表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/21

第5話 誰も知らない席

朝の食堂に、席がひとつ多かった。


最初に気づいたのは、ましろだった。


焼きたてのパンの匂い。

子どもたちの声。

スープの湯気。

誰かが椅子を引きずる音。


星見坂孤児院の朝は、いつも通り騒がしい。


いつも通り。


だからこそ、その席だけが妙に目立った。


窓際の端。


子どもたちがよく座る長いテーブルに、椅子が一脚余っている。


皿がある。

パンもある。

カップには、まだ湯気の残るミルクが注がれていた。


けれど、そこに座る子はいない。


「……あれ」


ましろは手にしていたトレイを置いた。


「この席、誰の?」


近くにいた年少の子が顔を上げる。


「席?」


「うん。ここ」


ましろが指さすと、その子はきょとんとした。


「空いてるよ」


「空いてるのは分かるんだけど……誰かの分、置いてあるよね」


「うん」


「誰の?」


「え?」


子どもは首を傾げた。


まるで、質問の意味が分からないみたいだった。


ましろはテーブルの上を見る。


皿。

パン。

ミルク。


ちゃんと一人分ある。


誰かのために用意された朝食。


なのに、誰もその席を見ていない。


ましろだけが、そこに引っかかっている。


「ましろ」


背後から声がした。


ねむだった。


寝起きの悪そうな顔で、片手にパン、もう片方の手に小さなメモ帳を持っている。


「何してるの」


「この席、誰のかなって」


ねむは窓際の席を見る。


一瞬、眉が動いた。


「……多いね」


「やっぱり?」


「皿が一枚。カップも一つ。パンもある」


「だよね」


「でも」


ねむは食堂を見回した。


「誰も気にしてない」


その言葉で、ましろの背筋が少し冷えた。


食堂の奥では、星守澄が配膳の手伝いをしていた。


ましろとねむの視線に気づいたのか、澄がこちらを見る。


その目が、窓際の空席へ落ちた。


ほんの一瞬。


本当に、一瞬だけ。


澄の手が止まった。


けれどすぐに、何事もなかったようにスープの器を並べ直す。


ましろはその沈黙を見逃さなかった。


「院長先生」


呼ぼうとした。


けれど、その前に悠太が走ってきた。


「ましろお姉ちゃん、ねむお姉ちゃん!」


腕には、いつものスケッチブック。


表紙には、ひらがなで「わすれないノート」と書かれている。


「朝から元気だね」


ましろが言うと、悠太は少し困った顔をした。


「これ、変なの」


「変?」


悠太はスケッチブックを開いた。


そこには、食堂の絵が描かれていた。


大きなテーブル。

パン。

スープ。

子どもたち。


ましろ。

ねむ。

院長先生。


そして、窓際の端に、ひとりの少年が描かれていた。


灰色の髪。

少し細い身体。

椅子に座っているのに、どこかそこにいないみたいな顔。


その少年の下には、名前を書くための小さな空白があった。


けれど、そこだけ何も書かれていない。


「この子、だれだっけ」


悠太が言った。


ましろは息を呑む。


ねむのメモ帳が、かすかに揺れた。


「悠太くんが描いたの?」


「うん。たぶん」


「たぶん?」


「朝起きたら描いてた」


悠太は自分でも不思議そうに、絵の少年を指でなぞった。


「名前も書いた気がするんだけど、なくなってる」


「消えたの?」


「わかんない」


悠太は少しだけ悲しそうな顔をした。


「でも、消しちゃだめな気がする」


ましろは、何も言えなかった。


ねむがメモ帳を開く。


昨日の夜、夢から持ち帰った言葉。


白い髪の女の人。


七つの星。


黒い王冠。


ソラ。


その一番下の文字だけが、他の文字より少し濃く見えた。


「……ソラ」


ねむが小さく言った。


その名前を聞いた瞬間、悠太が顔を上げた。


「それ」


「え?」


「今の名前、知ってる気がする」


「誰の名前?」


ねむが聞く。


悠太は眉を寄せた。


「……わかんない」


少し考えてから、首を振る。


「でも、ここ」


悠太はスケッチブックの灰色髪の少年を指した。


「ここに書いてあった気がする」


ましろの胸元の宝石が、わずかに熱を持った。


