第30話 戦争の足音
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穏やかな日々は、長くは続かなかった。
ある朝、外務府に飛び込んできた報せが、すべてを変えた。
「ヴェルガが――サルディアに対して、正式な抗議を行ってきました!」
その内容に、私は耳を疑った。報告書を読む手が、震えた。
ヴェルガは、こう主張していた。リンドルとの対立、そしてその後の混乱――すべての責任は、サルディアにあると。サルディアが、ヴェルガの優秀な通訳官を「不当に引き抜いた」ことが、ヴェルガの外交を麻痺させ、混乱を招いた、と。
「な……そんな、言いがかりを」
同僚の官吏が、絶句した。
言いがかりだった。私は、ヴェルガに切り捨てられて、サルディアに招かれた。引き抜かれたのではない。職を奪われ、婚約を解消され、行き場を失った私を、サルディアが拾ってくれたのだ。けれど、ヴェルガは、事実をねじ曲げて、責任をサルディアに押しつけようとしていた。
崩壊の責任を、認めたくないのだ。だから、外に敵を作る。サルディアを悪者にすれば、自国の失策から、目を逸らせる。追い詰められた国が、その苦しさから逃れるために、外に敵を求める。それは、歴史が、何度も繰り返してきた、愚かな構図だった。
そして、その振る舞いは、最も危険な方向へ向かいつつあった。
「ヴェルガは、軍を国境に動かし始めたとの情報も」
その一言に、外務府の空気が凍りついた。
戦争。
その二文字が、重く、のしかかる。言葉のすれ違いから始まった崩壊が、ついに、両国を戦争の瀬戸際まで追い詰めていた。誤解が、誤解を呼び、対立が、対立を生み、ついには、剣を抜く寸前まで。
殿下が、険しい表情で言った。
「ヴェルガは、正気を失っている。自国の失策を認められず、外に責任を求め、ついには戦争まで持ち出そうとしている。……愚かにも、ほどがある」
その声には、抑えきれない怒りと、そして、深い憂いが滲んでいた。
私は、拳を握りしめた。
戦争になれば、両国の民が、傷つく。国境の村が焼かれ、若者が剣を取り、家族が引き裂かれる。言葉のすれ違いが、今度こそ、取り返しのつかない、本物の血を流させる。それだけは、何としても、防がなければ。あの国境の小競り合いで、人が傷ついた、あの光景を――今度は、国全体の規模で、繰り返すことになる。
「殿下。私に、できることはありませんか」
気づけば、私はそう口にしていた。自分でも、驚くほど、自然に。
「私は、ヴェルガの言葉も、サルディアの言葉も、両国の人々の心も、分かります。この戦争の根が、言葉のすれ違いにあるのなら――それを解くのは、言葉を運ぶ私の、仕事のはずです」
かつての私なら、こんなことは、言えなかった。自分には、大それたことなど、できないと、思い込んでいたから。けれど今は、違う。私には、私にしかできない役目が、ある。それを、はっきりと、自覚していた。
殿下が、私を見た。その目に、頼もしさと、そして、かすかな憂いが浮かんだ。
「……君は、母国に剣を向けられているこの状況でも、なお、橋を架けようとするのか。君を捨てた国のために」
「はい。それが、私にできる、ただ一つのことですから。それに――」
私は、まっすぐに、殿下を見返した。
「戦争で傷つくのは、私を切り捨てた人たちだけではありません。何も知らない、ただ平穏に暮らす人々です。その人たちを、言葉のすれ違いなんかで、傷つけさせたくない。言葉を運ぶ者として、それだけは、見過ごせないのです」
殿下は、しばらく私を見つめ、それから、静かに頷いた。その目には、私への、深い敬意が、宿っていた。
「分かった。君の力を、貸してくれ。――この戦争を、止めるために。君となら、できる気がする」
「君となら」。その言葉に、胸が、温かくなる。けれど、今は、その温もりに浸っている場合ではなかった。私は、頷き返し、すぐに、思考を切り替えた。
戦争を止めるには、まず、ヴェルガの真意を、正確に読まなければならない。彼らは、本気で戦争を望んでいるのか。それとも、引っ込みがつかなくなって、虚勢を張っているだけなのか。それによって、対処は、まったく変わってくる。
「殿下。まずは、ヴェルガが送ってくる文書を、すべて、私に読ませてください。彼らの言葉の裏を読めば、本当の狙いが、見えてくるはずです。強硬な姿勢の奥に、何があるのか。それを掴めれば、止める手立ても、見つかります」
「ああ。すべて、君に回そう」
殿下の信頼に、私は、深く頷いた。
これは、私の戦いだ。剣を持たぬ私の、言葉だけを武器にした、戦い。負ければ、両国の民が、血を流す。勝てば――無数の命が、救われる。これほど重い責務を、私は、これまで、負ったことがなかった。けれど、不思議と、怯みはなかった。私には、言葉がある。そして、隣には、私を信じてくれる人が、いる。
その夜から、私は、ヴェルガの文書と、向き合い続けた。燭台の灯を頼りに、一語、一語を、丹念に。母国を救うための、最後の戦いに向けて。
戦争の足音が、刻一刻と、近づいていた。
そして私は、その渦の、まさに中心に立とうとしていた。言葉を運ぶ者として。国と国の間に、最後の橋を架けるために。
けれど、このときの私は、まだ知らなかった。この戦争の影に、私自身を陥れる、卑劣な罠が、潜んでいることを。母国が、私に向けて放とうとしている、毒の矢の存在を。穏やかな決意を胸に、私は、来るべき嵐へと、足を踏み出した。




