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第8話 忘れられた子どもの歌

朝の食堂に、歌が戻ってきた。


最初は、かすかな鼻歌だった。


パンの匂い。

スープの湯気。

食器の触れ合う音。

子どもたちの声。


いつもの朝の中に、細い糸みたいな旋律が混じっていた。


昨日、続きを忘れてしまった年少の女の子が、窓際の席で小さく歌っている。


昨日よりは、少しだけ思い出せていた。


けれど、やっぱり途中で止まる。


「……あれ」


女の子は首を傾げた。


「また、ここから先が出てこない」


向かいの子がパンをかじりながら言う。


「そこ、いつも変になるね」


「うん。ここだけ、すーってなくなる」


「すーって?」


「うん。口の中から、歌が逃げる感じ」


ましろは、配膳の手を止めた。


記憶喰い(メモリア・モス)の蛾は、もういないはずだった。


食堂の色も戻った。

悠太の絵も、少しずつ色を取り戻している。

ソラの席札も、今朝はちゃんと残っていた。


けれど、すべてが元通りになったわけではない。


失われかけた記憶は、まだところどころに穴を空けている。


それは大きな傷ではなかった。


誰かが倒れたわけでもない。

名前が消えたわけでもない。

食堂も、子どもたちも、今朝はいつも通りに見える。


でも、歌の続きだけが戻ってこない。


ましろは、それがとても寂しかった。


「どんな歌だったっけ?」


ましろが聞くと、女の子は少し照れたように笑った。


「えっとね」


彼女は、もう一度歌い始める。


星が眠る丘のうえ

ちいさな鐘が鳴りました

帰る名前をなくしても

あかりは窓に――


そこで止まった。


女の子は眉を寄せる。


「……あれ?」


「窓に?」


ましろが続きを促す。


「うん。窓に……何かあるの」


「灯る?」


「違う気がする」


「残る?」


「それも違う」


女の子は小さく唇を尖らせた。


「大事なところなのに」


その言い方が、ましろの胸に引っかかった。


大事なところ。


なぜ大事なのかは分からない。


でも、大事だった気がする。


レムの言葉が、遅れて胸の奥で形を持った。


思い出が、ただの情報になる。


出来事は残っている。

でも、そこにあった温度や色が抜け落ちる。


ましろは食堂の窓際を見た。


ソラの席がある。


今日もそこに、ソラは座っていた。


まだ輪郭は少し薄い。

でも昨日よりもずっと、そこにいる。


席札には、ねむの字で大きく書かれている。


ソラの席。


その下に、悠太の青い星。

ましろが書いた「また明日」。

さらに小さく、子どもたちが書き足した「ソラくん」の文字。


文字は少しずつ薄れる。


けれど、誰かが見つけるたびに書き直す。


だから今朝も、ソラはそこにいられる。


ソラは歌っている女の子を見ていた。


いつもの困ったような笑みではない。


何かを探している顔だった。


「ソラ」


ましろが声をかけると、ソラはゆっくりこちらを見る。


「その歌、知ってる?」


「……分からない」


ソラは少し考えた。


「でも、聞いたことがある気がする」


ねむがスープの器を持ったまま近づいてきた。


「ソラの“気がする”は、だいたい何かある」


「便利に扱われてる」


「便利だから」


「否定できない」


ソラは小さく笑った。


けれど、すぐに視線を落とす。


「でも、思い出そうとすると、遠くなる」


「遠くなる?」


「うん。時計台の上から声を聞いてるみたいに」


時計台の冷たい階段が、ましろの足裏に戻ってきた。


止まっていたはずの古い時計。

一分だけ進む針。

灰色の髪の少年。

誰にも知られていなかった席。


ソラの記憶は、いつも少し遠くにある。


手を伸ばせば届きそうで、でも届かない場所。


「レムに聞いてみよう」


ましろが言うと、ねむは小さく頷いた。


「あと、院長先生にも」


食堂の奥で、星守澄が手を止めていた。


彼女は、女の子が歌った旋律を聞いた瞬間から、ずっと動いていない。


スープの器を手にしたまま、窓の外を見るような目をしている。


ましろはその表情を見て、胸の中で何かが沈むのを感じた。


院長先生は、この歌を知っている。


たぶん。