杖は部屋に置いてきたはずなのに、レムの声が耳の奥で聞こえた気がした。


――忘れられているのに、まだ残っている。


ましろは窓際の空席を見た。


誰も座っていない席。


誰のものでもないはずの朝食。


名前のない絵。


ねむのメモにだけ残った名前。


全部が、薄い糸でつながっている。


けれど、その糸を手繰ろうとすると、指先からするりと逃げていく。


ましろは空席の前に立った。


ミルクのカップに触れる。


まだ温かかった。


「……誰か、さっきまでここにいた?」


誰も答えなかった。


子どもたちは食べている。

笑っている。

喧嘩している。

パンを取り合っている。


いつも通りの朝。


その中に、ひとつだけ、誰も知らない席がある。


ましろは、ひどく小さな穴を覗き込んでいるような気分になった。


昼前。


ましろは礼拝室でレムにそのことを話した。


白金の杖は祭壇の上に置かれている。


宝石の中で、レムが腕を組んでいた。


いつもの不機嫌そうな顔。


けれど、今日は目の奥が少し硬い。


「誰も知らない席ね」


「うん。朝食もあった。悠太くんのノートにも、男の子が描いてあって」


「ねむのメモには、ソラ」


ねむが壁際から言った。


「私は覚えてるってほど覚えてない。夢の中で、唇の形だけ見た」


「それでも、名前が残った」


レムは考え込むように目を細めた。


「厄介ね」


「厄介?」


ましろが聞く。


「忘れられた存在は、普通なら痕跡も一緒に薄れていく。名前も、顔も、声も、席も。全部、世界から滑り落ちる」


「じゃあ、どうして席が残ってたの?」


「残っていたのか、戻りかけているのか」


レムは小さく言った。


「あるいは、誰かがまだ覚えようとしているのか」


ましろは悠太のノートを思い出した。


わすれないノート。


子どもの絵。

不揃いな文字。

消えてしまいそうな名前を、紙の上に留めようとする小さな抵抗。


「悠太くんのノートが関係してる?」


「可能性はあるわ」


レムは答えた。


「記録は、名前を繋ぎ止める。特に、感情のある記録は強い。大人が書いた帳簿より、子どもが“忘れたくない”と思って描いた絵の方が、こういう場合は効くことがある」


ねむが腕を組む。


「雑な世界法則」


「世界はだいたい雑よ。人間が後から名前をつけて整理した気になっているだけ」


「それっぽいこと言ってるけど、結局よく分からないってこと?」


「ええ」


「正直なのは評価する」


「あなたの評価は特にいらないわ」


ましろは二人のやり取りを聞きながら、窓の外を見た。


青い空。


朝の騒がしさが嘘みたいに、孤児院の庭は静かだった。


洗濯物が風に揺れている。


その向こうに、北棟の古い時計台が見えた。


星見坂孤児院の一番高い場所。


ましろが小さい頃から、そこにある。


けれど時計はずっと止まっていた。


いつから止まっているのか、誰もはっきり知らない。


ただ、動かないものとしてそこにあった。


孤児院の屋根の上で、時間から外れたみたいに。


その時。


鐘が鳴った。


ごん、と。


低く、古い音。


礼拝室の空気が震えた。


ましろは振り向く。


ねむも顔を上げた。


レムの表情が変わった。


「今の」


「時計台……?」


ましろは窓へ駆け寄った。


北棟の時計台。


止まっていたはずの針が、ほんの少し動いている。


長針が、一分だけ進んでいた。


「時計、動いたの?」


ねむが言う。


「でも、あそこってずっと止まってるよね」


「ええ」


背後から澄の声がした。


いつの間にか礼拝室の扉の前に立っていた。


顔色が悪い。


「少なくとも、あなたたちが生まれる前から」


「院長先生」


ましろは聞いた。


「あの時計台、何なんですか」


澄はすぐには答えなかった。


視線だけが、窓の外の時計台へ向いている。


「昔は、鐘の音で子どもたちを集めていました」


「昔?」


「今は使っていません。階段も古く、危険です」


「でも、今鳴りました」


ねむが言う。


澄は黙る。


その沈黙が、答えの代わりだった。


ましろの胸元が、また温かくなる。


青い宝石が呼吸しているみたいだった。


鐘の余韻がまだ残っている。


耳ではなく、胸の奥に。


