第23話 すれ違い
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その日を境に、私は少しずつ、殿下と距離を取るようになった。
「私を有能な道具として、手放したくないだけ」――そう結論づけてから、殿下の気遣いを受け取るたびに、胸が痛むようになったのだ。
温かい飲み物が届いても、蜂蜜菓子が置かれていても、私はその裏に「人材を潰したくない合理的な配慮」を見てしまう。優しくされるほど、これは恋情ではないのだと、自分に言い聞かせる回数が増える。その作業が、辛かった。自分で自分の心に、冷たい水を浴びせ続けるようなものだった。
だから、避けた。
仕事の打ち合わせは必要最低限に。庭へ誘われても、用事を理由に断る。殿下と二人になる時間を、無意識に、減らしていった。
そうすれば、楽になれると思った。期待しなければ、傷つかない。それが、私の生き方だったから。
けれど――殿下を避けるようになってから、私の胸は、むしろ、もっと、苦しくなった。
「ヴェント様、最近、殿下とぎくしゃくしてません?」
レナが、心配そうに尋ねた。
「……そんなことは」
「ありますよ。殿下も、なんだか、元気がないし」
元気がない。その言葉に、胸が、ちくりとした。
けれど、私は気づかないふりをした。殿下が元気がないのは、きっと、ヴェルガの件で政務が忙しいからだ。私のことなど、関係ない。そう思おうとした。思い込もうとした。
ある日の夕刻、回廊で殿下と行き合った。避けようとしたが、間に合わなかった。
「ヴェント。最近、避けられている気がするが」
殿下が、率直に問うた。その声には、戸惑いが滲んでいた。
「……気のせいです、殿下。仕事が立て込んでおりまして」
私は、目を合わせずに答えた。
嘘だった。殿下にも、それは伝わっただろう。けれど、本当の理由など、言えるはずがない。「あなたの優しさが、恋情ではないと知るのが辛いから、避けています」――そんなこと、口が裂けても。
「……そうか」
殿下は、それ以上、何も言わなかった。
ただ、その目に、傷ついたような色が浮かんだのを、私は見てしまった。一瞬で、消えたけれど。確かに、傷ついていた。
なぜ、殿下が傷つくのだろう。私が距離を取ったくらいで。私は、ただの通訳官なのに。もし、私が、ただの「道具」なら、避けられたところで、傷つく理由など、ないはずなのに。
その問いが、胸の中で、ぐるぐると渦を巻いた。
答えは、すぐ近くにあるはずだった。手を伸ばせば、届くところに。けれど私は、その答えを見るのが怖くて、目を逸らし続けた。
他人の真意なら、迷わず読めるのに。自分に向けられた想いだけは、どうしても、認められない。認めてしまえば、私の中の「ただの道具」という安全な殻が、壊れてしまうから。そして、壊れたあとに待っているかもしれない、叶わぬ恋の痛みが、怖かったから。
その夜、私は一人、執務室で、バルトから譲られた古い手帳を開いた。
使い込まれた紙面に、外交に生きた老人の言葉が、びっしりと並んでいる。サルディアの作法、北方の慣用、そして、言葉と向き合う者への、いくつもの戒め。
その中に、ふと、こんな一文を見つけた。
《言葉の裏を読むのは、難しい。だが、最も読み損なうのは、いつも、己の心の声だ》
私は、その一文を、長いあいだ見つめていた。
己の心の、声。
それを、私はずっと、聞こえないふりをしているのかもしれなかった。聞いてしまえば、認めなければならなくなる。認めれば、もう、後戻りできなくなる。
私は、もう一度、その一文を、指でなぞった。
己の心の声を、読み損なう。バルトは、外交の達人だった。その彼が、わざわざ、この戒めを書き残した。きっと、彼自身も、どこかで、自分の心を、読み違えた経験があるのだろう。
ならば、私が同じ過ちを犯すのも、無理はないのかもしれない。
けれど――いつまで、目を逸らし続けるのだろう。
殿下の、あの傷ついた目を思い出すと、胸が、締めつけられる。私が距離を取るたびに、あの方は、確かに、傷ついている。私の臆病が、あの方を、傷つけている。
それは、もう、わかっていた。
私は、誰かを傷つけたくて、距離を取っているのではない。ただ、自分が傷つくのが、怖いだけ。自分を守るために、あの方を、遠ざけている。なんて、身勝手なのだろう。
それでも、私は、踏み出せずにいた。一歩を、踏み出す勇気が、まだ、なかった。叶わぬ恋に終わるくらいなら、最初から、恋だと認めない方が、楽だと――そう、臆病な私は、囁き続けていた。
ヴェルガで、私は、何度も、期待しては裏切られてきた。認められたいと願っては、踏みにじられてきた。その痛みが、私を、臆病にしていた。だから、また同じ痛みを味わうくらいなら、最初から、何も望まない方がいい。そう、自分を守ってきた。
けれど――この恋を、認めないことは、本当に、自分を守ることになるのだろうか。
殿下を遠ざけ、自分の心を偽り続けるこの日々が、すでに、十分に、苦しいのに。
手帳を閉じて、私は、窓の外の夜空を見上げた。星は、いつもと変わらず、静かに瞬いている。けれど、その光が、今夜は、なぜか、滲んで見えた。
いつか、この迷いに、決着をつける日が来るのだろうか。
その時、私は、自分の心の真意を、まっすぐに、訳せるのだろうか。
答えのない問いを抱えて、私は、長い夜を、過ごした。窓辺に頬杖をついたまま、いつしか、空が白み始めるまで。




