表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
5/23

第4話 夢見のランタン

ねむはその夜、眠るのに失敗し続けた。


眠い。


なのに、眠れない。


目を閉じれば夢が来る。

目を開けていれば、昨日の庭が戻ってくる。


黒い星屑。

割れた白い仮面。

ましろの胸元で光る青い宝石。


そして、違う名前で呼ばれそうになるましろの横顔。


結局、どちらも最悪だった。


ねむは布団を頭までかぶった。


意味はなかった。


布団の内側は暗い。

暗いから、余計に思い出す。


「……面倒」


小さく呟く。


星骸に向けた言葉なのか。

レムに向けた言葉なのか。

何も話さない院長先生に向けた言葉なのか。

勝手に危ない方へ走っていくましろに向けた言葉なのか。


それとも、肝心な夢ばかり忘れる自分に向けた言葉なのか。


自分でも分からなかった。


窓の外では、夜の終わりかけた空がうっすら白んでいる。


星はまだ少しだけ残っていた。


ねむはそれを見て、眉をひそめる。


星が綺麗だと思えない朝は、たぶんあまり良くない。


そう思った。


朝食の時間になっても、ましろはいつも通りだった。


小さな子の皿にパンを分ける。

スープをこぼした子の手を拭く。

寝ぐせの跳ねた悠太の髪を、指先で整えてやる。


いつも通り。


だから余計に、ねむは腹が立った。


「ましろ」


「なに?」


「パン、減らした」


「少しだけ」


「その“少し”は昨日禁止した」


「禁止されてたっけ」


「今した」


ましろは困ったように笑った。


ねむはその顔を見るのが、少しだけ嫌だった。


何も知らない顔ではない。

怖くなかった顔でもない。


それなのに、ましろは笑う。


自分が不安になるより先に、周りを安心させようとする。


そういうところが、ねむは昔から嫌いだった。


嫌いで、放っておけなかった。


「半分」


ねむは自分のパンを割って、ましろの皿に置いた。


「食べて」


「ねむも食べないと」


「私はあとで寝るからいい」


「睡眠って栄養なの?」


「私にとってはだいたいそう」


「雑な生命体だね」


「ましろにだけは言われたくない」


そんな会話をしていると、悠太がスケッチブックを抱えて近づいてきた。


「ねむお姉ちゃん」


「何」


「昨日の夢、また描いた」


ねむの手が止まる。


悠太はページを開いた。


そこには、古い礼拝室が描かれていた。


丸い床。

星の模様。

大きな杖を持ったましろ。


そして、部屋の隅に、小さなランタンのようなものが描かれている。


ねむは眉を寄せた。


「これ、何」


「わかんない」


悠太は首を傾げる。


「でも、ねむお姉ちゃんが持ってた」


「私が?」


「うん。夢で」


ねむはページをじっと見た。


子どもの絵だ。


線はゆがんでいるし、色も少しはみ出している。


それなのに、そのランタンだけが妙に目についた。


小さな金色の枠。

青黒い光。

持ち手には、星の形がついている。


見覚えはない。


ないはずだった。


それでも胸の奥が、少しだけざわついた。


「……変な夢見すぎ」


ねむがそう言うと、悠太は少しむっとした顔をした。


「ねむお姉ちゃんも見るでしょ」


「私は好きで見てるわけじゃない」


「ぼくも好きで見てるわけじゃないよ」


それはそうだった。


ねむは返す言葉を失う。


悠太はスケッチブックを閉じると、ましろを見上げた。


「ましろお姉ちゃん、今日も練習するの?」


ましろは少し驚いた顔をした。


「練習のこと、知ってるの?」


「夢で見た」


悠太は当たり前みたいに言う。


「きらきらしてた。でも、ちょっと怖かった」


ましろとねむは顔を見合わせた。


食堂の奥で、星守澄がこちらを見ていた。


その目は穏やかだった。


けれど、いつものようには笑っていなかった。


午後。


ましろたちは、昨日と同じ古い礼拝室にいた。


高い窓から差し込む光は、昨日より少し白い。


床の魔法陣は静かに沈黙している。


祭壇の上の星図は、白い布で半分隠されていた。


「今日は基礎訓練の続きよ」


杖の宝石の中で、レムが腕を組んでいる。


「まずは昨日の鐘の光を安定させる。勢いで出すんじゃなく、呼吸で流す」


「呼吸で流す……」


ましろは杖を両手で持つ。


姿勢は昨日より少しだけ落ち着いていた。


けれど、緊張しているのは分かった。


指先に力が入りすぎている。


ねむは壁際に座って、それを見ていた。