ましろは杖を手に取った。


「行ってみます」


「ましろ」


澄が止めるように名前を呼ぶ。


ねむも眉をひそめた。


「ひとりで?」


「うん」


「駄目」


「でも」


「駄目って言ってる」


ねむの声は強かった。


ましろは少し困ったように笑う。


「一緒に来てくれる?」


ねむは一瞬黙った。


それから、深くため息をつく。


「最初からそう言って」


「うん」


「でも私は寝不足だから、階段で倒れたらましろが運んで」


「それは私も自信ない」


「じゃあ倒れない」


レムが杖の中から言う。


「ましろ、時計台の内部は結界の外縁に近い。何かが残っていてもおかしくないわ」


「何かって?」


「分からない」


「最近それ多いね」


「分からないものが増えたからよ。好ましくない」


澄はしばらく二人を見ていた。


そして、小さく鍵束を取り出した。


「北棟の扉は閉じています」


一番古い鍵を、ましろに差し出す。


「無理はしないこと。異変があればすぐ戻りなさい」


「はい」


ましろは鍵を受け取った。


金属は冷たかった。


けれど握っていると、少しずつ体温を移していく。


まるで、長い間誰にも触れられなかったものを、ようやく起こしているみたいだった。


北棟の廊下は、他の場所より静かだった。


子どもたちの声も、ここまでは届きにくい。


床板が古く、歩くたびに小さく鳴る。


窓は細く、外の光が縦に切れて差し込んでいた。


ほこりが、光の中でゆっくり舞っている。


「ここ、あまり来ないよね」


ましろが言う。


「来る理由がない」


ねむは後ろを歩きながら答えた。


「それに、ちょっと寒い」


「寒い?」


「空気が薄い感じ」


ましろも立ち止まった。


確かに、ここだけ少し違う。


音が遠い。


歩いているはずなのに、自分の足音が遅れて聞こえるような感じがする。


杖の宝石が淡く光った。


レムの声がする。


「気をつけて。ここは記憶の流れが薄い」


「記憶の流れ?」


「人が何度も通る場所には、記憶が積もる。笑い声、足音、手の温度。そういうものが場所を現実に留めている」


ねむが嫌そうな顔をする。


「また分かるようで分からない話」


「簡単に言うと、ここは忘れられかけている場所」


ましろは廊下の先を見た。


突き当たりに、小さな扉がある。


その先が、時計台へ続く階段だった。


扉には錆びた金具と、小さな星の紋章。


ましろは鍵を差し込んだ。


固い。


少し力を入れると、奥で何かが外れる音がした。


かちり。


扉が開く。


中から、冷たい風が漏れた。


木の匂い。


ほこりの匂い。


そして、かすかに古い紙の匂いがする。


「嫌な匂い」


ねむが言った。


「ねむ、古い本とか嫌いだっけ」


「嫌いじゃない。でもこれは、忘れた宿題の匂いがする」


「それは具体的に嫌だね」


螺旋階段は細かった。


木でできていて、ところどころ黒ずんでいる。


壁には小さな窓があり、そこから空が見えた。


登るたびに、孤児院の音が遠ざかっていく。


一段。

また一段。


足元で木が軋む。


ましろは手すりを握った。


冷たい。


だんだん、自分がなぜここへ来たのか分からなくなりそうだった。


鐘が鳴った。


時計台が動いた。


誰も知らない席。


ソラ。


頭の中で言葉を並べる。


けれど、並べたそばから崩れていく。


「……ねむ」


「何」


「私、何を探してるんだっけ」


ねむの足音が止まった。


少しの沈黙。


それから、ねむが静かに言った。


「ソラ」


その名前を聞いた瞬間、ましろの胸元の宝石が光った。


記憶が戻るというより、落としかけた糸をもう一度指に引っかけたような感覚だった。


「そうだ」


ましろは息を吐く。


「ソラ」


「忘れそうになった?」


「うん」


「最悪」


ねむはメモ帳を取り出した。


そこには大きく、乱暴な字で書かれている。


ソラを忘れない。


ねむはそれをましろに見せた。


「私が忘れても、これを見る」


「ねむらしい」


「褒め言葉として受け取る」


「レムみたい」


「今の取り消して」


宝石の中でレムが不満そうに言った。


「私を雑に会話の基準にしないで」


