けなかった。
けれど。
今は、その温かさに、すがりたかった。理屈ではなく、ただ、その信頼に、応えたかった。失敗で崩れかけた私を、支えてくれた、この人のために。
「……ありがとう、ございます、殿下」
私は、深く頭を下げた。込み上げる涙を、必死に堪えて。
「立ち直ってみせます。必ず、この失敗を、取り返します。私の言葉で、犯した過ちを、私の言葉で、償います」
殿下が、かすかに微笑んだ。
「ああ。君なら、できる。私は、知っている」
その信頼に応えるために。私は、もう一度、立ち上がる決意を固めた。
崩れかけた自信を、今度は、自分の力で、立て直すのだ。守られるだけでは、終わらない。失敗から学び、より確かな読みで、戦争を止めてみせる。それが、私を信じてくれた、この人への、何よりの恩返しだ。
その夜、私は、一人になってから、ようやく、涙を流した。
悔しさの涙ではなかった。失敗の悲しみでも、なかった。それは――救われた、安堵の涙だった。失敗した私を、それでも信じてくれる人がいる。その事実が、どうしようもなく、胸を、熱くした。
ヴェルガでは、私が何をしても、評価されなかった。成功すれば当たり前、失敗すれば責められる。誰も、私を、信じてはくれなかった。けれど、ここには、いる。失敗してもなお、私を信じ、立ち直ることを、待ってくれる人が。
その信頼に、私は、応えたい。心の底から、そう思った。
涙を拭い、私は、まっすぐに前を見た。絶望は、もう、消えていた。代わりに、静かな闘志が、胸に灯っていた。
――必ず、立ち直ってみせる。あなたの信頼に、報いるために。そして、戦争を、止めるために。
窓の外では、夜が、静かに更けていた。星々が、変わらぬ光で、瞬いている。あの星の下、ヴェルガでも、誰かが、戦争への不安を抱えて、眠れぬ夜を過ごしているのだろう。国境の村で。王宮の片隅で。私は、その人々のためにも、もう一度、立ち上がらなければならない。
殿下が、信じてくれた。ならば、その信頼に、応えるだけだ。失敗は、終わりではない。むしろ、ここからが、本当の始まりだ。私は、より冷静に、より確かに、ヴェルガの真意を、読み解いてみせる。
私は、もう一度、文書の山へと、向き直った。今度は、焦りではなく、冷静さを、胸に抱いて。




