第14話 衆目の前で
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多国間交渉の卓は、緊張に満ちていた。
東のカルナ、西のメルダ、そして北方のもう一国。三国の使者が居並び、その後ろには、ロドリク侯をはじめとするサルディアの貴族たちが、品定めの目を光らせている。
私は、殿下のすぐ後ろに控えた。
ロドリク侯の視線が、ちらりと私を捉えた。失敗を待つ目だ。けれど、私は、まっすぐ前を見据えた。怯えは、もう、振り捨ててきた。
交渉は、最初から難航した。各国が表向きの要求を譲らず、議論は堂々巡りに陥る。卓上の空気が、じりじりと張り詰めていく。
「やはり、無理筋なのではないか」
貴族の一人が、聞こえよがしに呟いた。ロドリク侯が、満足げに口の端を上げる。
その時だった。
カルナの使者が、苛立ったように言い放った。
《サルディアは、我が国の立場をまるで理解していない。これでは、話にならぬ》
付き従う通訳が、それをそのまま訳そうとする。「話にならない」――決裂宣言と。
――違う。
私は、その言葉の裏を、はっきりと聞き取っていた。声の調子。最後にわずかに残された、ためらいの間。それは、席を立つ者の言葉ではない。むしろ、本音を引き出してほしいと、暗に訴える者の言葉だった。
私は、一歩、進み出た。
「恐れながら、発言の許可を」
ロドリク侯が、目を細める。来たな、とでも言いたげに。
私は構わず、カルナの使者に向き直った。
「カルナの使者殿。今のお言葉、私はこう受け取りました。『サルディアは、我が国が本当に求めているものを、まだ卓に乗せていない。それを示してほしい』――と。違いますか」
使者が、はっと顔を上げた。
「貴国が求めておられるのは、通商路の分配ではない。自国の特産品を、独占的に流す販路。その確約がないまま分配の話を進められても、応じようがない。――そうですね?」
使者は、しばらく私を見つめ、それからゆっくりと、深く頷いた。
「……いかにも。よくぞ、見抜かれた」
卓上の空気が、音もなく変わった。
貴族たちの間に、小さなどよめきが走った。決裂宣言と思われた一言が、実は、本音を引き出してほしいという、隠れた要請だった。それを、私は、声の調子と、わずかな視線の動きから、読み取った。
私の中で、静かな確信が、燃えていた。言葉の裏を読むこと。それは、決して、誰にでもできることではない。長い年月をかけて、無数の言葉と向き合い、人の心の機微を、肌で覚えてきた者にしか、できないこと。私は、それを、たった一人で、積み重ねてきた。その積み重ねが、今、ここで、ものを言う。
私は、すかさず、筋道を示した。カルナには販路を、メルダには通行税の保証を。それぞれの本音を満たす取引を、一つずつ、卓に乗せていく。表の言葉ではなく、裏の本音で。
ひとたび本音が卓に乗れば、交渉は、驚くほど滑らかに進んだ。互いに、相手が何を本当に欲しているか分かれば、譲るべきところと、守るべきところが、見えてくる。私は、ただ、その見えない本音を、言葉にして、両者の間に並べただけ。けれど、それこそが、いちばん難しいことだった。
使者たちが、次第に身を乗り出してくる。先ほどまでの、刺々しい空気は、もうどこにもなかった。
その様子を、殿下が、静かに見守っていた。私が言葉の橋を架けるたび、殿下は、王太子としての権威で、それを保証していく。私が示した本音の取引を、「サルディアは、それを約束する」と、重みのある一言で、裏づける。
二人の呼吸は、不思議なほど、合っていた。私が読み、殿下が決める。言葉にせずとも、互いの考えが伝わる。その感覚が、心地よかった。
堂々巡りだった議論が、潮が引くように整理されていった。三国の使者の表情が、次第に和らいでいく。自分たちの本当の望みが、ようやく卓に乗ったのだ。
半日後、交渉は合意に至った。
居並ぶ貴族たちは、言葉を失っていた。決裂寸前だった多国間交渉が、一人の通訳の働きで、すべての国が得をする形にまとまったのだ。
ロドリク侯さえ、苦々しげに口を閉ざしていた。
「見事だった」
殿下が、立ち上がり、衆目の前で、はっきりと言った。
「ヴェント殿の働きなくして、この合意はなかった。彼女は、サルディアにとって、なくてはならぬ人材だ。――異論のある者は?」
誰も、何も言わなかった。
私は、深く頭を下げた。胸が、熱かった。示せた。私の仕事が何であるかを、この国の人々の前で、確かに示せた。
退出する間際、殿下が、すれ違いざまに、私だけに聞こえる声で言った。
「……君を、誇りに思う」
その一言に、心臓が、跳ねた。
すれ違いざまに、私だけに告げられた言葉。その低い声音には、ただの賞賛とは違う、何か、もっと、温かいものが、滲んでいた気がした。
誇りに思う。それは、有能な部下への賞賛だろうか。それとも――。
私は、その言葉の真意を、また読みあぐねた。他国の使者の本音なら、あれほど鮮やかに読めたのに。殿下の、たった一言の意味だけは、霧の向こうにあるようで、掴めない。掴もうとすると、胸が、苦しくなる。だから私は、いつものように、考えるのを、やめた。
けれど一つだけ、確かなことがあった。
この方の前で、私はもう、「替えのきく口寄せ役」ではない。一人の専門家として、一人の人間として、確かに、ここにいる。
その実感が、じんわりと、胸を満たしていった。その夜、私は、久しぶりに、満ち足りた気持ちで眠りについた。




