第6話 また明日を忘れない
ましろは、何か大切なことを忘れている気がした。
朝の光が、薄いカーテン越しに部屋へ落ちている。
鳥の声。
廊下を走る小さな足音。
遠くで誰かが「寝ぐせ!」と叫んでいる。
いつもの朝だった。
いつもの朝なのに、胸の奥だけが少し変だった。
何かを置き忘れてきたみたいな感じがする。
それも、食堂にスプーンを忘れたとか、洗濯物を取り込み忘れたとか、そういうことではない。
もっと大事なもの。
名前のあるもの。
ましろはベッドの上で身体を起こした。
胸元の青い宝石は静かだった。
昨夜、何があったのか。
時計台に行った。
鐘が鳴った。
誰かと会った。
灰色の髪。
薄い瞳。
困ったような笑い方。
そこまで思い出して、すぐに霧がかかった。
顔がぼやける。
声も薄れる。
名前が、指の間からこぼれていく。
「……だめ」
ましろは慌てて机へ向かった。
昨夜の自分が、何かを残していた気がした。
机の上にはノートが開かれていた。
いつ書いたのか分からない。
けれど、そこには自分の字でこう書かれていた。
時計台。
灰色の髪の少年。
ソラ。
また明日。
ましろは、その文字を見つめた。
胸の奥で、小さな鐘が鳴った気がした。
りん、と。
「ソラ」
名前を口にすると、霧の向こうから少しだけ輪郭が戻ってきた。
時計台。
細い梁。
夕方の光。
「今日は、君たちが呼んでくれた」と笑った少年。
ましろは胸を押さえた。
「忘れかけてた……」
そのことが怖かった。
昨日、ちゃんと会った。
ちゃんと話した。
また明日、と紙片まで残っていた。
それなのに、一晩眠っただけで、こんなにも薄くなってしまう。
もしノートがなかったら。
もし名前を書いていなかったら。
ましろはもう、彼を忘れていたかもしれない。
「ソラ」
もう一度、声に出す。
今度は少しだけ強く。
「帳ソラ」
胸元の宝石が、かすかに温かくなった。
返事ではない。
でも、忘れないための糸が一本、指にかかったような気がした。
食堂へ向かう途中、ねむと会った。
ねむはいつもよりさらに眠そうな顔をしていた。
片手にはメモ帳。
もう片方の手には、なぜか鉛筆を握っている。
「おはよう、ねむ」
「おはよう」
声が低い。
機嫌は悪そうだった。
いつも通りとも言える。
「寝られた?」
「寝た」
「よかった」
「忘れかけた」
ましろは足を止めた。
ねむはメモ帳を開く。
そこには、大きな字で書かれていた。
ソラは時計台にいる。
ソラの席を忘れるな。
忘れたら自分を殴る。
ましろは最後の一行を見て、少しだけ困った顔をした。
「ねむ、自分を殴らないで」
「忘れた自分にはそのくらいでいい」
「よくない」
「ましろも忘れかけた?」
ましろは黙った。
それだけで、ねむには伝わったらしい。
「最悪」
ねむは短く言った。
「ほんとに忘れるんだ」
「うん」
「顔は?」
「少しぼやけてる」
「声は?」
「もっとぼやけてる」
「名前は?」
ましろは、息を吸った。
「ソラ」
ねむは頷く。
「まだ残ってる」
「ねむは?」
「メモを見たら戻った。でも、見なかったらたぶん危なかった」
ねむは廊下の先を見た。
食堂から、朝の声が漏れている。
「たぶん、あの子は毎朝こうなんだよ」
「こう?」
「誰かに忘れられて、昨日がなかったことになる」
ましろは何も言えなかった。
昨日、時計台で見たソラの笑顔を思い出す。
寂しそうだった。
でも、諦め慣れているようにも見えた。
ましろはそれが嫌だった。
寂しさに慣れるなんて、そんなのは慣れていいことじゃない。
「行こう」
ましろは言った。
「うん」
ねむはメモ帳を閉じた。
「席、見に行く」
朝の食堂は、今日も騒がしかった。
