第15話 遅すぎた気づき
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ヴェルガ王宮、通辞院。
事態は、もはや手のつけられないところまで来ていた。
リンドルとの通商は完全に停止し、北方諸国はヴェルガを「言葉の通じない、信用ならぬ国」と見なし始めていた。書簡を送れば送るほど、誤解が誤解を呼ぶ。外交が、根本から機能不全に陥っていた。
「どうすればいい……どうすれば」
ハーヴェイ院長は、憔悴しきっていた。後任の通訳官は、もはや何を訳しても裏目に出ると怯え、まともに仕事ができなくなっていた。机に積まれた未処理の書簡が、日に日に、高くなっていく。
追い詰められたハーヴェイは、ついに、一人の老人のもとを訪ねた。
引退した外交官、バルト・オルセン。
「バルト殿。どうか、知恵を貸してほしい。北方との交渉が、まったく立ち行かんのだ」
バルトは、訪ねてきた院長を、静かに見据えた。その目には、憐れみと、わずかな侮蔑が、混じっていた。
「立ち行かぬのは、当然でしょうな」
「な……」
「あなた方は、言葉を運ぶ者の価値を、軽んじすぎた。表に出た意味の裏を読む――それがどれほど高度な技であったか、その者を失って初めて、思い知っているのではありませんか」
ハーヴェイは、言葉に詰まった。
「オーレリア・ヴェント。あの娘がいた頃、ヴェルガの外交が一度でも、こんなふうに崩れたことがありましたかな」
「……それは」
「彼女は、あなた方が眠っている間に、国の言葉のすれ違いを、一つ残らず繕っていた。誰にも気づかれず、感謝もされず。そして、その働きを『口寄せ役』と侮られ、追い出された。――今さら、何を求めに来られた」
ハーヴェイは、青ざめた顔で立ち尽くした。
バルトの言葉は、容赦がなかった。けれど、すべて事実だった。
オーレリアがいた頃、通辞院は、静かだった。問題が起きる前に、すべてが、未然に処理されていたからだ。その静けさを、ハーヴェイは「平穏」だと思い込み、彼女の働きを、軽んじた。平穏は、自然にあるものではなかった。誰かが、見えないところで、必死に保っていたものだった。
「彼女を……呼び戻せば」
ハーヴェイが、すがるように言った。
「もう一度、彼女に頼めば、すべて元通りに」
「無理でしょうな」
バルトは、冷ややかに首を振った。
「彼女はもう、彼女を正しく見てくれる場所を見つけた。今さら、捨てた国に義理立てする理由が、どこにあります」
ハーヴェイは、何も言い返せなかった。
彼はようやく、理解し始めていた。自分たちが手放したのが、いかにかけがえのないものだったかを。けれど、その気づきは、あまりにも遅かった。彼女は去り、彼女の技を継ぐ者は、いない。崩れていく外交を、彼は、為す術もなく、見ているしかなかった。
通辞院の廊下を、ハーヴェイは、力なく歩いた。かつて、ここには、活気があった。難しい交渉の前には、必ず、あの娘が、遅くまで灯をともして、資料と向き合っていた。その姿を、彼は、当たり前の風景として、見過ごしてきた。
今、その灯は、消えている。
代わりにあるのは、後任の青年が、青ざめた顔で抱える、訳しきれぬ書簡の山だけ。ハーヴェイは、初めて、自分が何を失ったのかを、本当の意味で、思い知った。失われたのは、一人の通訳官ではない。国の言葉を支える、目に見えぬ大黒柱だったのだ。
バルトの言葉が、耳から離れなかった。「今さら、何を求めに来られた」。返す言葉は、なかった。すべては、自分たちが招いた結果だった。
その話は、人づてに、私のもとにも届いた。
ヴェルガが、私を呼び戻そうとしているらしい、と。
私は、執務室の窓辺で、その報を聞いた。
不思議と、心は波立たなかった。今さら呼び戻されたところで、戻る気などない。ただ――バルトが、私のためにそこまで言ってくれたことが、胸に沁みた。
あの老人だけは、ずっと、私の価値を知っていてくれた。それだけで、胸の奥が、温かくなる。新人だった頃、誰も褒めない私の訳を、「正確だ」と、ただ一度、言ってくれた。あの一言に、私は、どれほど支えられてきただろう。
「自分の価値を、自分で認めなさい」
別れ際の言葉が、また蘇る。
以前は、ただの慰めに聞こえた。けれど今は、少しだけ、その意味が分かる気がした。
私は、確かに、国を支えていた。誰にも見られなくても。それは、本当のことだったのだ。
窓の外、サルディアの空は高く澄んでいた。
ヴェルガが私の不在を思い知るほど、私はこの場所で、自分の価値を、少しずつ取り戻していく。
けれど、勝ち誇る気持ちには、なれなかった。母国の崩壊は、そこに生きる人々の苦しみでもある。私を切り捨てた者たちへの恨みより、巻き込まれる民への憐れみの方が、ずっと、大きかった。
――いつか、この崩壊を、私が止める日が来るのだろうか。
まだ見ぬその日を、私は、漠然と、予感していた。皮肉な巡り合わせだと、静かに思いながら。
「ヴェント様?」
レナが、私の顔を覗き込んだ。
「なんだか、難しいお顔をしてます」
「……ええ。母国のことを、少し」
「ヴェント様は、お優しいですね。あんな扱いを受けたのに、それでも、ヴェルガを案じてらっしゃる」
優しい、のだろうか。私には、よく分からなかった。ただ、言葉を運ぶ者として、すれ違いが人々を傷つけるのを、見過ごせないだけだ。たとえ、それが、私を捨てた国のことであっても。
私は、窓の外の空を、もう一度、見上げた。同じ空が、ヴェルガにも、続いている。その下で、言葉が、静かに、軋み続けていた。