そのやり取りに、ましろは少し笑った。


怖さがなくなったわけではない。


でも、ねむがいる。


レムもいる。


だから、もう一段登れた。


時計台の最上階に着くと、空気が変わった。


狭い部屋だった。


大きな歯車が壁の奥に並んでいる。


止まっているはずなのに、どこかで小さく、ちり、と金属が鳴った。


中央には鐘。


長い間鳴っていなかったせいか、表面は少し曇っている。


けれど、その下に積もったほこりには、足跡があった。


ひとつ。


小さな足跡。


新しい。


ましろは息を呑んだ。


「誰か、いる」


ねむがランタンを掲げる。


昨日から預かることになった夢見のランタン。


青黒い光が、時計台の中をゆっくり照らした。


奥に、細い梁がある。


その上に、少年が座っていた。


灰色の髪。

薄い瞳。

白にも黒にもなりきれない、曖昧な色の服。


窓の外を見ている。


足をぶらぶら揺らしていた。


高い場所に座っているのに、怖がっている様子はない。


まるでそこが、自分の席だとでもいうように。


少年は振り向かずに言った。


「そこ、板が抜けるよ」


ましろは足元を見る。


一歩先の床板に、細い亀裂が入っていた。


慌てて足を引く。


「ありがとう」


「どういたしまして」


少年はようやく振り向いた。


悠太のノートに描かれていた少年と、同じ顔だった。


夢の中でねむが見たという、灰色髪の男の子。


ましろは杖を握る手に力を入れた。


「あなたは……」


少年は少し困ったように笑った。


「それ、今日三回目」


ねむが小さく息を呑む。


「覚えてるの?」


「僕はね」


少年は梁から軽く飛び降りた。


音がほとんどしなかった。


床に降りても、そこに重さがないみたいだった。


「君たちは、だいたい忘れる」


ましろは少年を見る。


確かに目の前にいる。


声も聞こえる。


でも、少し目を離したら、顔の輪郭がぼやけそうだった。


「あなたの名前は」


ましろが聞く。


少年は一瞬だけ目を伏せた。


名前を聞かれるのに慣れていないような顔だった。


それとも、聞かれすぎて疲れているような顔。


「今日は、まだ残ってるんだ」


「え?」


「その名前」


少年はねむを見た。


「君、書いてくれたでしょ」


ねむはメモ帳を握りしめる。


「……ソラ」


少年の口元が、少しだけ緩んだ。


「うん」


そして、ましろを見る。


「僕は(とばり)ソラ」


その名前を聞いた瞬間、時計台の中で、小さく鐘が鳴った。


ちりん。


大きな鐘ではない。


もっと近くて、小さな音。


まるで、忘れられた誰かが返事をしたような音だった。


「帳、ソラ……」


ましろは名前を繰り返す。


その瞬間、胸元の宝石が熱くなった。


痛みではない。


けれど、知らない記憶が近づく気配がした。


ソラは少しだけ眉を寄せる。


「無理に呼ばない方がいいよ」


「どうして?」


「君は名前に引っ張られやすいから」


ましろは言葉を失った。


ソラはそれ以上説明しなかった。


代わりに、時計台の窓から外を見る。


眼下には星見坂孤児院が広がっている。


中庭。

食堂の屋根。

洗濯物。

子どもたちの走る姿。


遠くから見ると、全部が小さくて、守られているみたいだった。


「ここからだと、よく見えるんだ」


ソラが言った。


「みんなのこと」


「ずっとここにいたの?」


「いつもじゃない」


「じゃあ、どこに?」


「忘れられた場所」


ねむが眉をひそめる。


「具体性ゼロ」


「ごめん。説明が下手なんだ」


「下手というより、隠してる」


「少し」


ソラは正直に頷いた。


レムが杖の中から言う。


「帳ソラ。あなた、なぜ今になって姿を見せたの」


ソラはレムを見た。


少しだけ、懐かしそうな顔をした。


「レムは相変わらずだね」


レムの表情が硬くなる。


「私を知っているの?」


「うん。たぶん、何回か」


「何回か?」


「僕の“何回”は、あまり信用しない方がいい」


ソラは困ったように笑った。


「忘れられるたびに、数え直しになるから」


その言葉が、時計台の空気に静かに沈んだ。


ましろは、朝の席を思い出す。


誰も知らない席。

温かいミルク。

名前のない絵。


