第17話 記録の魔法
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ある日、私は条約文書の作成に立ち会うことになった。
サルディアと海洋同盟の間で結ばれる、新たな通商条約。その正式な文面と、各国語への訳文を確定させる、重要な作業だった。
案内されたのは、王宮の奥深くにある、文書庫だった。重い扉を開けた瞬間、私は思わず、息を呑んだ。
「これは……?」
壁一面に、古い羊皮紙が、整然と並んでいる。そのどれもが、淡い、乳白色の光を、まとっていた。まるで、文字そのものが、静かに息づいているかのようだった。
「記録の魔法だ」
殿下が、隣で説明した。
「条約や、その訳文には、すべてこの魔法が施される。一度記録されたものは、二度と書き換えられない。改竄を防ぐためだ」
「書き換えられない……一切?」
「ああ。後から一文字でも変えようとすれば、魔法が反発して、紙そのものが焼け落ちる。だから、ここに記録された文面は、未来永劫、その時のままに残る」
私は、その意味を、ゆっくりと噛みしめた。棚に並ぶ羊皮紙の一枚一枚が、過去のある瞬間に交わされた、国と国との約束を、永遠に封じ込めている。それは、荘厳でさえあった。
言葉が、永遠に残る。それは、訳す者にとって、恐ろしくも、誇らしいことだった。自分の選んだ一語が、未来永劫、消えることなく、国の間に残り続ける。もし、その一語を誤れば、誤りもまた、永遠に残る。けれど、正しく訳せば――その正しさもまた、消えることはない。
私は、棚にそっと手を伸ばし、けれど触れる手前で、止めた。これらは、国の記憶そのものだ。軽々しく、触れていいものではない。
「だからこそ、訳は慎重を期さねばならない」
殿下が言った。
「誤った訳を記録してしまえば、それは取り返しがつかない。後から『あれは誤りだった』と言い訳することも、許されない。記録が、すべてだ」
「……肝に銘じます」
私は、これまで以上の慎重さで、訳文の一語一語を吟味した。海洋同盟の独特な言い回し、その裏にある慣習。それらを過たず映し取り、確定させていく。一語を記すたびに、これが永遠に残るのだと思うと、指先に、自然と力がこもった。
海洋同盟の言葉は、特に難しい。彼らは、感情を直接、言葉にしない。喜びも、怒りも、すべて定型句の中に、そっと織り込む。「波は穏やかである」という一文が、文脈によっては、強い不満を示すこともある。その機微を読み違えれば、友好の証が、宣戦布告にもなりかねない。
私は、一文ごとに、相手国の使者の顔を思い浮かべ、その言葉が、どんな心から発せられたかを、丁寧に辿った。そうして選んだ訳語だけを、記録に残していく。慎重に、慎重に。これは、未来へ宛てた、消えない手紙なのだから。
作業の合間、ふと、私はある考えに行き当たった。
――この魔法は、ヴェルガにもある。
ヴェルガと諸国の条約にも、同じ記録の魔法が施されている。ということは。私が在職中に残した訳文も、すべて、消えることなく、どこかに記録されているはずだ。
私が、誰にも見られず、誰にも感謝されず、ただ正確であろうと心を砕いて残した、あの膨大な訳文の数々が。
それは、私の働きの、何よりの証だった。記録は、嘘をつかない。私が何をしたか、どれほど正確であったかは、あの光る羊皮紙たちが、永遠に証言してくれる。
その事実は、なぜか、私の心を静かに支えた。
ヴェルガで、私の働きは、誰の記憶にも残らなかった。手柄は奪われ、名は消され、私という人間が、そこにいたことすら、忘れられていく。けれど――記録庫の、あの光る羊皮紙たちだけは、違う。
私が選んだ一語一語が、そこに、刻まれている。誰に侮られようと、誰に忘れられようと、私の仕事は、確かに、世界に痕跡を残した。書き換えられることなく、永遠に。
その思いが、冷えていた誇りを、そっと、温め直してくれるようだった。
「ヴェント殿、どうかしたか」
黙り込んだ私に、殿下が声をかけた。
「いえ……ただ、思っていました。言葉を記録に残すというのは、責任であると同時に――誇りでもあるのですね」
殿下が、ふっと目を細めた。
「いい言葉だ。君らしい」
その柔らかな声音に、胸が、小さく跳ねた。私は、慌てて、手元の訳文に視線を戻した。
その時の私は、まだ知らなかった。
永遠に消えぬこの記録が、いつか、私自身を、無実の罪から救う、最後の証拠になることを。
文書庫を出るとき、殿下が、ふと言った。
「君は、言葉を、本当に大切にするのだな」
「言葉は、人と人を、国と国を、繋ぐものですから。粗末にすれば、繋がりそのものが、壊れてしまいます」
殿下は、しばらく私を見て、それから、静かに頷いた。その瞳に、何か、深い感慨のようなものが、浮かんでいた。
「……君のような人に、もっと早く出会いたかった」
その呟きの意味を、私は、聞き返せなかった。聞き返すのが、なぜか、怖かったから。
もっと早く出会いたかった。その言葉には、仕事の話とは思えない、個人的な響きがあった。けれど私は、また、いつものように、それを聞き流したふりをした。深く考えれば、心が、乱される。今は、目の前の記録に、集中しなければ。
そう自分に言い聞かせながらも、殿下のその一言は、その後も長く、私の胸の奥で、静かに響き続けた。まるで、記録の魔法のように。一度刻まれたら、もう、消すことのできない言葉として。
光る羊皮紙の前で、私はただ、言葉を残す仕事の重みを、改めて胸に刻んでいた。