焼きたてのパンの匂い。
スープの湯気。
椅子を引く音。
子どもたちの笑い声。
その全部の中に、昨日と同じ席があった。
窓際の端。
椅子が一脚。
誰も座っていない。
けれど今日は、皿が置かれていなかった。
ミルクもない。
パンもない。
ただ、椅子だけがそこにある。
ましろは、少し胸が冷たくなった。
昨日より、薄くなっている。
そんな気がした。
「ましろお姉ちゃん!」
悠太がスケッチブックを抱えて走ってきた。
今日は寝ぐせが片側だけ跳ねている。
「おはよう、悠太くん」
「おはよう。ねえ、これ見て」
悠太はスケッチブックを開いた。
昨日の灰色髪の少年の絵が、前より少し濃くなっていた。
線はまだ頼りない。
でも、輪郭は残っている。
椅子に座る少年。
窓の外を見ている横顔。
その下に、薄く一文字だけ残っていた。
そ。
ましろは息を呑む。
「悠太くん、この子のこと覚えてる?」
悠太は首を傾げた。
「……知らない」
そう言ってから、少しだけ眉を寄せる。
「でも、知らないって言うの、なんかやだ」
ねむがしゃがみ込んで、悠太と目線を合わせた。
「じゃあ、忘れたくない?」
「うん」
「名前、書ける?」
悠太はクレヨンケースを開けた。
青いクレヨンを取って、絵の下に書こうとする。
けれど、手が止まった。
「そ、のあとが分かんない」
ましろは小さく言った。
「ソラ」
悠太の目が少し丸くなる。
「ソラ」
繰り返した瞬間、スケッチブックの中の少年の輪郭が、ほんの少しだけ濃くなった。
悠太は嬉しそうに笑った。
「これだ」
そして、絵の下に大きく書いた。
ソラ。
文字は不揃いだった。
でも、強かった。
その瞬間、窓際の椅子が、小さく軋んだ。
きい、と。
まるで誰かが、そこに腰を下ろしたみたいに。
ましろとねむは顔を見合わせた。
悠太だけは不思議そうに椅子を見ている。
「座った?」
「かもしれない」
ましろは言った。
「でも、まだいないね」
ねむは窓際の席に近づいた。
テーブルの端に、昨日の紙片がまだ置かれていた。
また明日。
文字は、半分ほど薄くなっている。
ねむはそれを見て、唇を結んだ。
「消えかけてる」
「うん」
「消えるなら」
ねむはメモ帳から一枚破った。
そこに鉛筆で乱暴に書く。
ソラの席。
そして紙片をテーブルの中央に置いた。
「消えるたびに書けばいい」
ましろは、胸が温かくなるのを感じた。
「ねむ」
「何」
「ありがとう」
「早い。まだ座ってない」
「でも、ありがとう」
ねむは少しだけ顔をしかめた。
「ましろのありがとう、雑に来るから避けづらい」
「避けなくていいよ」
「避けたい」
悠太がクレヨンを握ったまま、テーブルの紙を見る。
「ぼくも書く」
「いいの?」
「うん。みんなで書いたら、強そう」
それは、とても子どもらしい理屈だった。
でも、ましろには妙に正しいように思えた。
悠太は、ねむの書いた「ソラの席」の下に、青いクレヨンで小さな星を描いた。
ましろもペンを借りて、紙の隅に同じ名前を書く。
ソラ。
すると、薄くなっていた「また明日」の文字が、ほんの少しだけ濃くなった。
窓際の椅子が、もう一度軋む。
ましろは小さく呼んだ。
「ソラ」
返事はなかった。
でも、椅子の上に光が落ちた。
朝の光。
ただの光かもしれない。
それでも、そこに誰かがいるように見えた。
昼前、ましろとねむは時計台へ向かった。
悠太は一緒に行きたがったが、階段が危ないからと澄に止められた。
その代わり、悠太はスケッチブックをましろに渡した。
「これ、持っていって」
「いいの?」
「うん。ソラくん、見たら思い出すかもしれないから」
ましろはスケッチブックを大事に抱えた。
「ありがとう」