礼拝室は、いつもより静かだった。


高い窓から入る朝の光は白く、床の魔法陣を薄く照らしている。


祭壇の上には、星律の杖。


その青い宝石の中で、レムが腕を組んでいた。


「忘れられた歌?」


「うん」


ましろは食堂で聞いた歌詞を伝えた。


星が眠る丘のうえ。

ちいさな鐘。

帰る名前。

窓のあかり。


レムは途中から、少しだけ表情を変えた。


いつもの皮肉っぽい顔ではない。


もっと古いものに触れてしまったような顔だった。


「星帰りの歌ね」


「星帰り?」


「名前を失いかけた子を、家へ戻すための古い歌。正確には、歌というより祈りに近い」


「祈り……」


ましろは胸元を押さえた。


「どうして孤児院の子たちが知ってるの?」


レムは答えなかった。


代わりに、澄を見た。


澄は祭壇のそばに立っていた。


その顔は、いつもよりずっと静かだった。


「昔、よく歌われていたのです」


澄が言った。


「星見坂孤児院で」


「昔って、どのくらい昔ですか」


ねむが聞く。


澄は少し黙った。


「少なくとも、十六年前には」


十六年前。


ましろがこの孤児院に来た夜。


流星群の夜。


青い宝石を胸元に宿していた赤ん坊。


ましろは、自然と息を詰めた。


「その歌、私と関係ありますか」


澄はすぐには答えなかった。


それだけで、ましろは答えを半分知ってしまう。


「ありますね」


ねむが言った。


声が少し硬い。


「また“まだ話せない”ですか」


澄は目を伏せた。


「話せることと、話せないことがあります」


「便利な境界線ですね」


「ねむ」


ましろが止める。


ねむは黙った。


でも、目は逸らさなかった。


澄は静かに息を吐く。


「この歌は、かつて孤児院で迷子になった子どもたちを落ち着かせるために歌われていました」


「迷子?」


「名前を呼ばれても振り返らない子。自分の部屋を思い出せない子。夢から戻ってこられない子。そういう子たちに」


ましろは礼拝室の床を見る。


星の線が、薄く刻まれている。


ここは家で、結界で、封印でもある。


その場所で、昔から誰かが歌を歌っていた。


帰れなくなりそうな子を、呼び戻すために。


「じゃあ、続きを思い出せば、昨日食べられた記憶の色も戻るかもしれない?」


ましろが聞くと、レムは少し考えた。


「可能性はあるわ。ただし、注意が必要ね」


「注意?」


「古い歌は、ただの歌ではない。言葉が鍵になることがある」


澄が小さく頷く。


「名前に関わるものは、扉を開けることがあります」


ましろは、胸元の宝石を押さえた。


名前は鍵。


礼拝室で聞かされた言葉が、胸の奥で静かに蘇る。


「じゃあ、歌わない方がいいの?」


「そうとは限らない」


レムが言う。


「忘れられた歌をそのまま放置すれば、空白ができる。王冠の先触れが動いているなら、その空白は利用されるかもしれない」


「王冠……」


昨夜、浄化された蛾の羽根に残っていた模様。


割れた、小さな王冠。


その形を思い出した瞬間、礼拝室の空気が少し重くなった。


ねむが腕を組む。


「つまり、歌っても危ない。忘れても危ない」


「ええ」


「ほんと最悪」


「同感ね」


レムがあっさり言う。


「でも、何もしないのが一番危険な場合もある」


ましろは、食堂の女の子の顔を思い出した。


大事なところなのに。


そう言って、歌の続きを探していた。


ましろは静かに言った。


「探したいです」


澄がましろを見る。


「ましろ」


「本当の名前には近づかないようにします。でも、あの歌をそのまま失くしたくない」


ましろは言葉を選ぶ。


「昨日、ソラの席を作りました。消えそうなら何度でも書くって決めました。歌も、きっと同じだと思うんです」


ねむが少しだけ横目でましろを見た。


ソラも、何も言わずに聞いている。


「全部を元通りにはできないかもしれない。でも、思い出そうとすることはできる」


ましろは杖の宝石を見る。


「そうでしょう、レム」


レムはしばらく黙っていた。


それから、小さく息を吐く。


「八十三点」


ましろは少し驚いた。


「高い」


「調子に乗ると減点」


「はい」


ねむがぼそりと言う。


「最近、ましろの点数制度に慣れてきた自分が嫌」


