第7話 記憶に止まる蛾
朝、ソラの席札の横に、黒い粉が落ちていた。
最初に気づいたのは、悠太だった。
「これ、なあに?」
食堂の窓際。
昨日、みんなで作ったばかりの席札。
ソラの席。
その文字は夜のあいだに少し薄くなっていたけれど、まだ消えてはいなかった。
青い星も残っている。
また明日、という小さな文字も、端の方でかすかに踏ん張っていた。
そのすぐ横に、黒い粉が一粒。
埃にしては、黒すぎた。
星屑にしては、光がない。
羽根の鱗粉にも似ている。
ましろは指先で触れようとして、途中で手を止めた。
「触らない方がいいかも」
「うん」
悠太は素直に頷いた。
でも、目はじっと黒い粉を見つめている。
「これ、動いた気がする」
「動いた?」
「うん。ほんのちょっと」
ましろは息をひそめた。
黒い粉は、何もないみたいにそこにある。
けれど目を離した瞬間、少しだけ場所を変えそうな気配がした。
ねむが横から覗き込む。
今日も眠そうな顔をしている。
でも目だけは、妙に冴えていた。
「虫みたい」
「虫?」
「羽根の粉っぽい」
ねむはそう言ってから、露骨に嫌そうな顔をした。
「最悪。朝から虫」
「まだ虫って決まったわけじゃないよ」
「じゃあ、虫じゃない黒い粉。どっちにしても嫌」
ましろは苦笑しそうになったが、うまく笑えなかった。
胸元の宝石が、ほんの少し温かい。
嫌な温かさではない。
けれど、何かが近くにいる時の合図みたいだった。
「レムに見せよう」
ましろが言うと、ねむは頷いた。
「その前に、ソラは?」
その名前を聞いて、ましろは席を見る。
誰も座っていない。
けれど、昨日よりも、ただの空席には見えなかった。
誰かが戻ってくるために、ちゃんと残されている席。
ましろは小さく呼んだ。
「ソラ」
返事はない。
でも、椅子がかすかに軋んだ。
きい、と。
悠太がぱっと笑う。
「今、いた?」
「たぶん」
ましろは席札をそっと押さえた。
ソラの席。
薄くなっている文字を、もう一度ペンでなぞる。
ねむも、自分のメモ帳に同じ名前を書く。
帳ソラ。
その瞬間、窓際に差していた朝の光が少しだけ揺れた。
「おはよう」
声がした。
ソラは、いつの間にか椅子のそばに立っていた。
灰色の髪。
薄い瞳。
昨日と同じ、困ったような笑い方。
ただし今日は、少しだけ眠そうにも見えた。
「おはよう、ソラ」
ましろが言うと、ソラは目を瞬いた。
「今日は、早いね」
「忘れない練習中だから」
「そっか」
ソラは席札を見る。
それから、黒い粉に目を留めた。
表情が少し変わる。
「これ」
「知ってるの?」
ねむが聞いた。
ソラは首を傾げる。
「知ってる気がする。でも、ちゃんとは思い出せない」
「便利なようで不便な答え」
「ごめん」
「謝るほどでもない」
ソラは黒い粉から目を離さなかった。
その顔が、少しだけ暗い。
ましろは聞いた。
「嫌なもの?」
ソラは少し考えた。
「たぶん。誰かの思い出に、くっついてくるもの」
「思い出に?」
「うん」
ソラは指先を胸元に当てた。
「名前ほど強くはないけど、温度とか、色とか、匂いとか。そういうものに止まる」
ましろは黒い粉を見る。
温度。
色。
匂い。
言葉にすると、少しだけ怖さが増した。
レムなら何か知っているかもしれない。
そう思った時だった。
食堂の奥から、小さな歌声が聞こえてきた。
年少の女の子が、いつも朝食のあとに口ずさんでいる歌だった。
明るくて、少し調子外れで、聞くと誰かが笑ってしまう歌。
けれど、今日は途中で止まった。
「……あれ?」
女の子が首を傾げる。
「続き、なんだっけ」
隣の子が笑う。
「いつも歌ってるじゃん」
「うん。でも、忘れちゃった」
「変なの」
女の子は笑った。
でも、その笑い方が少しだけ不安そうだった。
ましろの胸元が、また温かくなる。
ねむが低く言った。
「始まった?」
誰も答えなかった。
答えたくなかった。
礼拝室で、レムは黒い粉を見て顔をしかめた。
宝石の中の小さな少女は、いつものように腕を組んでいる。
けれど、瞳の奥には明らかな警戒があった。
「星骸の残滓ね」
「星骸?」
ましろは聞き返す。
「でも、昨日は何も出てないよ」
「出ていなくても、入り込むことはあるわ。特にこういうものは」
レムは黒い粉をじっと見る。
