第22話 言えない言葉
全70話で完結予定です。毎日5話ずつ、7:10 / 12:10 / 17:10 / 20:10 / 22:10 に投稿します。
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翌日、私は殿下に呼ばれ、二人、執務室で向かい合った。
「殿下。昨日は、庇ってくださり、ありがとうございました」
「礼はいい」
殿下は、窓の外を見たまま、短く言った。その背中が、いつもより、少しだけ強張って見えた。夕日が、その輪郭を、赤く縁取っている。
「……君は」
殿下が、ためらいがちに口を開いた。
「ヴェルガに、戻りたいか」
その問いに、私は驚いた。声に、いつもの落ち着きがなかったから。
「いいえ。戻る気は、ありません」
「……即答だな」
「あの国は、私を道具としてしか見ていません。戻ったところで、また同じことの繰り返しです。私は、ここで――」
ここで、認められたいのです。あなたのそばで。そう言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。図々しい望みのような気がして。口にするのが、怖かった。
「ここで、働き続けたいと、思っています」
殿下は、しばらく黙っていた。窓の外の夕日が、ゆっくりと、沈んでいく。
そして、ようやく振り返ったその顔には、複雑な感情が浮かんでいた。安堵と、それから――何か、もっと言いたいことを、必死に抑えているような。
「殿下?」
「……いや」
殿下は、首を振った。何かを言いかけて、やめる。それは、もう何度も見た仕草だった。けれど、今日のそれは、いつにも増して、苦しげに見えた。
私は、待った。続きを。心のどこかで、その続きを、聞きたいと願いながら。けれど、殿下の口から出てきたのは、ずっと事務的な言葉だった。
「君が残ると言うなら、それでいい。サルディアは、君を歓迎する」
歓迎する。
その言葉に、私は小さく頷いた。けれど、胸の奥が、わずかに、ざわついた。
殿下は、本当は、別の言葉を言おうとしていた。それは、確かに感じた。あの、言葉を探すような間。飲み込まれた、何か。なのに、結局、言わなかった。「行ってほしくない」とも、「いてほしい」とも、言わなかった。
なぜだろう。
もし、殿下が私を、ただの有能な通訳官として引き留めたいだけなら、「サルディアは君を歓迎する」で十分なはずだ。事実、そう言った。なら、私が読み取った「言いかけて、やめた」あの仕草は、私の願望が見せた、幻なのだろうか。
他人の言葉の裏は、これほど正確に読めるのに。この方の沈黙の意味だけは、いつも、霧の向こうにあるようで、掴めない。
いや――本当は、掴みたくないのかもしれない。掴んでしまえば、私も、応えなければならなくなる。自分の心と、向き合わなければならなくなる。それが、怖かった。
「では、私は仕事に戻ります」
私は、頭を下げて、執務室を出た。
廊下を歩きながら、私は何度も、先ほどのやり取りを反芻した。
殿下が言いかけて、飲み込んだ言葉。あれは、いったい何だったのか。
考えれば考えるほど、一つの可能性に行き当たりそうになる。けれど、その可能性を直視するのが、怖かった。もし違っていたら。期待して、また裏切られたら。ヴェルガで、何度も味わった、あの痛みを。もう、味わいたくなかった。
だから私は、いちばん安全な答えに逃げ込んだ。
――きっと、私を有能な道具として、手放したくないだけ。
そう結論づけて、私は無理やり、思考に蓋をした。胸の奥の、小さな疼きから、目を逸らして。
その結論が、殿下の本心を、そして自分自身の心をも、深く傷つけていることに。このときの私は、まだ、気づいていなかった。気づこうと、しなかった。
執務室に戻ると、机の上に、いつものように、温かい茶が置かれていた。
私が打ち合わせで席を外している間に、誰かが、そっと置いていったのだろう。湯気は、もう、ほとんど立っていなかった。それでも、その心遣いが、誰のものか、私には、わかっていた。
私は、その茶器を、しばらく、見つめた。
この優しさを、「合理的な配慮」だと思い込もうとするたびに、胸が、軋む。本当は、わかっているのだ。こんな細やかな気遣いを、ただの「人材管理」でする人が、どこにいるだろう。
けれど、認めるのが、怖かった。
もし、これが、殿下の――一人の人としての想いなら。私は、それに、応える資格が、あるのだろうか。他国から来た、家格も低い、ただの通訳官の私に。王太子である、あの方の隣に立つ資格が。
考えるほど、足がすくむ。だから私は、また、いちばん安全な場所へ、逃げ込む。「これは、配慮にすぎない」と。
冷めた茶を、私は、一口、飲んだ。ほんのり甘い、蜂蜜の香りがした。私が好きだと、いつか何気なく漏らした、あの味。それを、覚えていてくれた人がいる。
その優しさが、今は、ただ、痛かった。
優しくされるたびに、私は、自分に言い聞かせる。これは、恋情ではない、と。その繰り返しが、少しずつ、私自身を、すり減らしていく。
いっそ、何も感じなければ、楽なのに。けれど、私の胸は、この方の優しさに、確かに、応えたがっていた。その声を、私は、必死に、押し殺していた。
茶器を、両手で包む。冷えた陶器の感触が、手のひらに、じんわりと伝わってくる。この温もりが、もう少しだけ早く、この茶が冷める前に、戻ってこられたら。そんな、詮無いことを、ふと、思った。
私は、小さく、首を振った。そして、残りの茶を、ゆっくりと、飲み干した。
明日も、私は、この優しさに、気づかないふりをするのだろう。臆病な自分を抱えたまま。
窓の外では、すっかり日が暮れて、宵闇が、王宮を包み始めていた。私は、その暗がりの中で、自分の心の置き場所を、相変わらず、見つけられずにいた。