「慣れは成長よ」


レムが言う。


「違うと思う」


ソラが小さく笑った。


その笑い声で、礼拝室の空気がほんの少しだけ軽くなる。


澄はしばらくましろを見つめていた。


そして、静かに言った。


「古い歌集が残っています」


「歌集?」


「北棟の書庫に。今はほとんど使われていない場所です」


ねむの顔が少し曇る。


「北棟って、またあの寒いところですか」


「ええ」


「孤児院、怪しい場所が多すぎる」


「申し訳ありません」


「謝られると文句が言いづらいです」


「ねむ、それ言ってる時点で文句言ってるよ」


ましろが言うと、ねむは肩をすくめた。


「控えめにしてる」


ソラが首を傾げる。


「控えめ?」


「控えめ」


「そっか」


ソラは素直に頷いた。


ねむは少しだけ気の抜けた顔をした。


「ソラって、たまに調子狂う」


「ごめん」


「謝るともっと狂う」


ましろは少し笑った。


こういう小さなやり取りが、今はありがたかった。


怖いことばかりではない。


謎ばかりでもない。


ちゃんと、今ここにいる人たちの声がある。


それが、ましろを少しだけ強くしてくれる。


北棟の書庫は、時計台へ続く廊下の少し手前にあった。


扉は細く、木の色はすっかりくすんでいる。


真鍮の取っ手には、薄い埃が積もっていた。


澄が鍵を開ける。


扉が軋む。


中から、古い紙の匂いが流れてきた。


ねむが顔をしかめる。


「またこの匂い」


「嫌い?」


ソラが聞く。


「嫌いじゃないけど、夢で嗅いだ匂いと似てる」


夢で嗅いだ匂い。


その一言で、ましろの胸の奥に、ねむが持ち帰った夜の残り香がひらいた。


水の張った廊下。


白紙の席札。


青黒く揺れるランタン。


古い紙の匂い。


ましろ自身が見た夢ではない。


それなのに、その景色はいつの間にか彼女の中にも入り込み、記憶と呼ぶには薄く、予感と呼ぶには生々しい形で残っていた。


あの夢は、まだ終わっていない。


そう思った。


書庫の中は、思ったより狭かった。


壁一面に棚があり、古い本や紙束が詰め込まれている。


楽譜。

日誌。

古い名簿。

子どもたちが描いたらしい絵。


忘れられたものが、ここに押し込められているようだった。


ましろは胸元の宝石が少しだけ温かくなるのを感じた。


「この辺りです」


澄は棚の下段から、薄い布に包まれた本を取り出した。


表紙は茶色く変色している。


題名はかすれていて読みにくい。


けれど、中央に小さな星の紋章があった。


澄が布をほどく。


古い歌集だった。


ページをめくるたび、紙が小さく鳴る。


ぱり、と。


まるで眠っていたものが、体を起こす音みたいだった。


「星帰りの歌は……」


澄の指がページを止める。


そこには、確かに歌詞が書かれていた。


星が眠る丘のうえ

ちいさな鐘が鳴りました

帰る名前をなくしても

あかりは窓に――


そこで、文字が途切れていた。


その先が、白い。


インクが消えたのではない。


最初から何も書かれていなかったみたいに、そこだけ空白になっている。


ましろは息を呑む。


「ここも消えてる……」


「昨日の星骸の影響かもしれない」


レムが言う。


杖の中から覗き込むようにして、宝石が淡く光っている。


「でも、少し変ね。記憶喰いだけでここまで綺麗に抜けるかしら」


「どういう意味?」


「誰かが、もっと前に隠した可能性がある」


澄の指が、ほんの少し震えた。


ねむはそれを見逃さなかった。


「院長先生」


澄は目を閉じた。


「……この歌は、途中から歌われなくなりました」


「どうして」


「危険だったからです」


「何が?」


澄は答えに詰まった。


ましろは静かに待った。


今すぐ全てを聞き出したい気持ちはある。


でも、澄が何かを隠している時、その奥にはいつも痛みがある。


ましろは最近、少しだけそれが分かるようになってきた。


澄は、ゆっくり言った。


「最後の節に、名前を呼び戻す力がありました」


「それは、いいことじゃないんですか」


「本来は」


澄の声がかすれる。


「けれど、呼び戻してはいけない名前もあります」


ましろの胸元の宝石が、強く脈打った。


一度だけ。


どくん、と。