「記憶に止まるタイプの星骸。まだ本体ではない。羽根の鱗粉のようなものね」
ねむが露骨に嫌な顔をした。
「やっぱり虫」
「比喩ではなく、かなり虫に近いわ」
「最悪が更新された」
ソラは礼拝室の隅に立っていた。
そこにいるのに、少し気を抜くと視界から外れそうになる。
ましろは何度も名前を確認する。
ソラ。
灰色の髪。
時計台。
食堂の席。
昨日のパン。
温かい、と言った声。
覚えている。
まだ、大丈夫。
「記憶を食べるの?」
ましろが聞くと、レムは頷いた。
「名前そのものを奪う名喰いとは違う。これは記憶の色を食べる」
「色?」
「出来事は覚えている。でも、なぜ大切だったのか分からなくなる。歌を覚えているのに、誰に教わったのか忘れる。絵を覚えているのに、描いた時の気持ちが抜ける。ありがとうと言ったことは覚えているのに、なぜ言ったのか分からなくなる」
ましろは、ぞっとした。
消えるのではない。
残っているのに、空っぽになる。
それは、名前を失うのとはまた違う怖さだった。
「それが進むと?」
ねむが聞いた。
「思い出が、ただの情報になる」
レムは静かに言った。
「人はそれを、忘れたのとほとんど同じように扱うわ」
部屋が静かになった。
悠太のノートが、ましろの胸の奥に浮かんだ。
あのノートに描かれた絵。
そこに込められた、忘れたくない気持ち。
もし絵は残っても、悠太がそれを大切に思った気持ちだけが食べられたら。
ましろはそれが、とても嫌だった。
「止めよう」
ましろは言った。
「まだ粉だけなら、本体が来る前に探せるかもしれない」
「そうね」
レムは頷く。
「ただし厄介よ。こういう星骸は、感情の濃い記憶に寄る。孤児院は餌場としては最悪に豊か」
「餌場って言い方やめて」
ねむの声が低くなる。
「事実よ」
「事実でも嫌」
ソラが、ぽつりと言った。
「僕のことは、食べないかも」
全員がソラを見る。
ソラは少し困ったように笑った。
「僕、あんまり人の記憶に残れないから」
その言葉は静かだった。
でも、ましろの胸に引っかかった。
何でもないみたいに言わないでほしい。
そう思った。
けれど、ソラは本当に何でもないことのように続ける。
「記憶に止まるなら、僕には止まりにくいんじゃないかな」
ねむが眉を寄せる。
「自分で言ってて嫌じゃないの」
「嫌だよ」
ソラは即答した。
少しだけ、空気が止まった。
「でも、役に立つなら」
その声は小さかった。
ましろはソラを見た。
昨日より少しだけ、彼の輪郭がはっきりしている気がした。
たぶん、みんなが名前を書いたから。
たぶん、席ができたから。
たぶん、今こうして話しているから。
「ソラ」
ましろは言った。
「役に立つために、つらいことを使わなくてもいいよ」
ソラは目を瞬いた。
ましろ自身、言ったあとで少し驚いた。
いつもなら、自分が言われる側の言葉だった。
ねむが横で小さく鼻を鳴らす。
「ましろが言うと説得力が死ぬ」
「う」
「でも、今のは正しい」
ソラは二人を見て、少し笑った。
「じゃあ、つらくない分だけ使う」
「それも怪しい」
ねむが言う。
「じゃあ、嫌になったら逃げる」
「それなら少し信用できる」
「信用の基準が低いね」
「ましろよりは高い」
ましろは何も言い返せなかった。
午後になると、小さな異変は増えていった。
最初は歌。
次は、絵だった。
悠太が午前中に描いたはずの中庭の絵から、花の色だけが抜けていた。
赤い花だったのか。
黄色い花だったのか。
悠太本人にも分からなくなっている。
「ここ、何色にしたんだっけ」
悠太はクレヨン箱を見つめながら困っていた。
「好きな色で塗り直せばいいよ」
ましろが言うと、悠太はしばらく黙った。
「でも、さっきの色が好きだった気がする」
その声が、ましろの胸に刺さった。
好きだった気がする。
でも、もう分からない。
それはとても小さな喪失だった。
小さすぎて、誰も泣けない。
けれど、確かに何かが奪われている。
ねむは中庭の隅にしゃがんで、床に落ちた黒い粉を見つけた。
ひと粒。
また、ひと粒。
粉は窓枠や棚の端、椅子の脚の影にも落ちていた。
「増えてる」
「うん」
ましろは杖を握りしめた。
レムが言う。
「本体が近いわ。夜まで待つつもりかもしれない」
「どうして夜?」
