第18話 国境の火種
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ヴェルガの崩壊は、ついに、言葉のすれ違いだけでは済まなくなった。
北方の国境で、武装した衝突が起きたのだ。
発端は、またしても誤訳だった。ヴェルガが国境警備の申し合わせについて送った書簡。その中の一文を、後任の通訳が、字義通りに訳した。だが、その一文は、リンドルの言葉では、相手の防備を「咎める」響きを帯びていた。
リンドル側は、それを「警告」と受け取った。
ヴェルガが、自分たちの守りを、非難してきた――そう解釈したリンドルは、国境の防備を、固めた。すると今度は、ヴェルガが、それを「敵対の構え」と受け取る。猜疑が、猜疑を呼ぶ。そして、ある夜、国境の闇の中で、互いの兵が、剣を交えた。
幸い、本格的な戦闘には至らなかった。だが、双方に負傷者が出た。一歩間違えば、人が死んでいた。
その報せは、サルディアの外務府を、重い空気で満たした。
「誤訳が、ついに血を流させたか」
同僚の官吏が、暗い顔で呟いた。
「言葉の行き違いというのは、笑い話では済まんのだな。こうして、人が傷つく」
「……ええ」
私は、報告書を握りしめたまま、動けずにいた。
国境での衝突。負傷者。それは、私がずっと恐れていた光景だった。
言葉のすれ違いは、放置すれば、必ずこうなる。表の意味の裏を読み損なえば、差し出された手が、振り上げられた拳に見える。そして、本物の拳が、振るわれる。誤解は、いつだって、人の血で、その代償を払わせる。
ヴェルガで、私が日々、必死に繕っていたのは、まさにこれだったのだ。
誰にも気づかれぬまま、私は、こうした衝突を、何十回となく未然に防いでいた。書簡の一語を、戦になりかねぬ棘から、ただの社交辞令へと、訳し直す。たったそれだけのことで、人の命が、救われていた。けれど、誰も、それを知らなかった。私自身でさえ、その働きの重さを、本当には、分かっていなかった。
その重みを、今になって、誰もが思い知っている。
「ヴェント殿は、ヴェルガのご出身でしたな」
官吏が、気遣わしげに私を見た。
「お辛いでしょう。母国のことだ」
「……いえ」
私は、首を振った。けれど、その声は、自分でも分かるほど、沈んでいた。
母国を捨てたつもりでいた。要らぬと言われた国に、未練などないはずだった。なのに――国境で人が傷ついたと聞いて、こんなにも胸が痛むのは、なぜだろう。
負傷した兵士たちにも、家族がいるはずだ。帰りを待つ、誰かが。その人たちが、ただ、言葉のすれ違いひとつで、傷つけ合っている。会ったこともない、言葉も通じぬ相手と。その理不尽さが、たまらなかった。
私はやはり、ヴェルガを、嫌いになりきれていなかった。あの国の言葉を、あの国の人々を、どこかでまだ、案じている自分がいる。それが、自分でも、もどかしかった。
その夜、外務府の窓辺で、私は一人、暗い北の空を見つめていた。
星の少ない、重い夜空だった。
遠いヴェルガで、言葉が、血を流させている。それを止められた唯一の者が、ここにいるのに。私には、もう何もできない。立場が、それを許さない。
無力感が、静かに胸を締めつけた。
言葉を運ぶ仕事を、私は誇りに思っている。誰かと誰かを繋ぐ、尊い仕事だと。けれど、その力が及ばない場所で、人が傷ついていく。それを、ただ、見ているしかない。誇りが、こんなにも、無力に感じられたことは、なかった。
――何か、できることは、ないのだろうか。
その問いが、初めて、はっきりと、私の胸に芽生えた。
サルディアの通訳官として、母国の崩壊に、関わる術はないのか。この皮肉な巡り合わせの中に、何か、道はないのか。私の言葉が、いつか、両国を繋ぐ橋になれる日は、来ないのか。
答えは、まだ見えなかった。けれど、その問いだけは、消えることなく、私の中に、残り続けた。
窓ガラスに映る自分の顔は、ひどく、思いつめて見えた。
私は、そっと、胸に手を当てた。鼓動が、速い。母国を案じる痛みと、何もできない焦り。その二つが、ない交ぜになって、私を、責め立てる。
――いつか、必ず。
まだ形にならぬその決意を、私は、暗い北の空に向かって、静かに、誓った。
言葉というものは、不思議だ。たった一語の選び方で、人を救うことも、殺すこともできる。剣も持たず、魔法も使えぬ私が、それでも、国の運命に関われるのは、その一語を、過たず選ぶ術を、知っているからだ。
けれど、その術を持つ私が、今は、何もできずにいる。持てる力を、ふるう場所がない。それが、これほど、苦しいとは。
私は、長いあいだ、窓辺に佇んでいた。冷えた夜気が、頬を撫でていく。それでも、部屋に戻る気には、なれなかった。北の空の、その向こうにいる人々のことを思うと、胸が、締めつけられて、動けなかった。
ふと、かつてバルトが言った言葉が、蘇った。「これから、ヴェルガの言葉は、少しずつ噛み合わなくなっていく。そして、気づいたときには――取り返しのつかないところまで」。あの予言は、寸分違わず、現実になっていた。老外交官の慧眼が、今になって、重く胸に響く。
あの方は、こうなることを、知っていた。だからこそ、私を、案じてくれた。そして、今もきっと、崩れゆく母国の中で、一人、心を痛めているのだろう。
私に、できることは、本当に、何もないのだろうか。サルディアの通訳官という立場のまま、母国の人々を、救う道は。考えても、考えても、答えは出ない。けれど、考えることを、やめたくはなかった。
その誓いが、やがて、私自身を、思いもよらぬ嵐の中心へと、導いていくことを。このときの私は、まだ、知らずにいた。