ましろは服の上から胸を押さえる。


「ましろ?」


ねむが顔を覗き込む。


「大丈夫」


ましろは小さく頷いた。


けれど、体の奥で何かが鳴っている。


この歌は、自分の本当の名前に近い。


それを直感で理解してしまった。


ソラが、歌集の空白部分を見つめていた。


「ここ、何か書いてある」


「え?」


ましろはページを見る。


何もない。


白い空白。


けれどソラは、目を細めた。


「薄い。読めないくらい薄いけど」


「ソラには見えるの?」


「たぶん、忘れられた文字だから」


その言葉に、誰もすぐには返せなかった。


忘れられるソラだから、忘れられた文字が見える。


弱さが、また別の形で道を開く。


ましろはそっと言った。


「何て書いてある?」


ソラはページに顔を近づける。


でも、すぐに眉を寄せた。


「文字が逃げる」


「逃げる?」


「見ようとすると、遠くなる」


ねむが夢見のランタンを掲げた。


「これ、使える?」


レムが少し考える。


「夢見のランタンは記憶の欠片を照らす。歌の記憶なら、反応する可能性はある」


「また私の担当」


「嫌ならやめてもいいわ」


「やる」


ねむは即答した。


ましろが心配そうに見ると、ねむは目を細める。


「その顔やめて」


「まだ何も言ってない」


「顔が言ってる」


「無理しないでねって」


「だから、その顔」


ねむはランタンを歌集の近くに置いた。


青黒い光が硝子の中で揺れる。


書庫の空気が少し冷えた。


ページの空白部分に、淡い金色の影が浮かぶ。


文字ではない。


音符のようなもの。

星座の線のようなもの。

子どもの指でなぞった跡のようなもの。


ましろの耳に、かすかな歌声が聞こえた。


知らない声。


でも、どこか懐かしい。


星が眠る丘のうえ

ちいさな鐘が鳴りました

帰る名前をなくしても

あかりは窓に――


そこで、別の声が重なった。


小さな子どもたちの声。


何人もいる。


笑いながら歌っている。


少し調子外れで、ところどころ歌詞が曖昧で、それでも楽しそうだった。


その中に、ひとつだけ、少し低い声が混じっている。


ソラの声に似ていた。


「……僕?」


ソラが呟く。


その瞬間、歌集の空白に、ぼんやりと線が浮かんだ。


あかりは窓に――


残る、ではない。


灯る、でもない。


そこに浮かびかけた文字は、すぐに崩れた。


ねむのランタンが激しく揺れる。


「何か来る」


ねむが低く言った。


次の瞬間、書庫の棚が一斉に震えた。


古い名簿。


楽譜。


絵。


紙という紙が、ざわざわと音を立てる。


まるで、眠っていた記録たちが何かに怯えているみたいだった。


ページの空白から、黒い染みが滲み出す。


それは王冠の形になりかけて、すぐに崩れた。


レムが叫ぶ。


「閉じて!」


澄が歌集を閉じる。


ばたん、と乾いた音が書庫に響いた。


黒い染みは消えた。


けれど、空気の中に嫌な余韻が残っている。


ましろは息を荒くしていた。


胸元の宝石が熱い。


今の一瞬、何かが近づいた。


名前ではない。


けれど、名前の周りを囲む何か。


王冠。


それが、こちらを見た。


そんな気がした。


「歌を探すだけでも反応するの?」


ましろが聞く。


レムの表情は硬い。


「歌そのものが、扉に近いのかもしれない」


「じゃあ、続きを見つけたら危ない?」


「危ない。でも、見つけなければ別の危険が残る」


ねむが額を押さえた。


「ずっとその二択」


ソラは歌集を見ていた。


少し青ざめている。


「僕、思い出したかもしれない」


ましろが振り向く。


「何を?」


「この歌、食堂で歌ったことがある」


「いつ?」


ソラは首を振る。


「分からない。昨日じゃない。今日でもない。もっと前」


「十六年前?」


澄の目がわずかに揺れた。


ソラはその反応に気づいたようだった。


「僕、ここにいたのかな」


その問いに、澄は何も答えられなかった。


ソラは困ったように笑う。


「そっか。まだ分からないよね」


責めない。


まただ。


ソラはいつもそうだ。


忘れられることにも、曖昧にされることにも、慣れているように笑う。


ましろはそれが、やっぱり嫌だった。