「今朝の席は、あなたの席?」


ソラは少し考えた。


「だったこともある」


「だったことも?」


「僕の席だったかもしれないし、これから誰かが座る席かもしれない」


「どういう意味?」


「誰も知らない席がある時は、誰かが忘れられかけている」


ソラの声は静かだった。


「席は、名前より少し遅れて消える。誰かがそこにいた形だけ、最後まで残ることがある」


ねむの顔が険しくなる。


「じゃあ、今朝の席は」


「警告だと思う」


「誰が忘れられかけてるの」


ソラは答えなかった。


ましろの胸元の宝石が、また熱を持つ。


答えを聞かなくても、少し分かってしまった。


ましろ。


あるいは、ソラ。


あるいは、まだ名前すら知らない誰か。


時計台の外で、風が鳴った。


古い鐘が、かすかに揺れる。


「黒い王冠」


ねむが言った。


ソラの表情が、わずかに変わった。


「夢で見た。星見坂孤児院の上に、割れた王冠みたいな魔法陣が浮かんでた」


「見えたんだ」


「見たくて見たわけじゃない」


「うん。夢ってそういうものだよね」


「分かった風に言わないで」


「ごめん」


ソラは素直に謝った。


ねむは少しだけ調子を崩された顔をする。


「黒い王冠は、来るの?」


ましろが聞いた。


ソラは窓の外を見たまま答えた。


「たぶん」


「たぶん?」


「近づいてる。名前の匂いを辿って」


「名前の、匂い……」


ましろは胸元を押さえた。


ソラの視線が、そこへ落ちる。


青い宝石。


封じられた本当の名前。


ソラは一瞬だけ、とても悲しそうな顔をした。


「君はまだ、ましろでいた方がいい」


「え?」


「本当の名前は、急がない方がいい」


レムと同じことを言った。


けれど、レムとは声の温度が違った。


レムは警告する。


ソラは、まるで見届けたことがあるみたいに言う。


「あなたは、私のことを知ってるの?」


ましろは尋ねた。


ソラは困ったように笑った。


「その質問に、ちゃんと答えられたことがない」


「どうして?」


「僕が答えても、たいてい忘れられるから」


その言葉に、ましろは何も返せなかった。


ソラは続ける。


「でも、これだけは言える」


灰色の瞳が、ましろをまっすぐ見る。


「君は、君の名前を呼んでくれる人を手放しちゃいけない」


ましろの胸が、小さく痛んだ。


悠太。

ねむ。

院長先生。

レム。


孤児院のみんな。


自分を久遠ましろと呼ぶ声。


「ソラは」


ましろは言った。


「ソラの名前を呼んでくれる人は?」


ソラは少し驚いた顔をした。


それから、笑った。


さっきよりも、ずっと寂しそうに。


「今日は、君たちが呼んでくれた」


その言葉に、ねむが視線を逸らす。


「今日はって何」


「明日は分からないから」


「覚えてる」


ねむは言った。


「メモにも書いた」


「うん。助かった」


ソラは微笑んだ。


「今回は、まだ覚えてる人がいる」


その言葉は、昨夜ねむが夢と現実のあいだで聞いた声と同じだった。


ねむの顔色が変わる。


「昨日の声、あなた?」


ソラは首を傾げた。


「昨日の僕かもしれないし、明日の僕かもしれない」


「本当に話が面倒」


「よく言われる」


「誰に?」


ソラは答えなかった。


その瞬間、時計台の鐘が鳴った。


今度は大きかった。


ごん、と。


古い音が、塔の中いっぱいに響く。


ましろは思わず耳を押さえた。


視界が揺れる。


ソラの輪郭が、薄くなる。


「ソラ!」


名前を呼ぶ。


けれど、その名前が口から出た瞬間、なぜ呼んだのか少し分からなくなった。


灰色の少年。

時計台。

誰も知らない席。


記憶が、指の間からこぼれていく。


ねむが叫んだ。


「ましろ、手!」


「手?」


ましろは自分の掌を見た。


いつ書いたのか分からない。


そこに、震えた字で文字が書かれていた。


忘れない。


帳ソラ。


黒いインクではない。


青白い光で、皮膚の下に浮かんでいるみたいだった。


ましろは息を呑む。


「……忘れない」


小さく呟く。


「私は、忘れない」


ソラの姿が、少しだけ戻った。


彼は驚いたように、ましろの掌を見ていた。


「それ、君が書いたの?」


