第十六話⑤
無理かもしれない、と思ったけれど。
本当に無理だった。
先生がそのまま始業式の日程や提出物の説明を続けているのに、内容がほとんど頭に入ってこない。
プリントがどうとか、年間予定がどうとか、新しい教科書がどうとか。
言葉は聞こえているのに、意味として入ってこない。
だって。
背中のすぐ向こうに、ちとがいる。
椅子を引く小さな音。
紙をめくる気配。
ふとした呼吸の音まで聞こえてきそうで、意識が全部そっちへ向いてしまう。
こんなの集中できるわけがない。
「……坂城、聞いてるか?」
「へっ!?」
急に名前を呼ばれて立ち上がりそうになる。
教室のあちこちから笑い声が上がった。
「いや、そこまで驚かなくていい。提出書類は金曜まで、分かったか?」
「あ、はい! 分かりました!」
顔が熱い。
絶対赤くなってる。
先生は苦笑いしながら話を戻したけれど、私はしばらく前を向けなかった。
恥ずかしい。
初日から何してるんだろう私。
後ろから、かすかに気配が揺れた。
……ちと、笑ってる?
振り向けないけど、たぶん笑っている。
そう思うと余計に悔しい。
ようやくホームルームが終わり、「少し休憩な」と先生が出ていった瞬間、教室が一気にざわめいた。
そして当然のように、ちとの周りに人が集まり始める。
「ほんとに小柴くんなんだ」
「サウズって呼んだ方がいい?」
「ライブ行ったことある!」
「転校ってびっくりしたー」
男女問わず、興味津々だ。
でも、ちとは困った様子もなく落ち着いて答えている。
「小柴でいい」
「ライブ来てくれてありがとう」
「転校は……まあ、いろいろあって」
やっぱりすごいな、と思う。
こんな状況でもちゃんと対応できるんだ。
私だったら絶対無理だ。
「明日香」
綾香がすごい勢いで前の席から振り向いてきた。
「な、なに」
「なにじゃない!」
小声なのに圧が強い。
「後ろ! 後ろじゃん!?」
「そうだね……」
「なんで平然としてるの!?」
「してないよ!」
「えー?
あ、ほんとだ。よく見たら顔真っ赤じゃん」
「えっ」
反射的に頬を押さえる。
綾香はじっと私を見ると、にやっと笑った。
「なるほどね」
「何が」
「これは今年一年、面白くなりそう」
「やめて」
「だって秘密の恋人が後ろの席だよ? 少女漫画?」
「声小さくして!」
私は机に突っ伏したくなった。
綾香だけが事情を知っているからこそ、この状況の破壊力を理解している。
そして絶対楽しんでいる。
「でもよかったじゃん」
綾香が少しだけ優しい声になる。
「同じ学校、同じクラスなんて」
その言葉に、胸が静かに揺れた。
……よかった。
確かに、そうだ。
驚きすぎて忘れかけていたけれど、これは本来すごく嬉しいことだ。
学校で会える。
同じ教室で過ごせる。
同じ景色を見られる。
今まで当たり前じゃなかったことが、急に当たり前になる。
それがどれだけ特別か、私は知っている。
「……うん」
小さくうなずくと、綾香も満足そうに笑った。
「よし。じゃあ私は高野くんとの同じクラスを満喫するので」
「そっちもがんばって」
「言われなくても」
くるっと前を向いた綾香の背中を見て、少し笑う。
その時、私の机の横に影が落ちた。
「坂城」
顔を上げると、ちとが立っていた。
近い。
教室でちとが真後ろに座っているなんて、変な感じだ。
「……な、なに?」
「さっきのプリント、二枚目ある?」
「あ」
机の上を見ると、私のところに配られた束の中に一枚多く入っていた。
緊張しすぎて気づいていなかったらしい。
「これ……かな」
「たぶんそれ」
ちとが手を伸ばす。
紙を渡すだけ。
ただそれだけなのに、指先が触れそうになって心臓が跳ねた。
「ありがと」
「……うん」
短いやり取り。
それだけで十分だった。
ちとは自然に席へ戻っていく。
周りから見れば、ただクラスメイト同士が話しただけ。
でも私には、それだけで胸がいっぱいになる。
新学期初日。
まだ始まったばかりなのに、こんなに落ち着かない一年になる予感しかしなかった。