「ソラはここにいたよ」


気づけば、そう言っていた。


ソラがましろを見る。


「まだ証拠はないけど」


ましろは続けた。


「でも、食堂で歌った気がするなら、きっといた。ここに、ソラの歌も残ってる」


ソラは何も言わなかった。


ただ、少しだけ目を伏せた。


ねむが横から言う。


「証拠なら作ればいい」


「え?」


ソラが聞き返す。


「思い出したことを書けばいい。歌った気がする、でもいい。ここにいたかもしれない、でもいい。消えたらまた書く」


ソラは小さく笑った。


「ねむは、本当にそればっかりだね」


「有効だから」


「うん」


ソラは頷いた。


「有効だと思う」


その日の午後、ましろたちは歌の続きを探すのをやめなかった。


ただし、無理に空白を読もうとはしなかった。


代わりに、歌を覚えている人を探した。


食堂の子どもたち。

職員。

古い日誌。

悠太のノート。

ソラの曖昧な記憶。

ねむの夢の断片。


全部を少しずつ集めていく。


けれど、誰も最後の一節を完全には覚えていなかった。


「あかりは窓に、までなら分かる」


「その後、帰っておいで、みたいな感じだった気がする」


「違うよ。名前を呼ぶんだよ」


「でも誰の名前?」


「それは分からない」


欠片ばかりだった。


どれも正しいようで、どれも足りない。


夕方になるころには、ましろのノートにいくつもの言葉が並んでいた。


窓。

あかり。

帰る。

名前。

鐘。

丘。

星。


その中心だけが、ぽっかり空いている。


まるで、誰かの席みたいに。


悠太はずっと考えていた。


スケッチブックを抱えて、食堂の隅に座っている。


ページには、子どもたちが輪になって歌っている絵が描かれていた。


その中に、ソラもいる。


ましろもいる。


ねむは面倒くさそうな顔で立っている。


レムは杖の中から何か言っている。


院長先生は、少し離れたところで見守っている。


その絵の上に、悠太は青いクレヨンで星を描いた。


七つ。


そのうち一つだけ、まだ色を塗っていない。


「悠太くん」


ましろが声をかけると、悠太は顔を上げた。


「どうしたの?」


「この星、どうして塗らないの?」


悠太は少し考えた。


「まだ帰ってきてないから」


ましろは息を止めた。


「帰ってきてない?」


「うん」


悠太は当たり前みたいに言う。


「歌の中の子」


「歌の中の子……」


「たぶん、帰りたいんだと思う」


悠太はスケッチブックを見下ろす。


「でも、名前がないから帰れない」


その言葉に、ましろの胸元の宝石がかすかに光った。


帰る名前をなくしても。


歌詞の一節が頭の中で響く。


帰る名前。


帰るための名前。


ましろは、ふと気づいた。


「歌の続きを、思い出さなきゃいけないんじゃないのかも」


ねむが顔を上げる。


「どういうこと?」


「全部元通りにするんじゃなくて」


ましろは言葉を探した。


「今の私たちで、続きを歌ってもいいのかもしれない」


礼拝室で、レムが言っていた。


忘れられた歌を放置すれば、空白ができる。


なら、その空白を、怖がるだけではなく。


新しい言葉で埋めることはできないだろうか。


失われたものをなかったことにするのではなく。


失われた場所に、もう一度あかりを置くように。


ねむが腕を組んだ。


「つまり、替え歌?」


「言い方」


「違うの?」


「たぶん違う」


ソラが小さく笑った。


「でも、いいと思う」


ましろはソラを見る。


「ソラ」


「僕、昨日のパンを今日から知ってるって言ったでしょ」


「うん」


「歌も、今日から知っていいんじゃないかな」


その言葉は、とても静かだった。


でも、ましろの中にすっと入ってきた。


歌を思い出せないことは悲しい。


でも、思い出せないから終わりではない。


もう一度、みんなで歌にする。


それも、記録のひとつなのかもしれない。


ましろはノートを開いた。


あかりは窓に――


その先に、ペンを置く。


少し考える。


そして、ゆっくり書いた。


あかりは窓に、待っている。


ねむが覗き込む。


「普通」


「だめ?」


「悪くない」


「それ、ねむ的には褒めてる?」


