第26話 殿下の理由
全70話で完結予定です。毎日5話ずつ、7:10 / 12:10 / 17:10 / 20:10 / 22:10 に投稿します。
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危機の報せで慌ただしくなった夜、レナが私の執務室を訪れた。
手には、温かい茶を二つ。
「ヴェント様、少し、お話ししても?」
彼女は、いつになく真剣な顔をしていた。いつもの、明るく快活なレナとは、どこか違う。何か、大切なことを伝えに来た。そんな雰囲気が、その表情から、伝わってきた。
「今日の朝議のこと、聞きました。ヴェント様、堂々としてて、本当に格好良かったって、もう宮廷中の噂です」
「からかわないで」
「本当ですよ。――それでね、ヴェント様。私、今日こそ、お話ししなきゃって思ったんです。殿下のこと」
その名に、私の胸が、小さく跳ねた。最近は、その名を聞くだけで、こうなる。
レナは、茶をひと口飲んでから、ゆっくりと語り始めた。
「殿下がなぜ、あんなに実力主義にこだわるか、ご存じですか? 殿下は、幼い頃、後ろ盾のない母君から生まれて、ずっと『血筋が弱い』と侮られて育ったんです」
「……そうだったの」
「はい。だから、家柄じゃなく、力で人を見る国にしたいって、ずっと願ってこられた。自分が、血筋ではなく、成したことで、認められる国に」
私は、初めて聞く話に、静かに耳を傾けた。
「殿下は、口下手で、誤解されやすい方です。本心を、なかなか言葉にできない。いつも、態度や行動で示すしかなくて、それで、ずいぶん損をしてこられました。でも、だからこそ――自分の真意を、正しく分かってもらえることに、誰よりも飢えていたんだと思います」
レナの声が、優しくなった。
「あの会談の夜。殿下の言葉の裏を、ただ一人正しく訳した人がいた、って。殿下、その話をなさるとき、いつもと全然違う顔をなさるんです。まるで――生まれて初めて、本当に自分を理解してもらえた、みたいな顔を」
心臓が、跳ねた。
あの夜。私が、許されない発言をして、殿下の真意を訳した、あの一瞬。私にとっては、ただの仕事だった。決裂を防ぎたい、その一心で、立ち上がっただけ。
けれど殿下にとっては――生まれて初めて、自分を分かってもらえた瞬間だったのだ。
ずっと、誤解されやすく、本心を伝えられずにいた人が。誰にも、心の奥を、見てもらえなかった人が。
じわじわと、何かが胸に込み上げてきた。それは、これまで頑なに目を逸らしてきた、ある可能性。
殿下の気遣いは。あの長い眼差しは。言いかけて飲み込まれた、いくつもの言葉は。――もしかして、本当に。
「ヴェント様にとって、あの夜は、ただのお仕事だったかもしれません。でも、殿下にとっては、運命みたいな出会いだったんです」
レナは、まっすぐに私を見た。
「殿下にとって、ヴェント様は、最初から『替えのきく通訳』なんかじゃありません。『初めて、自分の真意を分かってくれた人』なんです。それは、能力がどうとか、そういう次元の話じゃ、ないんですよ」
私は、言葉を失った。
胸が、苦しい。けれど、それは、これまでの苦しさとは、まるで違う種類のものだった。甘く、切なく、温かい――名前をつけるのが、怖くなるような。
「ヴェント様」
レナが、静かに言った。
「殿下のことを、『有能な道具を手放したくないだけ』だなんて、もう思わないでください。それは、いちばん、殿下を傷つける誤解だから。そして――ヴェント様ご自身も、傷つけてしまうから」
私は、俯いた。
レナの言葉が、一つひとつ、胸に染み込んでいく。殿下が、血筋ゆえに侮られて育ったこと。本心を言葉にできず、態度でしか示せないこと。そして、自分の真意を正しく分かってもらえることに、誰よりも飢えていたこと。その一つひとつが、これまで私が見てきた殿下の姿と、ぴたりと、重なっていく。あの不器用な気遣いも、言いかけて飲み込まれた言葉も、長い眼差しも。すべてに、説明がついてしまう。たった一つの、答えで。
私は、ずっと、その答えから、逃げてきた。殿下の優しさを「合理的な配慮」と呼び、自分の心の高鳴りを「気のせい」と片付けて。けれど、もう、ごまかせない。レナが、こんなにもまっすぐに、教えてくれたのだから。
頬が、熱い。胸が、苦しい。長いあいだ閉ざしてきた殻に、ひびが入る音が、聞こえた気がした。
ずっと、聞こえないふりをしてきた、自分の心の声。それが、レナの言葉で、堰を切ったように、溢れ出そうとしていた。
「……レナ。私、どうしたらいいの」
思わず、零れた問いに、レナは、ふわりと微笑んだ。
「ご自分の心に、正直になればいいんです。ヴェント様は、いつも、他人の心ばかり読んで、ご自分の心は、後回しにしてらっしゃるから」
その言葉が、まっすぐに、胸に刺さった。
他人の心ばかり読んで、自分の心は、後回し。まさに、その通りだった。私は、両国の使者の本音を読み、すれ違いを繕い、戦さえ防いできた。なのに、自分の胸の奥にある、たった一つの想いには、ずっと、気づかないふりをしてきた。バルトの手帳の一文が、また蘇る。「最も読み損なうのは、いつも、己の心の声だ」。私は、まさに、その通りの人間だった。
レナが帰ったあと、私は、長いあいだ、一人、窓辺に座っていた。冷めていく茶を、両手で包みながら。そして、初めて、逃げずに、自分の胸に問いかけた。私は、殿下のことを、どう思っているのか、と。その答えは、もう、すぐそこまで、来ていた。あとは、それを、認める勇気だけが、足りなかった。
窓の外、星が静かに瞬いている。私は、その光を見ながら、初めて、自分の心の真意に、そっと、手を伸ばしかけていた。




