第21話 虫のいい話
全70話で完結予定です。毎日5話ずつ、7:10 / 12:10 / 17:10 / 20:10 / 22:10 に投稿します。
面白いと思っていただけましたら、評価で応援してもらえると励みになります。
ヴェルガの使者は、丁重に、けれど図々しく、要求を重ねた。
「ヴェント殿。あなたほどの方が、他国で通訳官などという、表に出ぬ仕事に甘んじておられるのは、惜しい。ヴェルガにお戻りになれば、筆頭の地位はもちろん、モルテーン伯爵家との縁談も――」
「お待ちください」
私は、静かに遮った。
使者の言葉を、私は注意深く聞いていた。その丁重な物言いの裏に、何があるのか。表に出た「あなたを惜しむ」という言葉。けれど、その奥にあるものを、私は、はっきりと感じ取っていた。
言葉は、何を語るかと同じくらい、何を語らないかで、本心を露わにする。彼は、長々と「地位」と「縁談」を並べた。けれど、その中に、たった一つも、含まれていないものがあった。
「失礼ながら、使者殿。あなたのお言葉には、私への評価が、一片も含まれておりません」
「な……?」
「あなたが繰り返しておられるのは、『戻れば地位を与える』『縁談を用意する』――すべて、こちらが差し出す『餌』の話。私がヴェルガで何をしていたか、何を成したかについては、一言も触れておられない」
使者の顔が、強張った。
「つまり、あなた方が欲しいのは、私という人間ではない。今の混乱を収拾する『道具』です。崩壊の責任を取らずに済ませるための、都合のいい後始末役。――違いますか」
使者は、答えられなかった。図星だったのだ。
その沈黙が、何よりの証だった。もし、彼らが本当に私の働きを惜しんでいるなら、まず、過去の非礼を詫びるはずだ。私が、どれほど国を支えていたかを、語るはずだ。けれど、彼らは、それをしない。できないのだ。なぜなら、彼らの目に、私という人間の働きは、最初から、映っていなかったのだから。
「私を切り捨てたときと、何も変わっておられませんね」
私は、静かに言った。
「あの時、私は『口寄せ役』でした。そして今は、『後始末の道具』。呼び名が変わっただけで、あなた方の目に、私という人間が映っていないことは、同じです」
使者は、青ざめた顔で口をつぐんだ。
不思議と、怒りは、湧かなかった。ただ、深い諦めと、そして、ほんの少しの哀しみがあった。生まれ育った国が、最後まで、私を、一人の人間として見てはくれなかった。その事実が、静かに、胸に沈んでいく。
その時、ずっと黙っていた殿下が、低く言った。
「答えは、彼女自身が出す。だが――聞いての通りだ。貴国の要求には、彼女への敬意が、何ひとつない」
殿下の声には、抑えた怒りがあった。私のために、怒ってくれている。その事実が、冷えた胸を、わずかに温めた。
「今日のところは、お引き取り願おう」
使者は、すごすごと退出していった。
執務室に、重い沈黙が落ちた。
私は、自分が思いのほか冷静に、あの要求を退けたことに、自分で驚いていた。以前の私なら、母国の頼みとあれば、揺らいでいたかもしれない。罪悪感に、流されていたかもしれない。けれど今は――はっきりと、ノーと言えた。
それは、私が、自分の価値を、少しずつ信じられるようになってきた証だった。私は、道具ではない。後始末役でもない。私は、私の仕事に、誇りを持つ、一人の人間だ。それを、ようやく、自分で、認められるようになっていた。
けれど。
ふと、殿下の方を見ると、その横顔は、まだ硬いままだった。
使者を退けたことに、安堵しているふうではない。むしろ、何かを言いたげに、けれど言えずに、唇を引き結んでいる。その表情には、王太子としての威厳とは別の、もっと個人的な、切実な何かが、滲んでいた。
その表情の意味を、私はまた、読み取れずにいた。いや、読み取りかけて――怖くなって、目を逸らした。
その夜、自室に戻ってからも、殿下のあの硬い横顔が、頭から離れなかった。
使者の要求を退けたあと、殿下は、何かを言いかけて、飲み込んだ。あの、言葉を探すような間。まるで、私が母国へ戻ってしまうことを、恐れているかのような。
考えて、私は、慌てて首を振った。深読みだ。きっと、有能な通訳官を失うことを、案じているだけ。それ以上の意味を、勝手に読み取ってはいけない。
けれど、心の奥の小さな声は、それを否定していた。あの硬い表情は、仕事の損得を計算する者の顔ではなかった、と。もっと、個人的な――何かを、必死に堪える顔だった、と。
私は、寝台に腰を下ろし、両手で顔を覆った。
ヴェルガの使者の言葉は、あれほど簡単に、裏まで読めた。彼らが、私を道具としか見ていないことも、一瞬で見抜けた。なのに。
わからない。殿下の真意だけは、こんなにも、わからないのだろう。
いや――本当は、わかっている。わかっていて、認めるのが、怖いのだ。
認めてしまえば、私もまた、自分の心と、向き合わなければならなくなる。その時、私の胸にある、この温かくて、苦しい感情に、私は、どんな名前を、つけるのだろう。
その答えを、私はまだ、口にする勇気を、持てずにいた。
月の光が、床に、青白い影を落としている。その静けさの中で、私は、長いあいだ、動けずにいた。
明日になれば、また、いつものように、何事もなかった顔をして、仕事に向かうのだろう。殿下の気遣いを、「配慮」だと思い込みながら。自分の心を、見ないふりをしながら。
そんな自分が、少しずつ、苦しくなってきていた。けれど、それでも――まだ、踏み出せない。窓の外の月だけが、私の迷いを、静かに見下ろしていた。