「記憶は眠る前が柔らかい。今日あった出来事が、夢の方へ沈み始める時間。そこに止まる」
ねむが嫌そうな顔をする。
「夢に来る?」
「可能性は高い」
「私の担当が増えるの、本当に嫌」
そう言いながら、ねむは夢見のランタンを握った。
青黒い光が、硝子の奥でかすかに揺れる。
ソラは悠太のノートを見ていた。
色の抜けた花。
灰色髪の少年。
ソラの名前。
彼はそっとページの端に触れた。
「僕の絵は、まだ残ってる」
「うん」
悠太が頷いた。
「だって、昨日みんなで書いたから」
「そっか」
ソラは、ほんの少しだけ嬉しそうにした。
その時だった。
スケッチブックのページに、小さな黒い点が落ちた。
インクの染みのように。
けれど、次の瞬間。
その点が羽ばたいた。
小さな蛾だった。
黒い羽根。
星屑のような粉。
羽根の縁には、青白い斑点がある。
ましろが息を呑む。
「悠太くん、離れて!」
悠太は反射的にノートを抱きしめた。
蛾は、ノートの絵の上に止まろうとしていた。
ソラの絵。
その名前の上に。
ソラが手を伸ばした。
「だめ」
蛾はソラの手をすり抜けるように逃げる。
いや、違う。
避けたのではない。
気づいていない。
蛾の羽根は、ソラの輪郭を一度も捉えなかった。
記憶に止まるものには、彼の薄さが空白に見えるらしい。
ソラ自身も、それに気づいた。
「……そっか」
小さく呟く。
「僕のこと、見えてないんだ」
その声は、驚きよりも悲しみに近かった。
ましろは胸が痛くなる。
でも、ソラはすぐに顔を上げた。
「悠太、ノート貸して」
「え?」
「大丈夫。たぶん」
「たぶん?」
ねむが低く言う。
「そこは言い切って」
ソラは少し困ったように笑った。
「大丈夫。今だけは」
悠太は迷った。
でも、ノートをソラに差し出した。
ソラはそれを受け取る。
その瞬間、ノートの輪郭が少しだけ薄くなった。
ましろは息を呑む。
でも蛾は、ソラの手元を見失ったように空中で迷った。
記憶に残りにくいソラが持つと、ノートまで少しだけ視線の外へずれる。
ソラはその隙に、ノートをましろへ投げた。
「ましろ!」
ましろは受け取る。
蛾がようやくノートに気づき、黒い粉を撒きながら向かってきた。
「レム!」
「杖を前に。弱い個体よ、鐘で払える」
ましろは杖を構える。
「ルミナス・ベル!」
りん、と鐘の音が鳴った。
小さな光の輪が広がる。
蛾はその光に触れた瞬間、白い煙のように弾けた。
けれど、完全には消えなかった。
粉になった。
黒い粉が、廊下の奥へ流れていく。
まるで風もないのに、何かに呼ばれているみたいに。
レムの声が鋭くなる。
「本体がいる」
ねむがランタンを掲げた。
青黒い光が、廊下の奥を照らす。
そこに、黒い粉の道ができていた。
細く、長く、夜へ続く道。
「食堂の方」
ましろが言う。
ソラの顔が強張った。
「席」
ましろたちは走った。
夕方の食堂には、誰もいなかった。
子どもたちは澄に言われて、すでに別室へ移されている。
窓の外は暗くなり始めていた。
紫色の空。
薄い星。
そして、食堂の中央に。
黒い蛾がいた。
さっきの小さなものとは違う。
人の頭ほどもある。
羽根は黒く、ところどころ星のように青白く光っている。
羽ばたくたび、黒い鱗粉が空気に舞った。
その粉が触れた椅子やテーブルから、色がわずかに抜けていく。
古い写真が日に焼けていくみたいに。
蛾は、ソラの席に止まっていた。
席札の上。
ソラの席。
その文字が、端から薄くなっていく。
「やめて」
ましろは杖を握る手に力を入れた。
「そこは、ソラの席だよ」
蛾は返事をしない。
ただ羽根を震わせる。
その羽根から、声のようなものが漏れた。
――あたたかい。
それは人の言葉に近かった。
でも、人ではなかった。
――たのしい。
――うれしい。
――なくしたくない。
羽ばたくたび、食堂のあちこちから小さな光が剥がれていく。
子どもたちの笑い声。
昨日のパンの温度。
悠太が青い星を描いた時の嬉しさ。
ましろがソラの名前を書いた時の安堵。
その全部が、細い糸のように蛾へ吸い寄せられていた。
「記憶の色を食べてる」
レムが言った。
「ましろ、早く」
ましろは杖を構える。
けれど、その瞬間、頭の中が揺れた。
昨日、何をしたんだっけ。
ソラの席を作った。
どうして?
