第31話 重圧の中で
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戦争を回避するための、最初の交渉が始まった。
サルディアは、ヴェルガに対し、対話を呼びかけた。武力ではなく、言葉で解決を図るために。その交渉対応の要に、殿下は私を据えた。一通訳に、国家の命運を委ねる。それは、異例のことだった。
「ヴェルガの真意を、読んでほしい」
殿下が言った。
「彼らは、本気で戦争を望んでいるのか。それとも、引っ込みがつかなくなっているだけなのか。それが分かれば、対処のしようがある。逆に、それを読み違えれば――取り返しのつかないことになる」
「やってみます」
私は、頷いた。重圧は、痛いほど感じていた。けれど、ここで怯むわけにはいかなかった。私の読み一つに、両国の、無数の命が、かかっているのだ。これほど重い仕事を、私は、これまで、引き受けたことがなかった。
私は、ヴェルガから送られてくる外交文書を、片端から読み込んだ。表に出た要求ではなく、その言葉の選び方、繰り返される語、避けられている話題。それらを丹念に拾い、ヴェルガの本心を、探っていく。一文字も、見逃すまいと、目を凝らして。
ところが。
読み進めるうちに、私は、奇妙なことに気づいた。
「この文書……どこか、おかしい」
私は、眉をひそめた。
いつものヴェルガの言葉の癖と、微妙に違う。論理が、不自然に飛躍している箇所がある。まるで、わざと、読み手を混乱させようとしているかのような――。一つの文の中に、矛盾した意図が、混ぜ込まれている。誠意を示すような言葉の隣に、挑発するような言葉が、置かれている。
誰かが、意図的に、文書に「ノイズ」を混ぜている。本心を読み取らせないために。あるいは、こちらの誤読を、誘うために。
ヴェルガに、そんな高度な攪乱ができる者がいただろうか。後任の通訳に、そんな芸当はできまい。いや、それとも――私を知る誰かが、私が真意を読むことを警戒して、わざと言葉を歪めているのか。私の読みの力を、逆手に取ろうとしているのか。
嫌な予感がした。背筋を、冷たいものが、伝う。
外交の文書というのは、本来、たとえ敵対する相手であっても、ある種の「型」に従って書かれる。挨拶があり、本題があり、結びがある。その型を知っていれば、どこに本音が隠れているか、見当がつく。けれど、この文書は、その型そのものが、意図的に、崩されていた。まるで、私という読み手を、想定し、惑わせるために、組み立てられたかのように。
「殿下。ヴェルガの文書、不自然です。意図的に、真意を隠そうとしている節があります。慎重に読まなければ、誤読を誘われる危険があります」
「攪乱、ということか」
「おそらく。誰かが、私が読むことを、想定している。ですが――必ず、本心は読み取れます。どんなに言葉を歪めても、その奥には、必ず、本当の意図がある。少し、時間をいただければ」
「分かった。だが、無理はするな」
殿下の気遣いに、私は、小さく頷いた。けれど、無理をしないわけには、いかなかった。私の読み一つに、無数の命が、かかっているのだから。
私は、文書の山に、再び向き合った。
歪められた言葉の中から、本当の意図を掘り出す。それは、これまでにない難事だった。表の意味だけでなく、わざと混ぜられた偽りの裏まで、見極めなければならない。どれが本物の意図で、どれが攪乱のための偽りか。その峻別が、恐ろしく、難しかった。
夜が更けても、私は机を離れなかった。重圧が、肩にのしかかる。私の読み一つで、戦争になるか、回避できるかが決まる。間違いは、許されない。一つの誤読が、国境で、無数の血を流させる。
燭台の灯が、揺れる。私の目は、疲れで、霞み始めていた。
それでも、私は、なおも文書を睨み続けた。
――必ず、読んでみせる。
けれど、攪乱された言葉の霧は、思った以上に、深かった。読めば読むほど、本物と偽りの境界が、曖昧になっていく。疲労が、判断を、鈍らせていく。
ふと、隣に、人の気配を感じた。顔を上げると、殿下が、静かに、私の傍らに立っていた。いつの間に、入ってきたのだろう。
「根を詰めすぎだ」
殿下は、私の机に、温かい茶を置いた。
「君が、国のために、全力を尽くしているのは、分かっている。だが、君が倒れてしまっては、元も子もない。少し、休め」
「ですが、殿下。一刻も早く、ヴェルガの真意を読まなければ……戦争が」
「焦って読み違えるより、確実に読む方が、ずっといい」
殿下の言葉は、正しかった。けれど、私は、その忠告を、十分に、心に留めることができなかった。早く、戦争を止めたい。その焦りが、私の中で、警鐘を、かき消していた。私は、軽く頷いただけで、すぐに、文書へと、視線を戻した。
もし、あの時、殿下の言葉に、もっと、耳を傾けていたら。焦りを、捨てられていたら。あの過ちは、防げたのかもしれない。けれど、疲労と重圧に追い詰められた私は、それができなかった。
殿下が去ったあとも、私は、夜明けまで、文書と格闘した。霞む目で、揺らぐ判断で。そうして、私は、敵が仕掛けた罠へと、一歩ずつ、近づいていった。
その霧の奥に、私を陥れる罠が、潜んでいることを。そして、その罠に、私自身が、足を踏み入れようとしていることを。このときの私は、疲労と重圧の中で、気づくことが、できずにいた。
夜は、まだ、長かった。そして、その夜の果てに、私は、生涯で最も大きな、過ちを犯すことになる。




