第十五話③
楽しかった時間ほど、どうしてこんなにあっという間なんだろう。
時計を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮むみたいに苦しくなった。さっきまで一緒に笑って、隣に座って、肩が触れるたびに嬉しくなっていたのに。帰る時間だと分かっただけで、部屋の空気まで急に静かになった気がする。
「……もうこんな時間か」
ちとが小さく言って、立ち上がる。
その声を聞いただけで、寂しい、って気持ちが一気に押し寄せてきた。
「うん……」
私も立ち上がったけど、足取りは自然と遅くなる。少しでもこの時間を伸ばしたいみたいに。
ちとはそんな私を見て、少しだけ困ったように笑った。
「そんな顔しないで」
「してないし」
「してる」
即答されて、思わず唇を尖らせる。
だって仕方ない。してる自覚はある。あるけど、認めたら本当に終わってしまう気がした。
ちとはテーブルの上に置いていた帽子を取り、マスクを手にした。外に出るための、いつもの姿になる準備。
その何気ない動作を見るたびに、私たちの恋は普通とは少し違うんだと実感する。
本当なら、玄関まで送って、そのまま駅まで一緒に歩いたりできるのかもしれない。別れ際に手を振って、またねって笑い合えたりするのかもしれない。
でも私たちは、それができない。
それでも。
それでも私は、ちとの隣にいられる今が嬉しい。
「明日香」
「ん?」
「こっち」
呼ばれて近づくと、ちとの腕がそっと私の肩を引き寄せた。
「……わっ」
そのまま抱きしめられる。
今日何度もされたのに、やっぱり慣れない。胸が一気に熱くなって、鼓動が速くなる。
「またすぐ会える」
耳元で静かに言われる。
その声が優しくて、泣きそうになる。
「……うん」
「そんなに不安そうな返事?」
「不安じゃないもん」
「じゃあ寂しい?」
「……それは、少しだけ」
「少し?」
「……かなり」
正直に言ったら、ちとの肩が小さく揺れた。笑ってる。
「正直でよろしい」
「ちとが聞かせたんでしょ」
「そうだな」
こういう何気ないやり取りが好きだ。特別な言葉じゃなくても、ちゃんと恋人なんだって思えるから。
抱きしめる力が少しだけ強くなる。
「俺も寂しいよ」
その一言に、胸がどくんと鳴った。
ちとはこういうことを、さらっと言う。ずるいと思う。
「……ずるい」
「何が?」
「そういうこと言うとこ」
「本当のことだけど」
顔が熱い。見られたくなくて、私はちとの胸元に額を押しつけた。
しばらくそのままでいたかったけど、時間は待ってくれない。
ちとがゆっくり体を離して、帽子を被り、マスクをつける。フードも軽くかぶれば、さっきまで私の前で笑っていた恋人が、外向けの誰にも気づかれない姿になる。
少しだけ切ない。
「じゃあ、行く」
「……うん」
玄関まで見送る。
ドアの前で向かい合うと、さっきまで近かった距離が少し遠く感じた。
「明日香」
「なに?」
「新学期、無理しすぎるなよ」
「ちとこそ。忙しくてもちゃんと寝てね」
「努力する」
「それ絶対寝ない人の言い方」
「ばれたか」
思わず笑ってしまう。
こうして最後まで、私を笑わせてくれる。
ちとは一瞬だけ周りを気にするように視線を動かしてから、マスク越しでも分かるくらい柔らかい目をした。
「また連絡する」
「待ってる」
「……好きだよ」
一瞬、時間が止まったみたいだった。
言い逃げみたいに、ちとはそのままドアを開ける。
「え、ちょ、ちと——」
「じゃあな」
閉まるドア。
残された私は、しばらくその場から動けなかった。
……ずるい。最後にそんなこと言うなんて。
心臓がうるさい。顔も熱い。誰も見ていないのに、私は玄関でひとりしゃがみこみそうになった。
「もう……ばか」
小さく呟いて、でも口元は勝手に緩んでしまう。
数秒後、私はそっとドアを開けて外を見る。
もちろん、そこにはもう誰もいなかった。
分かっていたのに、少しだけ期待してしまった自分が恥ずかしい。
部屋に戻ると、さっきまで二人でいた空気がまだ残っている気がした。座っていた場所。笑い声が響いていた時間。触れた手のぬくもり。
全部、ちゃんとここにあった。
寂しい。
でも、それ以上に幸せだった。
会えない時間があるから、会えた時がこんなに嬉しいのかもしれない。
私はソファに座って、クッションを抱きしめる。
ちとがいた場所を見るだけで、胸の奥がじんわり温かくなった。
次に会えるのはいつだろう。
新学期が始まれば、お互い忙しくなるかもしれない。二年生になれば、また新しい毎日が始まる。
不安がゼロなわけじゃない。
でも、今日ちとは何度も言ってくれた。
大丈夫だって。続けていこうって。
だから私も信じたい。
「……次会う時、もっと可愛くなってやる」
誰もいない部屋で呟いて、自分で照れる。
そんなことを考えられるくらいには、私は浮かれているらしい。
窓の外には、やわらかな春の夕方。
新しい季節が、もうすぐ始まる。
その先にも、ちとがいてくれますように。
私はそっとスマホを手に取って、ちとからの連絡を少しだけ期待しながら画面を開いた。