悠太はにこっと笑う。
「忘れないようにね」
ましろは、その言葉に少しだけ胸が痛くなった。
忘れないように。
簡単な言葉。
でも、今は祈りみたいに聞こえる。
北棟の廊下は、相変わらず静かだった。
子どもたちの声が遠い。
床板の軋む音だけが、やけにはっきり響く。
昨日と同じ扉。
同じ鍵。
同じ冷たい風。
けれど、今日は昨日よりも少しだけ怖くなかった。
ねむが横にいる。
杖の中にはレムがいる。
腕には悠太のノートがある。
記憶は薄れるかもしれない。
でも、こちらにも手がかりがある。
細い螺旋階段を登る。
途中で、また少し思考がぼやけた。
誰に会いに行くんだっけ。
なぜ時計台へ。
ましろの足が止まりかける。
その瞬間、ねむが前を向いたまま言った。
「ソラ」
ましろは息を吸った。
「……うん。ソラ」
ねむはメモ帳を見ずに続ける。
「灰色の髪。時計台。誰も知らない席。また明日」
ましろは笑った。
「ねむ、覚えてる」
「今のところは」
「すごい」
「褒めると忘れるかも」
「それは困る」
「だから無言で感謝して」
「分かった」
「今のも返事いらない」
宝石の中でレムが小さく言う。
「あなたたち、緊張感があるのかないのか分からないわね」
「あるよ」
ましろが答える。
「怖いけど、喋ってないともっと怖い」
「正直でよろしい」
「何点?」
「六十四点」
「下がった」
「階段でよそ見したから」
「見てたの?」
「杖だからね」
「杖ってそういうもの?」
「違うわ」
ねむが短く言う。
「この杖が面倒なだけ」
「同意しかけたわ。危ない」
レムが言う。
ましろは少し笑って、もう一段上った。
時計台の最上階は、昨日と同じように薄暗かった。
大きな歯車。
曇った鐘。
細い梁。
小窓から差す昼前の光。
けれど、ソラはいなかった。
ましろは部屋を見回す。
「ソラ?」
返事はない。
ねむがランタンを掲げた。
青黒い光が、部屋の隅をゆっくり撫でる。
埃が舞う。
歯車の影が、床に長く伸びる。
「いない?」
ましろが言った。
「隠れてるのかも」
ねむは梁の方を見る。
「出てきて。いるなら」
少しの沈黙。
それから、頭上で声がした。
「見つかるとは思わなかった」
ましろは顔を上げた。
鐘の裏側。
細い梁のさらに上。
そこに、ソラが座っていた。
昨日と同じ灰色の髪。
薄い瞳。
曖昧な色の服。
でも今日は、昨日よりも少し輪郭が薄い気がした。
ましろは胸が詰まった。
「ソラ」
名前を呼ぶ。
ソラは少しだけ驚いたように目を瞬いた。
それから、笑う。
「今日は早いね」
「忘れかけたけど」
「うん」
ソラは困ったように笑った。
「普通は、そのまま忘れる」
「ノートに書いてた」
ましろは悠太のスケッチブックを掲げる。
「悠太くんも、ねむも、私も。みんなで書いた」
ソラの視線が、スケッチブックに落ちた。
ましろはページを開く。
そこには、灰色髪の少年の絵と、青いクレヨンの文字。
ソラ。
ソラはしばらく黙っていた。
それから、梁から軽く降りる。
床に立っても、足音はほとんどしなかった。
「これ、僕?」
「そう」
「悠太が描いたの?」
「うん」
ソラは絵を見て、小さく笑った。
「実物より元気そう」
「そう?」
「僕、こんなにちゃんと椅子に座れないことの方が多いから」
冗談みたいに言ったのに、ましろは笑えなかった。
ソラはそれに気づいて、少し困った顔をする。
「ごめん。そういう顔させるつもりじゃなかった」
「ソラは」
ましろは言った。
「食堂に来ないの?」
ソラは視線を逸らした。
時計台の小窓から、空が見える。
昼の空。
昨日より明るい。
「行っても、たぶん誰も覚えないよ」
「じゃあ、覚える練習をする」
ソラがましろを見る。