「かなり」


ソラが言う。


「僕は好き」


ましろは少しだけ笑った。


「じゃあ、歌ってみよう」


夕食のあと。


食堂に、子どもたちが集まった。


いつもより少しだけ静かだった。


テーブルの上には、ましろが書き直した歌詞が置かれている。


星が眠る丘のうえ

ちいさな鐘が鳴りました

帰る名前をなくしても

あかりは窓に、待っている


誰かが小さく読み上げた。


「待っている」


女の子が、少しだけ目を輝かせた。


「それ、いい」


「本当に?」


ましろが聞くと、女の子は頷いた。


「そこに帰れそう」


その一言で、ましろは胸がいっぱいになった。


ソラは窓際の席に座っている。


自分の席。


まだ少し落ち着かなそうに、でもちゃんとそこにいる。


悠太がスケッチブックを抱えて、ソラの隣に座った。


ねむは壁際に立っている。


「ねむも歌う?」


ましろが聞くと、ねむは露骨に嫌な顔をした。


「歌わない」


「えー」


悠太が不満そうに言う。


「ねむお姉ちゃんも歌おうよ」


「私は聞く係」


「聞く係も歌えるよ」


「それは兼任しない」


ソラが小さく言った。


「ねむの声、少し聞いてみたい」


ねむはソラを見る。


「急に何」


「だめ?」


「……だめではないけど」


ましろは笑いそうになるのをこらえた。


ねむは小さくため息をつく。


「小声なら」


「やった」


悠太が嬉しそうに笑う。


レムは杖の宝石の中から、少し離れた場所で見ていた。


「歌詞を強く意識しすぎないで」


レムが言う。


「祈りは、力を込めすぎると鍵になる。今は、ただ歌いなさい」


「ただ歌う」


ましろは頷いた。


澄は食堂の入口に立っていた。


胸元で手を組んでいる。


その瞳には、かすかな涙が浮かんでいるようにも見えた。


子どもたちは、少しずつ歌い始めた。


星が眠る丘のうえ。


ちいさな鐘が鳴りました。


帰る名前をなくしても。


あかりは窓に、待っている。


最初はばらばらだった。


音程も、速さも、少しずつ違う。


でも、それでよかった。


誰かが間違えると、隣の子が笑う。


途中で止まる子がいると、別の子が続ける。


悠太は少し大きな声で歌った。


ソラは、最初は口を閉じていた。


けれど二回目の途中で、ほんの少しだけ声を重ねた。


低くて、細い声。


食堂のざわめきに消えそうなくらいの声。


それでも、ましろには聞こえた。


ソラが歌っている。


その瞬間、窓際の席札が淡く光った。


ソラの席。


また明日。


そして、ましろの胸元の宝石も、静かに光った。


熱くはない。


痛くもない。


ただ、遠くから誰かがこちらを見るような感覚があった。


ましろは少し怖かった。


でも、歌を止めなかった。


歌は食堂の中をゆっくり満たしていく。


それは魔法のようで、魔法ではない。


ただ、誰かを待つための歌。


帰る場所があると知らせるための歌。


三回目を歌い終えた時、悠太のスケッチブックがぱらりと開いた。


誰も触れていない。


ページがめくられ、昼間描いた絵の隣に、新しい絵が浮かび上がっていた。


子どもたちが歌っている絵。


その窓の外に、白い髪の少女が立っている。


ましろに似ている。


でも、ましろではない。


少女は、食堂の中を見ていた。


その表情は、少しだけ寂しそうで。


少しだけ、安心したようにも見えた。


ページの下に、小さな文字が浮かぶ。


また歌ってね。


悠太が目を丸くした。


「これ、ぼく描いてない」


ましろはその文字を見つめた。


また歌ってね。


その一文だけで、胸の奥が震えた。


ねむも近づいてきて、絵を覗き込む。


「白い髪の女の人」


鏡の向こうで、夢の奥で、何度もこちらを見ていた影。


名前を呼べないまま、ましろに似た姿だけを残していく人。


その気配が、今は紙の上にいた。


ソラも絵を見た。


「この人」


「知ってるの?」


ましろが聞く。


ソラは首を横に振りかけて、止まった。


「知らない。でも……」


「でも?」


「歌ってた気がする」


澄が小さく息を呑んだ。


レムは何も言わなかった。


ましろは、ページの白い髪の少女を見る。


その人は、ましろに似ている。


未来の自分なのか。


