第19話 古巣への情
全70話で完結予定です。毎日5話ずつ、7:10 / 12:10 / 17:10 / 20:10 / 22:10 に投稿します。
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国境の衝突から数日、私は仕事に身が入らずにいた。
母国の崩壊が、頭から離れない。要らぬと言われた国なのに、案じてしまう自分が、矛盾しているようで、苦しかった。机に向かっても、ふと気づけば、北の空を見つめている。そんな日が、続いていた。
恨んでいないと言えば、嘘になる。私を「口寄せ役」と侮り、職も婚約も奪った人たち。彼らが、今、自らの過ちで苦しんでいる。それを、ざまをみろと、冷たく笑える自分がいたなら、どれほど楽だっただろう。けれど、私には、それができなかった。崩れていく母国の向こうに、傷つく名もなき人々の姿が、見えてしまうから。
そんな私の様子に、誰より早く気づいたのは、殿下だった。
「ヴェント。少し、付き合え」
半ば強引に連れ出されたのは、王宮の外れにある、静かな中庭だった。誰もいない。ただ、噴水の水音だけが、さらさらと響いている。咲き始めた花の香りが、夜気に、ほのかに混じっていた。
「最近、顔色が悪い」
殿下が、率直に言った。
「国境の件か」
私は、答えに窮した。けれど、この方に隠し事はできない気がして、正直に頷いた。
「……はい。ヴェルガで、人が傷つきました。言葉のすれ違いが、原因で。私が、まだあの国にいれば、防げたかもしれないと思うと……」
「君のせいではない」
殿下が、すぐに言った。きっぱりとした口調だった。
「君を追い出したのは、ヴェルガだ。今あの国が崩れているのは、有能な者を軽んじた、彼ら自身の報いだ。君が責を負う筋合いは、どこにもない」
「分かっています。頭では、分かっているのです。それでも――」
言葉が、続かなかった。
胸の中の、ぐちゃぐちゃとした感情を、どう言葉にすればいいのか、分からなかった。恨みと、憐れみと、罪悪感と。それらが、ない交ぜになって、私を、苦しめていた。他人の心はあれほど整理できるのに、自分の心ひとつ、解きほぐせない。
殿下は、しばらく黙って、噴水を見ていた。それから、ぽつりと言った。
「……君は、優しいな」
「優しい、ですか」
「自分を捨てた国を、それでも案じている。普通の人間には、できないことだ。恨んで、せいせいする方が、ずっと、楽だろうに。君は、その楽な道を、選ばない」
その声は、いつもの寡黙な殿下とは違って、どこか柔らかく、温かかった。
「だが、覚えておいてほしい。君が母国を案じる気持ちは、尊い。けれど、君自身を犠牲にしてまで背負うものではない。――君は、もう十分、苦しんだ。これ以上、自分を、責めなくていい」
胸の奥が、じんと熱くなった。
この方は、私の苦しみを、ちゃんと見てくれている。仕事の能力だけでなく、私の心の、いちばん柔らかいところを。誰にも見せたことのない、その弱さを、まるで、最初から知っていたかのように。
なのに――私はまた、その温かさを、素直に受け取りきれなかった。
優しい言葉。けれど、それは「有能な部下の心の不調を、気遣う主」の言葉かもしれない。私が潰れては、仕事に差し支える。だから、慰めてくれている。そう考える方が、安全だった。期待して、裏切られるのが、何より、怖かった。だから、いつものように、心に、薄い膜を張った。
「……ありがとうございます、殿下」
私は、頭を下げた。込み上げる何かを、ぐっと飲み込んで。
殿下は、そんな私を、また、あの長い眼差しで見つめていた。何か言いたげに、けれど、結局は何も言わずに。その沈黙が、噴水の音の中に、静かに溶けていく。
その沈黙の意味も、私には、読めなかった。いや、読もうとしなかった。読んでしまえば、張ったばかりの膜が、また、破れてしまう気がして。
「……戻ろうか。冷えてきた」
しばらくして、殿下が、そっと言った。
私たちは、並んで、中庭を後にした。言葉は、もう交わさなかった。けれど、その沈黙は、不思議と、嫌なものではなかった。隣を歩く人の気配が、ただ、温かかった。
回廊を歩きながら、私は、ちらりと、殿下の横顔を盗み見た。月明かりに照らされたその顔は、いつもの厳格な王太子のものというより、どこか、寂しげな、一人の青年のように見えた。この方も、本心を言葉にできず、苦しんでいるのだろうか。誤解されやすい、と自嘲したあの言葉が、ふと、思い出された。
もし、そうなら。私が、この方の真意を、読んで差し上げられたら。けれど――そう思った瞬間、私は、慌てて目を逸らした。出すぎたことだ。私は、ただの通訳官。この方の心を、勝手に読むなど、許されない。
それでも。隣を歩くこの人の沈黙が、ほんの少しでも、軽くなればいい。そう願っている自分に、私は、気づいていた。気づいて、けれど、見ないふりをした。
遠い母国の痛みと、すぐ隣にある誰かの優しさ。その両方を抱えて、私は静かに、自分の心の置き場所を、探し続けていた。
この中庭で交わした言葉の温かさだけは、その夜、いつまでも、消えずに、胸に残った。
寝台に横たわっても、殿下の声が、耳から離れなかった。「君は、もう十分、苦しんだ」。誰かに、そう言ってもらえる日が来るなんて、思ってもみなかった。ヴェルガでは、苦しみさえ、当たり前のものとして、見過ごされてきたのに。
この方は、私の痛みを、痛みとして、見てくれる。それが、どれほど、得難いことか。
そして、その温かさに、いつか応えたいと――そう思い始めている自分に、私は、まだ、気づかないふりをしていた。気づいてしまえば、もう、後戻りできない。その予感だけが、確かに、胸の奥にあった。