「練習?」
「うん」
ましろは頷いた。
「魔法も練習してるし、名前を覚えるのも練習する」
ねむが後ろで言った。
「消えるなら、消えるたびに書く。忘れたら、思い出す。面倒だけど」
ソラはねむを見る。
「面倒なんだ」
「面倒だよ」
ねむは即答した。
少し間を置いてから、続ける。
「でも、忘れる方がもっと腹立つ」
時計台の中が、静かになった。
ソラは何も言わなかった。
ただ、ねむの言葉を受け止めるみたいに、じっと立っていた。
それから、小さく息を吐く。
笑ったのかもしれない。
泣きそうになったのかもしれない。
どちらにも見えた。
「変な人たちだね」
「ソラにだけは言われたくない」
ねむが言う。
「確かに」
ソラは少し笑った。
ましろは、昨日よりその笑顔が近く見えた。
「食堂に行こう」
ましろは言った。
「席、作ったから」
「僕の?」
「うん」
「誰も知らない席じゃなくて?」
「今日は、ソラの席」
ソラは目を伏せた。
何かを飲み込むように、少しだけ唇を結ぶ。
「……行ってみる」
その声は、とても小さかった。
でも、確かに聞こえた。
時計台を降りる途中、ましろは何度かソラを見失いかけた。
少し前を歩いていたはずなのに、ふっと視界から消える。
慌てて名前を呼ぶと、またそこにいる。
「ソラ」
「いるよ」
「ソラ」
「うん」
「ソラ」
「三回目」
「忘れそうで」
「そっか」
ソラは怒らなかった。
呆れもしなかった。
ただ、そのたびに返事をしてくれた。
ねむはメモ帳を開いて、歩きながら何度も確認している。
ソラ。
食堂。
席。
忘れるな。
文字が少しずつ薄くなるたび、ねむは上から書き直した。
「それ、疲れない?」
ソラが聞く。
「疲れる」
「やめてもいいよ」
「やめない」
「どうして」
「決めたから」
「何を?」
「腹立つ方を選ばない」
ソラは少し考えてから言った。
「難しいね」
「簡単。忘れる方が腹立つ。だから書く」
「そっか」
ソラはまた笑った。
「ねむは、分かりやすい」
「ましろ、今の褒めてる?」
「たぶん褒めてる」
「なら許す」
食堂の前まで来た時、ましろは少し緊張した。
扉の向こうには子どもたちがいる。
昼食の準備で、いつものように騒がしい。
でも、ソラが入ったらどうなるのだろう。
誰も気づかないのか。
気づいても、すぐ忘れてしまうのか。
それとも。
ましろは扉を開けた。
食堂の空気が流れてくる。
パンの匂い。
温かいスープ。
誰かが笑う声。
ソラは扉の前で立ち止まった。
中へ入らない。
「ソラ?」
「ここから先、少し苦手」
「どうして?」
「人が多い場所は、僕が薄くなる」
ましろは食堂を見る。
たくさんの声。
たくさんの名前。
子どもたちが呼び合っている。
その中に入ると、ソラの名前は埋もれてしまうのかもしれない。
ましろは少し考えた。
そして、手を差し出した。
「じゃあ、名前を呼びながら行こう」
ソラはその手を見た。
触れていいのか分からない、という顔だった。
「僕、手を繋いでも忘れられるよ」
「じゃあ、繋いだまま思い出す」
ましろは言った。
「何回でも」
ソラは、ゆっくり手を伸ばした。
指先が触れる。
冷たかった。
でも、確かにそこにあった。
ましろはその手を握る。
「行こう、ソラ」
ソラは小さく頷いた。
食堂に入る。
最初、誰も反応しなかった。
ましろとねむが入ってきたことには気づく。
けれど、ましろの隣にいるソラには、視線が滑っていく。
そこに誰かがいるはずなのに、誰も焦点を合わせられない。
ましろは胸が痛くなった。
でも、そこで止まらなかった。
「みんな」
声を出す。
食堂の中が少し静かになる。
「この子、ソラ」