ソラって誰だっけ。
灰色の髪。
時計台。
パン。
温かい。
顔が、ぼやける。
「ましろ!」
ねむの声で、ましろは我に返った。
ねむも苦しそうだった。
夢見のランタンを握る手が震えている。
「思い出して。ソラ」
「ソラ……」
ましろは声に出す。
でも、名前の輪郭が薄い。
蛾の羽根が、ゆっくりと開いた。
羽根の模様が、目のように見える。
ましろの中から、ソラとの記憶が抜けていく。
「だめ」
ましろは歯を食いしばった。
「忘れない」
でも、記憶が滑る。
指の間から、砂のように。
その時。
ソラが一歩、前へ出た。
蛾は気づいていない。
目の前にいるのに。
ましろには見えている。
ねむにも、たぶん見えている。
でも蛾だけが、ソラを見つけられない。
ソラは静かに言った。
「忘れられるのは、嫌だよ」
その声は小さかった。
けれど、食堂によく響いた。
「嫌だ。ずっと嫌だった」
ましろはソラを見た。
灰色の髪。
薄い瞳。
震えている指先。
「でも」
ソラは席札へ手を伸ばす。
「今だけは、それで誰かを助けられるなら」
蛾の羽根が、まだましろたちの記憶を食べている。
けれどソラは、その影の隙間をすり抜けた。
存在が薄い。
記憶に残りにくい。
だからこそ、記憶に止まる蛾は、彼を捕まえられない。
ソラは席札を掴んだ。
消えかけていた紙。
ソラの席。
その文字を胸に抱える。
蛾が初めて、違和感に気づいたように羽根を震わせた。
でも遅い。
「ましろ!」
ソラが叫ぶ。
「名前、呼んで!」
ましろは息を吸った。
薄れかけた記憶をかき集める。
時計台。
誰も知らない席。
また明日。
温かいパン。
消えかける文字。
ありがとう。
そして、今ここに立っている少年。
「帳ソラ!」
ましろの声が、食堂に響いた。
ねむも叫ぶ。
「ソラ!」
廊下の向こうから、悠太の声が続いた。
「ソラくん!」
その瞬間、席札が青白く光った。
ソラの輪郭が、はっきりする。
蛾が大きく羽ばたいた。
黒い粉が舞う。
けれど、今度はましろの中から記憶が抜けなかった。
ソラがいる。
ちゃんと、ここにいる。
「ましろ、今よ!」
レムの声が飛ぶ。
ましろは杖を両手で握った。
鐘の音を思い出す。
朝の食堂。
子どもたちの歌。
悠太のノート。
ねむのメモ。
ソラの席。
忘れたくないもの。
思い出そうとするもの。
その全部を光に乗せる。
「ルミナス・ベル!」
鐘が鳴った。
りん。
一音。
続いて、もう一音。
いくつもの光の輪が、食堂いっぱいに広がっていく。
蛾の羽根に触れた。
黒い鱗粉が、白い光に変わっていく。
蛾は苦しむように羽ばたいた。
そこから、いくつもの声がこぼれる。
――忘れたくない。
――でも、重い。
――大切だったはずなのに。
――もう、色が思い出せない。
ましろは杖を下ろさなかった。
攻撃ではなく、抱きとめるように光を広げる。
「大丈夫」
声が震えた。
「全部覚えていられなくても、消えていいわけじゃない」
蛾の身体がほどけていく。
黒い羽根が白い光に変わる。
最後に、小さな羽音がした。
ぱた、と。
それは、誰かが古い本を閉じる音にも似ていた。
黒い蛾は消えた。
食堂に、静けさが戻る。
薄くなっていたテーブルの色が、少しずつ戻っていく。
椅子の木目。
窓の夕焼け。
席札の文字。
ソラの席。
完全ではない。
でも、残っている。
ソラはその場に座り込んだ。
ましろが駆け寄る。
「ソラ!」
ソラは席札を胸に抱えたまま、少し笑った。
