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王宮筆頭通訳官を辞めた翌朝、二国間の会話はすべて噛み合わなくなった  作者: ヲワ・おわり


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16/70

第16話 読めない眼差し

全70話で完結予定です。毎日5話ずつ、7:10 / 12:10 / 17:10 / 20:10 / 22:10 に投稿します。

面白いと思っていただけましたら、評価で応援してもらえると励みになります。

 サルディアでの日々の中で、私は殿下と過ごす時間が、自然と増えていた。

 交渉案件の打ち合わせ、書簡の解釈、各国情勢の検討。仕事を通じて、私たちは多くの言葉を交わした。殿下は寡黙な方だったが、私の意見には、いつも真摯に耳を傾けてくれた。

 そして、気づけば。

 殿下は、小さな気遣いを、惜しみなく私に向けるようになっていた。

 遅くまで仕事をしていれば、温かい飲み物が届く。私が北方風の蜂蜜菓子を好むと知ってからは、執務室にそれが切れることがなくなった。難しい案件で根を詰めていると、「少し休め」と、半ば強引に庭へ連れ出されることもあった。

 不思議だった。仕事の話をしているときの殿下は、理路整然として、隙がない。なのに、ふと話が途切れると、まるで、別人のように、言葉を探しあぐねる。私を見つめたまま、何かを言いかけては、飲み込む。その横顔は、寡黙な王太子のものというより、もっと、不器用な、一人の青年のようだった。

 その気遣いは、決して、押しつけがましくなかった。さりげなく、私の負担が減るように。私が心地よく仕事できるように。まるで、ずっと前から、私のことを見てきた人のような、自然な優しさだった。

 けれど、その自然さが、かえって、私を戸惑わせた。優しくされることに、私は、慣れていない。だから、その温かさを、どう受け止めればいいのか、分からなかった。

「殿下は、いつも私を気にかけてくださいますね」

 ある午後、庭の木陰で、私はそう口にした。

「君は、放っておくと倒れるまで働くからな」

 殿下は、そっけなく答えた。けれど、その横顔は、どこか柔らかかった。

「優秀な人材を、潰すわけにはいかない。それだけだ」

 ほら、やはり。優秀な人材。

 私は、その言葉を、いつものように胸の内で噛みしめた。殿下が私に向けてくれるものは、すべて、有能な通訳官への、合理的な配慮。そう理解するのが、いちばん安全だった。

 なのに。

 殿下が時折見せる、あの眼差し。仕事の話をしているとき、ふと言葉が途切れて、私を見つめる、あの長い視線。あれを「合理的な配慮」で説明するのは、どうにも、無理がある気がした。

 その日の帰り際、レナと二人になったとき、私はつい、零してしまった。

「レナ。殿下は、なぜあんなに、私を気にかけてくださるのかしら」

 すると、レナは目を丸くして、それから、呆れたように笑った。

「ヴェント様、それ、本気で言ってます?」

「……どういう意味?」

「いえ、その……」

 レナは、何か言いかけて、そこで急に表情を曇らせた。立場をわきまえたように、視線を落とす。

「すみません。私の口から言えることじゃ、ないので。ただ――」

「ただ?」

「殿下のことを、『優秀な人材だから』なんて理由で片付けるの、もったいないですよ。ヴェント様」

 レナは、それだけ言って、いたずらっぽく笑った。

 私は、その言葉の意味を測りかねた。

 もったいない。それは、いったい、どういう。

 考えれば考えるほど、分からなくなる。他人の言葉なら、一瞬で裏まで読めるのに。殿下と、私自身のことになると、まるで初めて言葉を学ぶ子供のように、何も読み取れなくなる。

 なぜ、だろう。

 いいえ――本当は、分かっているのかもしれない。読めないのではなく、読みたくないのだ。その答えを知ってしまえば、もう、知らなかった頃には、戻れなくなる。だから私は、無意識に、目を逸らしている。

 臆病な自分が、嫌になる。両国の使者の腹の内なら、恐れることなく覗き込めるのに。たった一人の人の想いと、自分の心の前でだけ、私は、こんなにも、足がすくむ。

 寝返りを打ち、私は、固く目を閉じた。考えるな。期待するな。私は、役に立つ通訳官。それで、十分だ。何度も、何度も、そう自分に言い聞かせた。

 けれど、心の奥で、小さな声が、囁いていた。本当に、それで十分なの、と。その声に、私は、ずっと、耳を塞ぎ続けていた。塞いでも、塞いでも、その声は、消えてくれなかった。むしろ、日に日に、大きくなっていく。あの青い眼差しを思い出すたびに。

 もったいない、とレナは言った。その言葉の続きを、彼女は、あえて言わなかった。立場上、言えないこと。それは、つまり――殿下に関わる、何か。

 考えれば考えるほど、一つの可能性に、行き当たりそうになる。けれど、その可能性に名前をつけるのが、怖かった。だから私は、また、思考に蓋をした。

 その夜、私は寝台の上で、天井を見上げていた。

 《君を、誇りに思う》

 《君が、君の力で立つところを、見たい》

 殿下の言葉が、次々と蘇る。そのどれもが、有能な部下への賞賛として聞けば、すんなり腑に落ちる。けれど――もし、そうでないとしたら。

 その先を考えようとして、私は慌てて目を閉じた。

 だめだ。期待してはいけない。私は、役に立つ通訳官。それだけで、十分すぎるほどなのだから。

 もし、期待して、それが思い違いだったら。私は、きっと、立ち直れない。ヴェルガで、何度も、味わってきた。期待が、裏切られる痛みを。だから、最初から、期待しないこと。それが、私の身を守る、唯一の術だった。

 けれど、瞼の裏に浮かぶあの眼差しは、いつまでも消えてくれなかった。

 その温かい青い色は、私が固く閉ざしたはずの心の扉を、静かに、叩き続けていた。トン、トン、と。返事をしてはいけないと、自分に言い聞かせながら――それでも、私の胸は、その音に、確かに、応えたがっていた。

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