何人かの子どもがこちらを見る。
「そら?」
「新しい子?」
「いたっけ?」
「わかんない」
声がばらばらに返ってくる。
ソラの手が、少しだけ弱くなる。
ましろは握り直した。
「今日から、窓際の席に座るよ」
ねむがすぐに紙を持って、テーブルに置いた。
ソラの席。
悠太が走ってきた。
「ソラくん!」
その声に、ソラの輪郭が少しだけ濃くなった。
ましろは驚いて悠太を見る。
悠太は、スケッチブックを胸に抱えたまま笑っていた。
「今日は覚えてる?」
ましろが聞くと、悠太は少し考えた。
「うーん。朝よりは覚えてる」
「朝より?」
「絵見たから」
悠太はソラを見上げる。
「ソラくん、ここ」
窓際の席を指さす。
「ぼく、星描いた」
ソラは椅子の前で立ち尽くしていた。
テーブルの上には、ねむの紙。
ソラの席。
その下に、悠太の青い星。
さらにましろが書いたソラの名前。
けれど、その文字が少しずつ薄くなっていく。
ましろは息を呑んだ。
「消えてる」
「書き直す」
ねむがすぐに鉛筆を取る。
薄くなった文字の上から、もう一度書く。
ソラの席。
悠太も青いクレヨンで、星をなぞる。
ましろも、横にもう一度名前を書く。
ソラ。
文字は消えかける。
けれど、完全には消えない。
三人で書くたび、少しずつ、そこに留まる。
ソラはそれを見ていた。
目を逸らさずに。
「座って」
ましろが言った。
ソラは恐る恐る椅子に腰を下ろした。
椅子が、きい、と鳴る。
今度は確かに、重さがあった。
食堂の空気が、ほんの少し変わった。
近くにいた小さな女の子が、ソラを見た。
「あれ。いた」
それからすぐ、首を傾げる。
「誰だっけ」
ソラの表情が少し曇る。
でも、悠太がすぐに言った。
「ソラくん」
女の子は繰り返す。
「ソラくん」
その名前を口にした瞬間、ソラの輪郭がまた少し濃くなった。
ましろの胸元が温かくなる。
ねむが小さく呟いた。
「呼ばれると残るんだ」
レムが杖の中で言う。
「名前は、呼ばれて形になるものよ」
「そういう大事なことは早めに言って」
「今分かったことも多いのよ」
「便利」
「事実」
ましろは、ソラの前にパンを置いた。
「食べられる?」
ソラはパンを見た。
「たぶん」
「たぶん?」
「食べたことはあると思う」
「思う?」
「忘れてるから」
そう言って、ソラは小さくパンをちぎった。
口に運ぶ。
ゆっくり噛む。
しばらくして、少しだけ目を見開いた。
「……温かい」
ただそれだけの言葉だった。
でも、ましろは泣きそうになった。
ソラはパンをもう一口食べた。
それから、ミルクのカップを両手で包む。
指先に、少しずつ色が戻っていくように見えた。
「こんなに温かかったんだ」
ソラが呟く。
ましろは何も言わなかった。
ねむも、茶化さなかった。
悠太だけが嬉しそうに笑っている。
「おいしい?」
ソラは少し迷ってから、頷いた。
「うん」
「よかった!」
その声に、周りの子どもたちが少しずつ集まってくる。
「ソラくんっていうの?」
「どこから来たの?」
「何歳?」
「パン好き?」
質問が一気に飛ぶ。
ソラは困った顔をした。
けれど、その困り方は昨日の時計台のそれとは違っていた。
少しだけ、嬉しそうだった。
「えっと」
ソラは言葉を探す。
「年は、たぶんみんなと近い」
「たぶんばっかり!」
小さな子が笑う。
ソラも、つられて少し笑った。
「ごめん」
「好きなものは?」
ソラは手元のパンを見る。
そして、小さく言った。
「今日のパン」
その答えに、子どもたちが笑った。
「今日だけ?」
「明日も好きかも」
「じゃあ明日も食べよう」
「うん」
ソラは、その言葉に少しだけ固まった。
明日。
その言葉が、ソラにとってどれほど特別なのか。
