表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王宮筆頭通訳官を辞めた翌朝、二国間の会話はすべて噛み合わなくなった  作者: ヲワ・おわり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
30/70

第30話 戦争の足音

全70話で完結予定です。毎日5話ずつ、7:10 / 12:10 / 17:10 / 20:10 / 22:10 に投稿します。

面白いと思っていただけましたら、評価で応援してもらえると励みになります。

 穏やかな日々は、長くは続かなかった。

 ある朝、外務府に飛び込んできた報せが、すべてを変えた。

「ヴェルガが――サルディアに対して、正式な抗議を行ってきました!」

 その内容に、私は耳を疑った。報告書を読む手が、震えた。

 ヴェルガは、こう主張していた。リンドルとの対立、そしてその後の混乱――すべての責任は、サルディアにあると。サルディアが、ヴェルガの優秀な通訳官を「不当に引き抜いた」ことが、ヴェルガの外交を麻痺させ、混乱を招いた、と。

「な……そんな、言いがかりを」

 同僚の官吏が、絶句した。

 言いがかりだった。私は、ヴェルガに切り捨てられて、サルディアに招かれた。引き抜かれたのではない。職を奪われ、婚約を解消され、行き場を失った私を、サルディアが拾ってくれたのだ。けれど、ヴェルガは、事実をねじ曲げて、責任をサルディアに押しつけようとしていた。

 崩壊の責任を、認めたくないのだ。だから、外に敵を作る。サルディアを悪者にすれば、自国の失策から、目を逸らせる。追い詰められた国が、その苦しさから逃れるために、外に敵を求める。それは、歴史が、何度も繰り返してきた、愚かな構図だった。

 そして、その振る舞いは、最も危険な方向へ向かいつつあった。

「ヴェルガは、軍を国境に動かし始めたとの情報も」

 その一言に、外務府の空気が凍りついた。

 戦争。

 その二文字が、重く、のしかかる。言葉のすれ違いから始まった崩壊が、ついに、両国を戦争の瀬戸際まで追い詰めていた。誤解が、誤解を呼び、対立が、対立を生み、ついには、剣を抜く寸前まで。

 殿下が、険しい表情で言った。

「ヴェルガは、正気を失っている。自国の失策を認められず、外に責任を求め、ついには戦争まで持ち出そうとしている。……愚かにも、ほどがある」

 その声には、抑えきれない怒りと、そして、深い憂いが滲んでいた。

 私は、拳を握りしめた。

 戦争になれば、両国の民が、傷つく。国境の村が焼かれ、若者が剣を取り、家族が引き裂かれる。言葉のすれ違いが、今度こそ、取り返しのつかない、本物の血を流させる。それだけは、何としても、防がなければ。あの国境の小競り合いで、人が傷ついた、あの光景を――今度は、国全体の規模で、繰り返すことになる。

「殿下。私に、できることはありませんか」

 気づけば、私はそう口にしていた。自分でも、驚くほど、自然に。

「私は、ヴェルガの言葉も、サルディアの言葉も、両国の人々の心も、分かります。この戦争の根が、言葉のすれ違いにあるのなら――それを解くのは、言葉を運ぶ私の、仕事のはずです」

 かつての私なら、こんなことは、言えなかった。自分には、大それたことなど、できないと、思い込んでいたから。けれど今は、違う。私には、私にしかできない役目が、ある。それを、はっきりと、自覚していた。

 殿下が、私を見た。その目に、頼もしさと、そして、かすかな憂いが浮かんだ。

「……君は、母国に剣を向けられているこの状況でも、なお、橋を架けようとするのか。君を捨てた国のために」

「はい。それが、私にできる、ただ一つのことですから。それに――」

 私は、まっすぐに、殿下を見返した。

「戦争で傷つくのは、私を切り捨てた人たちだけではありません。何も知らない、ただ平穏に暮らす人々です。その人たちを、言葉のすれ違いなんかで、傷つけさせたくない。言葉を運ぶ者として、それだけは、見過ごせないのです」

 殿下は、しばらく私を見つめ、それから、静かに頷いた。その目には、私への、深い敬意が、宿っていた。

「分かった。君の力を、貸してくれ。――この戦争を、止めるために。君となら、できる気がする」

「君となら」。その言葉に、胸が、温かくなる。けれど、今は、その温もりに浸っている場合ではなかった。私は、頷き返し、すぐに、思考を切り替えた。

 戦争を止めるには、まず、ヴェルガの真意を、正確に読まなければならない。彼らは、本気で戦争を望んでいるのか。それとも、引っ込みがつかなくなって、虚勢を張っているだけなのか。それによって、対処は、まったく変わってくる。

「殿下。まずは、ヴェルガが送ってくる文書を、すべて、私に読ませてください。彼らの言葉の裏を読めば、本当の狙いが、見えてくるはずです。強硬な姿勢の奥に、何があるのか。それを掴めれば、止める手立ても、見つかります」

「ああ。すべて、君に回そう」

 殿下の信頼に、私は、深く頷いた。

 これは、私の戦いだ。剣を持たぬ私の、言葉だけを武器にした、戦い。負ければ、両国の民が、血を流す。勝てば――無数の命が、救われる。これほど重い責務を、私は、これまで、負ったことがなかった。けれど、不思議と、怯みはなかった。私には、言葉がある。そして、隣には、私を信じてくれる人が、いる。

 その夜から、私は、ヴェルガの文書と、向き合い続けた。燭台の灯を頼りに、一語、一語を、丹念に。母国を救うための、最後の戦いに向けて。

 戦争の足音が、刻一刻と、近づいていた。

 そして私は、その渦の、まさに中心に立とうとしていた。言葉を運ぶ者として。国と国の間に、最後の橋を架けるために。

 けれど、このときの私は、まだ知らなかった。この戦争の影に、私自身を陥れる、卑劣な罠が、潜んでいることを。母国が、私に向けて放とうとしている、毒の矢の存在を。穏やかな決意を胸に、私は、来るべき嵐へと、足を踏み出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