「分からない」


ましろは掌を握る。


「でも、書いてある」


レムが低く言った。


「ましろの魔力が反応している。名前を記録しようとしているのね」


「そんなこと、できるの?」


「普通はできないわ」


「普通じゃないってこと?」


「今さらでしょう」


ねむが短く言った。


ソラが小さく笑った。


「本当に、君たちは変だね」


「あなたに言われたくない」


ねむが返す。


鐘の余韻が、少しずつ消えていく。


ソラは窓の外へ目を向けた。


「そろそろ戻った方がいい」


「どこへ?」


ましろが聞く。


「みんなのいる場所へ」


「ソラは?」


「僕は、もう少しここにいる」


「一緒に来ればいい」


その言葉は、ほとんど反射だった。


ソラは目を瞬いた。


「……僕を?」


「うん」


「食堂に?」


「席、あるし」


ねむが小さく吹き出しそうになる。


ソラは呆然としていた。


まるで、そんなことを言われるとは思っていなかったみたいに。


「でも、誰も覚えてないよ」


「これから覚えればいい」


ましろは言った。


「難しいかもしれないけど。忘れちゃうかもしれないけど。でも、席があるなら、座ればいいと思う」


ソラは何も言わなかった。


灰色の瞳が、少し揺れている。


時計台の小窓から、夕方の光が差し込んだ。


彼の髪が、銀色に近い色に見えた。


「ましろって」


ソラはぽつりと言った。


「そういうところ、変わらないね」


「前にも言った?」


「たぶん」


「じゃあ、また聞くと思う」


「うん」


ソラは少し笑った。


「それ、悪くない」


時計台を降りる時、ましろは何度も掌を見た。


忘れない。


帳ソラ。


文字は少しずつ薄くなっている。


でも、まだ消えていない。


ねむもメモ帳を握っていた。


そのページには、朝よりも大きな字で書かれている。


ソラは時計台にいる。


忘れたら殴る。


「ねむ、それ誰を?」


ましろが聞く。


「自分」


「強い」


「忘れた自分にはそのくらいでいい」


レムが言う。


「物理的な記憶保持は非推奨よ」


「じゃあレムを殴る」


「なぜそうなるの」


ましろは少し笑った。


階段を降り切るころには、孤児院の音が戻ってきていた。


子どもたちの声。

食器の音。

誰かが廊下を走って怒られる声。


日常の音。


ましろは少しだけほっとする。


けれど、さっきまで時計台にいた少年の顔は、もう少しぼやけ始めていた。


灰色の髪。


薄い瞳。


困ったような笑い方。


必死に思い出す。


忘れない。


忘れない。


忘れない。


食堂に戻ると、窓際の席はまだ空いていた。


朝の皿は片付けられている。


けれど、椅子だけは残っていた。


誰も座っていない。


誰も気にしていない。


ましろはその席の前に立った。


そして、小さく言った。


「ソラ」


椅子が、ほんの少しだけ軋んだ。


まるで、誰かがそこに座り直したみたいに。


ねむがメモ帳に何かを書き足す。


ソラの席。


ましろは自分の掌を見る。


文字はもう、ほとんど消えかけていた。


けれど最後の一文字だけが、青白く残っている。


ラ。


それも、数秒後には消えた。


ましろは手を握る。


名前は消えた。


でも、完全には消えていない。


胸の奥に、小さな鐘の音みたいに残っている。


その日の夜。


星見坂孤児院の時計台は、また止まった。


けれど、誰も見ていないところで、長針だけが一分進んでいた。


そして食堂の窓際。


誰も知らない席の上に、いつの間にか小さな紙片が置かれていた。


子どもの字でも、大人の字でもない。


少し薄く、今にも消えそうな文字。


そこには、こう書かれていた。


また明日。


ましろはその紙片を見て、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


明日。


その言葉があるなら、きっとまだ大丈夫だと思った。


たとえ忘れてしまっても。


また、会えばいい。


また、名前を聞けばいい。


何度でも。


その席が、まだそこにある限り。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