第32話 読み違い
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幾晩も、文書と格闘した末、私はようやく、ヴェルガの真意を、一つ読み取った。
《ヴェルガは、サルディアが先に兵を引けば、矛を収める用意がある》
攪乱された文面の、ある一節。回りくどい言い回しの奥に、私はそう読んだ。ヴェルガは、面子さえ立てば、戦争を避けたがっている。だから、サルディアが先に譲歩を示せば、収まる、と。
疲労の極みにあった私は、その読みに、すがりついた。早く、戦争を止めたい。その焦りが、私の判断を、曇らせていたことに、気づかぬまま。
「殿下。ヴェルガは、サルディアの先行譲歩を待っています。こちらが国境の守りを緩めれば、向こうも引きます」
その私の読みを信じ、殿下は、国境の守備を一部、後退させた。和解の意思を示すために。私の読みを、全面的に、信頼して。
だが――。
結果は、最悪だった。
サルディアが守りを緩めた途端、ヴェルガは、それを「弱気の証」と受け取り、かえって態度を硬化させた。国境の兵を、さらに前進させてきたのだ。和解どころか、戦争は、一気に、近づいた。
「な……っ」
報せを聞いて、私は血の気が引いた。指先が、冷たくなる。
読み違えた。
あの一節は、「サルディアが兵を引けば、矛を収める」ではなかった。攪乱の中に紛れた、偽りの一節だったのだ。敵が、わざと、私に読ませるために、仕込んだ罠。私は、それに、まんまと嵌った。本当のヴェルガの意図は――「サルディアの譲歩を引き出し、その隙を突く」ことだったのだ。
私の読みが、サルディアを、不利な立場に追い込んだ。私の言葉が、戦争を、近づけてしまった。
「申し訳、ございません……!」
私は、殿下の前で、深く頭を下げた。声が、震えていた。
「私の、読み違いです。私が、攪乱を見抜けなかったばかりに、サルディアを、危機に陥れました……」
誰よりも正確であろうとしてきた。それが、私の誇りだった。なのに、肝心な場面で、誤った。最も大切な時に、最も大きな誤りを犯した。その事実が、足元から、私を崩していくようだった。
ロドリク侯が、ここぞとばかりに声を上げた。
「やはり、他国の通訳に、重要な判断を委ねるべきではなかったのだ! 彼女の誤りが、サルディアを危機に陥れた! これが、何よりの証拠だ!」
貴族たちが、ざわつく。私を見る目に、不信が混じる。せっかく、実力で勝ち取った信頼が、たった一つの誤りで、崩れていく。
私は、俯いたまま、唇を噛んだ。
反論の言葉は、なかった。私は、確かに、誤ったのだから。言い訳のしようも、なかった。
言葉を読むのは、神業ではない。情報が歪められ、文脈が足りなければ、私とて、読み損なう。その当たり前の限界を、私は、最も大事な場面で、思い知らされた。自分の力を、過信していたのかもしれない。両国の和解を、いくつも成功させてきて、どこかで、慢心していたのかもしれない。
なぜ、見抜けなかったのだろう。何度も、自分を責めた。けれど、答えは、分かっていた。焦っていたのだ。早く戦争を止めたいという思いが、強すぎた。だから、「サルディアが譲歩すれば収まる」という、自分にとって都合のいい読みに、飛びついてしまった。それが、罠だと、見抜けなかった。
言葉を読むということは、冷静さを、必要とする。相手の言葉を、自分の願望から切り離し、ただ、ありのままに、読み解く。その鉄則を、私は、最も大切な場面で、破ってしまった。願望が、読みを、歪めた。
殿下は、言ってくれていた。「焦って読み違えるより、確実に読む方が、ずっといい」と。あの忠告を、私は、聞き流した。その報いが、今、この最悪の結果として、返ってきている。
胸の中で、ヴェルガ時代の声が蘇る。
――お前はただ、言葉を右から左に流すだけの口寄せ役だろう。
あれほど、違うと言い返してきた。私の仕事には、価値があると。なのに、今の私は、その価値を、自分で裏切ってしまった。あの侮蔑の言葉を、自分で、証明してしまったような気がした。
自信が、音を立てて、崩れていく。せっかく取り戻した、自分への信頼が。サルディアで、少しずつ積み上げてきた、自分の価値への確信が。たった一つの誤りが、そのすべてを、無に帰してしまうように思えた。
私は、また、価値のない人間に戻ってしまうのだろうか。ヴェルガで、俯いていた、あの頃の私に。誰にも必要とされず、ただ、隅で震えているだけの、あの頃の私に。
もう、ここにはいられないかもしれない。殿下にも、失望されただろう。あれほど、信じてくれていたのに。その信頼を、裏切ってしまった。そんな絶望が、胸を、満たしていく。視界が、滲んだ。
ロドリク侯の追及の声が、遠くに聞こえる。貴族たちのざわめきが、波のように、押し寄せる。私は、その渦の中で、一人、立ち尽くしていた。何を言われても、返す言葉が、見つからなかった。ただ、自分の犯した過ちの重さに、押し潰されそうになっていた。
誰か、何か言ってくれたら、まだ、楽だったかもしれない。罵倒でも、叱責でも。けれど、貴族たちの、無言の不信の視線が、何よりも、重かった。せっかく勝ち取った信頼が、指の間から、こぼれ落ちていく。その感覚に、私は、ただ、耐えるしかなかった。
その時だった。
「――ヴェント」
殿下の、静かな声が、私の名を呼んだ。叱責でも、失望でもない、不思議なほど、穏やかな声で。その声が、凍りついた広間の空気を、そっと、溶かした。