ましろには、少し分かる気がした。
昼食が終わるころには、ソラの席札は何度も薄くなっていた。
そのたびに、誰かが書き直した。
ねむが書く。
ましろが書く。
悠太が星をなぞる。
途中から、年少の子たちも真似をした。
ソラ。
そら。
ソラくん。
空みたいな名前。
文字は不揃いだった。
でも、テーブルの上は少しずつ賑やかになっていった。
ソラはそれを見て、困ったように笑っていた。
「こんなに書かれると、落ち着かない」
ねむが言う。
「消えるからでしょ」
「うん」
「なら慣れて」
「厳しい」
「忘れるよりまし」
ソラは小さく頷いた。
「うん。たぶん、まし」
午後、ましろたちは礼拝室へ戻った。
ソラも一緒だった。
食堂から礼拝室へ移動する間に、何度か子どもたちはソラのことを忘れかけた。
でも、席札を見ると「あ、ソラくん」と思い出す。
悠太のノートを見ると、もっと思い出す。
完全ではない。
でも、昨日よりずっといい。
礼拝室に入ると、澄が静かに待っていた。
ソラを見た瞬間、澄の顔に複雑な影が差した。
懐かしさ。
驚き。
そして、少しの後悔。
「帳ソラ」
澄が名を呼ぶ。
ソラは小さく頭を下げた。
「お久しぶり、でいいのかな」
澄は唇を結んだ。
「……覚えているとは、言えないのです」
「うん。知ってる」
ソラは責めなかった。
そのことが、ましろには余計につらかった。
澄は目を伏せる。
「けれど、あなたがここにいた気配は、ずっと残っていました」
「気配だけ?」
「ええ」
「そっか」
ソラは少し笑った。
「それでも、残ってたならよかった」
ましろは、ソラを見た。
どうしてこの子は、こんなふうに笑うのだろう。
悲しいことを、悲しいと言わないで。
寂しいことを、慣れたみたいに受け止めて。
ましろは少しだけ、腹が立った。
ねむがいつも自分に怒る理由が、少し分かった気がした。
レムが杖の中から言った。
「ソラ。あなた自身は、自分に何が起きているか分かっているの?」
ソラは少し考えた。
「全部は分からない」
「分かる範囲で」
「僕は、忘れられる」
「それは見れば分かるわ」
「でも、完全には消えない」
ソラは窓の外を見た。
「誰かが僕を呼ぶと、少し戻る。何かに書かれると、少し残る。席があると、もう少し残る」
「なぜ忘れられるの」
ソラは黙った。
礼拝室の空気が静かになる。
ましろは、その沈黙がただの沈黙ではないと分かった。
ソラは言いたくないのではない。
言えないのだ。
あるいは、言ったそばから消えてしまうのかもしれない。
「たぶん」
ソラはゆっくり言った。
「僕の名前は、一度、世界の外側に置かれた」
「世界の外側?」
ましろが聞き返す。
ソラは胸元に手を当てた。
「みんなの記憶が流れている場所から、少しずれたところ。帳の向こう側」
レムの表情が硬くなる。
澄も目を伏せた。
ねむが二人を見る。
「また知ってる顔」
レムは否定しなかった。
「帳は、忘却と記録の境界よ。普通は人が触れる場所ではない」
「ソラは触れたの?」
「たぶん、落ちた」
ソラが言った。
「落ちたというより、落とされたのかもしれない。でも、そのあたりは曖昧」
「誰に?」
ましろが聞く。
ソラは少しだけ、時計台の方角を見た。
「まだ、思い出せない」
嘘ではなさそうだった。
けれど、全部ではない気もした。
ましろはそれ以上聞かなかった。
今聞いても、きっとソラを傷つけるだけだ。
代わりに、別のことを言った。
「じゃあ、今はここにいよう」
ソラがこちらを見る。
「ここ?」
「星見坂孤児院」
ましろは言った。
「時計台でもいい。食堂でもいい。礼拝室でもいい。ソラが消えない場所を、少しずつ増やそう」