過去の誰かなのか。


それとも、本当の名前の先にいる何かなのか。


まだ分からない。


でも、その人は歌を聞いていた。


また歌ってね。


そう書いてくれた。


それだけは、今は信じてもいい気がした。


夜。


子どもたちが眠ったあと、ましろは食堂に残った。


窓際の席には、ソラが座っている。


ねむも、眠そうな顔で椅子に座っていた。


悠太は眠くなってしまい、先に部屋へ戻された。


「今日の歌」


ソラがぽつりと言った。


「明日、忘れるかな」


ましろは少し考えた。


「少し忘れるかもしれない」


「うん」


「でも、歌詞を書いたから」


ましろはテーブルの紙を指さす。


そこには、みんなで歌った新しい歌詞がある。


あかりは窓に、待っている。


「忘れたら、また見ればいい」


ねむが言った。


「見ても思い出せなかったら?」


ソラが聞く。


「また歌う」


「歌っても?」


「また書く」


「それでも?」


ねむは眠そうな目でソラを見る。


「しつこい」


ソラは少し笑った。


「ごめん」


「でも、そういうこと」


ねむはテーブルの紙を指で叩いた。


「何回でもやる。面倒だけど」


「面倒なのに?」


「忘れる方が腹立つって、前も言った」


「うん」


ソラは頷いた。


「覚えてる」


その言葉に、ねむがほんの少しだけ目を細めた。


ましろは、二人を見て微笑む。


ソラが「覚えてる」と言った。


それだけで、今日という一日が少し報われた気がした。


レムが杖の中で静かに言う。


「完全に戻ったわけではない」


「うん」


ましろは頷く。


「でも、空白のままにはしなかった」


「そうね」


レムは少しだけ目を伏せた。


「それは、悪くない選択よ」


「何点?」


ましろが聞くと、レムはしばらく黙った。


「今日は点数なし」


「え?」


「たまにはね」


「それ、褒めてる?」


「保留」


ねむが小さく笑った。


「便利だね、保留」


「あなたの影響で雑に広まっている気がするわ」


「気のせい」


「気のせいではないわね」


そのやり取りに、ソラが小さく笑う。


食堂の夜は、昨日より少しだけ温かかった。


翌朝になれば、きっとまた何かを忘れている。


歌詞の一部かもしれない。


ソラの声かもしれない。


白い髪の少女の絵かもしれない。


それでも、今夜は覚えている。


歌ったこと。


みんなで言葉を足したこと。


ソラが一緒に歌ったこと。


そして、忘れられた歌が、完全には消えなかったこと。


ましろはそれを、ノートに書いた。


星帰りの歌。


あかりは窓に、待っている。


また歌ってね。


書き終えた時、外で時計台の鐘がかすかに鳴った。


ごん、と。


一度だけ。


ましろは窓の外を見る。


止まっていたはずの時計台。


その針が、また一分だけ進んでいる。


これで三分。


ソラと出会った日から、少しずつ進んでいる。


「時計台、また動いた」


ましろが言うと、ソラは窓の外を見た。


その顔に、少しだけ不安が浮かぶ。


「進んでる」


「うん」


「いいことかな」


ましろは答えられなかった。


レムも、澄も、まだ何も言っていない。


時計台の針が進むことが何を意味するのか。


それは分からない。


ただ、止まっていた時間が動き出したのは確かだった。


その夜遅く。


誰もいなくなった食堂で、悠太のスケッチブックがひとりでに開いた。


白い髪の少女の絵。


その下にあった「また歌ってね」の文字が、淡く光る。


そして、その隣に、もう一行が浮かび上がった。


七つめの星は、王冠に名前を渡さない。


文字はすぐに薄れた。


けれど完全には消えなかった。


同じころ、廊下の奥。


子どもたちの部屋の扉にかかった名札が、かすかに揺れた。


ひとつ。


またひとつ。


風もないのに。


そして、ましろの部屋の名札だけが、一瞬だけ白く霞んだ。


久遠ましろ。


その文字が、ほんの一呼吸だけ消えかける。


すぐに戻った。


誰も見ていなかった。


ただ、時計台の針だけが、もう一分。


音もなく、進んでいた。

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