第29話 価値の在り処
全70話で完結予定です。毎日5話ずつ、7:10 / 12:10 / 17:10 / 20:10 / 22:10 に投稿します。
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仲裁を成功させたあと、私は久しぶりに、穏やかな夜を過ごしていた。
執務室の窓辺で、サルディアの夜空を眺めながら、私はふと、自分のヴェルガでの日々を、振り返っていた。
あの頃の私は、いつも俯いていた。手柄を奪われても、侮られても、それが当たり前だと受け入れていた。自分には価値がないと、心の底で思い込んでいた。誰かに必要とされることなど、ありはしないと。だから、表に立つことを諦め、ただ黙々と、言葉を運び続けた。
でも、今なら分かる。
価値がなかったのは、私ではなかった。私の価値を、見ようとしなかった、あの場所が、間違っていたのだ。
言葉を運ぶ仕事は、決して「誰にでもできること」ではない。表の意味の裏を読み、国と国の間に橋を架ける。一語の選び方で、戦を防ぎ、人の命を救う。それは、高度で、繊細で、そして――尊い仕事だ。
私は、それを、たった一人で担っていた。誰にも見られず、感謝もされず。けれど、確かに、国を支えていた。私の働きは、無駄ではなかった。それどころか、かけがえのないものだった。
その事実を、私はようやく、心の底から、認められるようになっていた。
――自分の価値を、自分で認めなさい。
バルトの言葉が、今は、すとんと胸に落ちる。
以前は、ただの慰めにしか聞こえなかった、あの言葉。けれど今は、その意味が、はっきりと分かる。私は、価値のある人間だ。誰かに決めてもらうのではなく、私自身が、それを知っている。誰に何と言われようと、揺らがない。その確信は、温かく、揺るぎなかった。
ヴェルガで否定され続け、ぼろぼろになった私の自尊心は、サルディアで過ごす日々の中で、少しずつ、確かに、修復されていった。それは、誰かに与えられた承認だけでなく、私自身が、自分の仕事と向き合い続けた、その積み重ねの結果でもあった。
けれど、一つだけ。
まだ、訳せないものが、あった。
殿下への、この気持ちだ。
レナの話を聞いてから、私の中で、何かが変わり始めていた。殿下の眼差しを思い出すたび、胸が高鳴る。あの方が言いかけて飲み込んだ言葉の続きを、知りたくてたまらなくなる。一緒に仕事をした時の、あの「相棒」という言葉が、いつまでも耳に残っている。
これは、何だろう。
他人の心なら、一瞬で読めるのに。自分のこの胸の高鳴りにだけは、名前をつけられない。
いや――本当は、気づいているのかもしれない。気づいていて、認めるのが、怖いだけ。
もし、これが恋だと認めてしまえば。そして、殿下の気持ちが、もし私の思い違いだったら。あるいは、たとえ通じ合っても、王太子と、他国から来た一通訳官――身分が違いすぎて、叶わぬものだったら。考えるほど、胸が苦しくなる。だから私は、その答えに、手を伸ばしかけては、また、引っ込めてしまう。
臆病な私は、自分の心の声を、聞こえないふりをした。いつものように。
バルトの手帳の一文が、また蘇る。「最も読み損なうのは、いつも、己の心の声だ」。私は、その通りの人間なのかもしれない。両国を救う言葉を読み解いておきながら、自分の心の真意にだけは、最後まで、手を伸ばせずにいる。
思えば、私は、ずっと、自分を後回しにして生きてきた。他人の言葉を読み、他人の交渉を支え、他人の国を救う。けれど、自分自身が何を望んでいるのか、誰を想っているのか、それを問うことは、一度も、なかった。自分の幸福を願うことさえ、どこか、罪のように感じていた。価値のない自分には、その資格がないと、思い込んでいたから。
けれど、もう、違う。私は、自分に価値があることを、知っている。ならば――自分の幸福を、望んでもいいのではないか。自分の心が、誰を求めているのか、それに、正直になってもいいのではないか。
その考えは、私にとって、とても、新しいものだった。新しくて、少しだけ、怖かった。けれど、同時に、胸を、温かくもした。
いつか、この想いに、ちゃんと名前をつけられる日が来るのだろうか。その時、私は、自分の心の真意を、まっすぐに、訳せるのだろうか。
窓の外、星が一つ、すうっと流れて、消えた。
ふと、机の引き出しの奥にしまった、あの小さな札のことを、思い出した。「根を詰めすぎないように」。殿下が、初めて私に向けてくれた、不器用な気遣い。あれを、私は、捨てられなかった。「合理的な配慮」だと思い込もうとしながら、それでも、大切に、しまっていた。
今なら、分かる。あれを捨てられなかったのは、私の心が、とっくに、答えを知っていたからだ。頭が認めるより、ずっと前から。心は、あの優しさが、何であるかを、感じ取っていた。
私は、引き出しを開け、その札を、そっと取り出した。簡潔な、けれど、温かい筆跡。指でなぞると、胸の奥が、じんと熱くなる。
――殿下。
心の中で、その名を呼ぶと、それだけで、胸がいっぱいになった。会いたい。声を聞きたい。あの青い瞳に、見つめられたい。これが、恋でなくて、何だというのだろう。
私は、もう、ほとんど、認めかけていた。あとは、その最後の一線を、越える勇気だけ。けれど、その一線が、私には、とてつもなく、高い壁に思えた。叶わぬかもしれない恋。身分の違い。失うことへの恐れ。それらが、私の足を、すくませる。
その夜、私は、ヴェルガで否定された価値を、確かに取り戻していた。けれど、新しく芽生えたこの想いだけは、まだ、どう扱えばいいのか、分からずにいた。自尊心を取り戻した私が、次に向き合うべきは――きっと、この、自分自身の心なのだろう。そんな予感を、私は、札を握りしめながら、静かに抱いていた。