ソラは何も言わなかった。
ねむが横から言う。
「まず食堂。次に廊下。次に中庭。場所ごとに名前を書けばいい」
「落書きになるわよ」
レムが言う。
「札にする」
「それなら許容範囲ね」
「許可制なの?」
「秩序は大事よ」
「杖の中から秩序を語らないで」
ましろは思わず笑った。
ソラも、少し遅れて笑った。
その笑い方は、昨日より自然だった。
夕方。
窓際の席には、新しい札が置かれた。
少し厚めの紙。
ねむが書いた文字。
ソラの席。
悠太の青い星。
ましろが小さく添えた言葉。
また明日。
札の端には、レムの助言で小さな星の護符が貼られている。
澄が作ってくれたものだった。
「これで完全に消えない?」
ましろが聞く。
レムは少し考えて言った。
「絶対、とは言えないわ」
「そこは言ってほしかった」
「でも、何もしないよりずっといい」
ねむが言う。
「つまり保証はないけどやる価値はある」
「そういうこと」
「最初からそう言えばいい」
「あなたが言った方が雑で分かりやすいわね」
「褒めてる?」
「微妙に」
「微妙はやめて」
ソラは席札を指でそっとなぞった。
「明日、これを見たら、思い出せるかな」
「思い出す」
ましろは言った。
「もし忘れても、また聞く」
「毎日?」
「毎日」
「面倒じゃない?」
ねむが即答する。
「面倒」
ソラが笑う。
ねむは続けた。
「でも、もう席作ったから。使わない方が腹立つ」
「そこなんだ」
「そこ」
ましろは笑った。
ソラは、少しだけ目を伏せた。
「ありがとう」
その言葉は、とても小さかった。
食堂のざわめきに溶けてしまいそうなくらい。
でも、ましろにはちゃんと聞こえた。
夜。
ましろは自室でノートを開いた。
今日のことを書く。
朝、忘れかけたこと。
食堂の席。
悠太の絵。
時計台。
ソラがパンを食べて「温かい」と言ったこと。
ソラの席札を作ったこと。
また明日、と書いたこと。
ひとつひとつ、丁寧に書いた。
その横で、杖の宝石が淡く光っている。
レムが言った。
「記録を続けなさい」
「うん」
「忘れないことは、才能だけでは足りないわ」
ましろはペンを止めた。
「才能?」
「記憶力がいいとか、魔力が強いとか、そういうことではないという意味」
ましろはノートを見る。
不揃いな字。
途中で少し滲んだインク。
ソラの名前を、何度も書いた跡。
「何度も思い出そうとすること?」
レムは少しだけ黙った。
それから、小さく言う。
「八十点」
ましろは目を瞬いた。
「今日一番高い」
「調子に乗ると減点」
「はい」
ましろは笑って、ノートに最後の一文を書いた。
忘れないことは、きっと才能じゃない。
何度も思い出そうとすることだ。
書き終えると、胸元の宝石がかすかに光った。
窓の外には、星が出ている。
時計台はまた止まっていた。
けれど、もうただの古い塔には見えなかった。
そこには、誰かがいた。
誰かがいて、今日、食堂でパンを食べた。
温かいと言った。
ありがとうと言った。
そのことを、ましろは忘れたくなかった。
その夜、食堂の窓際の席札は、また少しだけ薄くなった。
ソラの席。
文字の端が、夜に溶けるようにかすれていく。
けれど、完全には消えなかった。
誰もいない食堂で、椅子が小さく軋む。
きい、と。
その後、席札の下に、小さな文字がひとつ増えた。
ありがとう。
今にも消えそうな、薄い字だった。
でも確かに、そこにあった。
そして、その文字のすぐ横に。
誰のものとも分からない、黒い粉のようなものが一粒、落ちていた。
羽根の鱗粉にも見える。
星屑にも見える。
夜の中で、それはかすかに震えた。
まるで、誰かの記憶に止まろうとする小さな虫のように。