「見つからないの、初めて役に立った」
「そんな言い方しないで」
ましろの声が少し強くなる。
ソラは驚いたように瞬いた。
ましろは続ける。
「ソラは、役に立つからここにいていいんじゃないよ」
ソラは何も言わなかった。
「ここにいるから、名前を呼ぶの」
ましろは言った。
「役に立たなくても、呼ぶよ」
その言葉に、ソラの表情が少し崩れた。
笑いそうで。
泣きそうで。
結局、どちらにもならない顔だった。
ねむが横から言う。
「でも今日は役に立った」
「ねむ」
ましろがたしなめると、ねむは肩をすくめた。
「褒めてる」
ソラは小さく笑った。
「うん。ありがとう」
ねむは少しだけ顔を背けた。
「礼は席札に書いて」
「書く」
「消えたらまた書いて」
「うん」
食堂の扉が開き、悠太が顔を出した。
澄に止められていたのだろう。
でも、じっとしていられなかったらしい。
「ソラくん!」
悠太が走ってくる。
そして、ソラの席札を見る。
「残ってる!」
「うん」
ソラは頷いた。
「みんなのおかげで」
悠太は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、ましろは思い出した。
朝、歌の続きを忘れていた女の子。
色の抜けた悠太の絵。
失われかけた小さな思い出。
「レム、みんなの記憶は戻る?」
「完全には分からない」
レムは言った。
「でも、本体を浄化したから、食べられた色は少しずつ戻るはずよ。特に、誰かが思い出そうとすれば」
「思い出そうとすれば」
ましろはその言葉を繰り返した。
忘れないことは、才能じゃない。
何度でも思い出そうとすること。
ましろがノートに書いた言葉が、胸の奥に戻ってくる。
その夜。
食堂では、小さな歌声が戻った。
朝、続きを忘れていた女の子が、少しつっかえながら歌っている。
まだ完全ではない。
途中で何度も止まる。
それでも、隣の子が続きを手伝った。
ましろも口ずさんだ。
悠太も、少し違う音程で加わった。
ソラは窓際の席で、それを聞いていた。
「知ってる歌?」
ましろが聞くと、ソラは少し考えた。
「知らない」
そして、少し笑う。
「でも、今日から知ってる」
ましろはその言葉が、とても好きだと思った。
ねむはメモ帳に何かを書いている。
ましろが覗き込むと、そこにはこう書かれていた。
ソラは記憶喰いに見つかりにくい。
でも、ちゃんといる。
忘れたら殴る。
ましろは最後の一行を指さす。
「これ、まだ必要?」
「必要」
「誰を殴るの?」
「明日の私」
「明日のねむがかわいそう」
「忘れた方が悪い」
ソラがくすりと笑った。
それを見て、ねむは少しだけ満足そうな顔をした。
食堂の片付けが終わったあと。
ましろは、浄化された蛾が消えた場所に落ちていた羽根を見つけた。
小さな羽根。
黒い色はもう薄くなっている。
光に透かすと、青白い筋が見えた。
そして、その根元に。
王冠のような模様があった。
割れた、小さな王冠。
ましろは息を呑む。
「レム」
杖の宝石が光る。
レムが羽根を見る。
その表情が、すっと消えた。
いつもの皮肉も、呆れもない。
ただ、鋭い緊張だけが残る。
「……名喰いの眷属じゃない」
「じゃあ、何?」
ましろが聞く。
レムは砕けかけた羽根を見つめたまま、低く答えた。
「王冠の先触れよ」
その言葉が落ちた瞬間。
食堂の窓の外で、時計台の鐘が一度だけ鳴った。
ごん、と。
止まっていたはずの針が、また一分だけ進んでいた。