自分には何もすることがない。


それが、妙に居心地悪かった。


ましろは目を閉じた。


胸元の宝石が淡く光る。

杖の先端にも、青白い光が灯った。


小さな鐘の音が鳴る。


りん。


昨日よりも、少し長く響いた。


床の魔法陣が、淡く応える。


「七十五点」


レムが言った。


ましろは目を開ける。


「少し上がった」


「誤差の範囲ね」


「褒め方を覚えてほしい」


「褒める必要が出たら検討するわ」


「遠い」


ましろが苦笑する。


そのやり取りを見て、ねむは少しだけ肩の力が抜けた。


ましろが笑っている。


それだけで安心してしまう自分がいて、また腹が立った。


「棘咲ねむ」


突然、レムに呼ばれた。


ねむは顔を上げる。


「何」


「あなた、昨夜ほとんど眠っていないでしょう」


「見張ってたの?」


「顔が死んでる」


「元から」


「そう。なら元から死相なのね」


「杖の中にいるくせに口が悪い」


「宝石内居住者への偏見は減点対象」


「私も点数制なの?」


「希望するなら」


「しない」


ましろが困ったように二人を見ている。


澄は祭壇のそばで静かに聞いていた。


レムはねむを見たまま続ける。


「あなたの夢は、ただの夢ではない」


ねむは黙った。


それを言われるのは、嫌だった。


自分でも分かっていることを、他人の口から形にされるのが嫌だった。


「星骸の襲撃を、あなたは事前に見ていた。完全ではないけれど、断片は拾っている」


「拾いたくて拾ってるわけじゃない」


「でしょうね」


「だったら何」


「使えるものは使うべきよ」


ねむの眉が動いた。


「私を道具にする気?」


「あなたが望むなら、そうはしない」


レムの声は、意外なほど静かだった。


「でも、あなたがましろを守りたいなら、その夢は力になる」


ねむはましろを見た。


ましろは何も言わなかった。


ただ、少し心配そうにこちらを見ている。


その顔が、一番ずるい。


やめて、と言われた方がよほど楽だった。


「夢を見るだけで何ができるの」


ねむは言った。


「肝心なところは忘れる。覚えていても、何が正しいか分からない。昨日だって、結局ましろは危ない目に遭った」


「未来は確定ではないわ」


レムが言う。


「あなたが拾っているのは、未来そのものじゃない。未来になりそこねた欠片よ」


「欠片」


「割れやすい硝子みたいなもの。手を切るし、すぐ形を変える」


「余計に面倒」


「同感ね」


「同感するな」


レムは澄を見た。


「星守澄。まだ残っているのでしょう。夢灯りの道具」


澄の表情がわずかに変わった。


「……ええ」


ましろが振り向く。


「夢灯り?」


澄は少し迷ったあと、礼拝室の奥へ向かった。


そこには、古い棚があった。


扉には星の紋章が刻まれている。


澄が鍵束から小さな鍵を選び、棚を開ける。


中には、いくつかの古い道具が眠っていた。


ひびの入った小瓶。

銀色の鈴。

使われなくなった羽根ペン。

小さな箱。


そして、その奥に、ランタンがあった。


悠太の絵にあったものと、よく似ていた。


金色の細い枠。

星形の持ち手。

中には火皿があるのに、油の匂いはしない。


硝子は少し曇っていて、触れる前からひんやりしていそうだった。


澄はそれを両手で取り出した。


「夢見のランタン」


静かに言う。


「かつて、悪夢や予兆の欠片を受け止めるために使われていた道具です」


ねむは思わず顔をしかめた。


「怪しい」


「怪しいわね」


レムが同意した。


「でも有用よ」


「ますます嫌」


澄はランタンをねむの前へ差し出した。


「無理に持つ必要はありません」


ねむはランタンを見た。


小さい。


片手でも持てるくらいだ。


こんなもので何かが変わるとは思えない。


でも、硝子の奥に、うすく青い光が残っている気がした。


火ではない。


眠る前のまぶたの裏に残る、見たくない夢の色に似ている。


「これを使うと、どうなるんですか」


ましろが聞いた。


澄は答える。


「夢を見なくなるわけではありません。むしろ、見やすくなるでしょう」


「最悪じゃないですか」


ねむが即座に言う。


澄は少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。


「けれど、夢の中で迷いにくくなる。見たものを、少しだけ持ち帰りやすくなる」


「つまり、悪夢の記憶力アップ装置」


「言い方は悪いけれど、だいたい合っているわ」


レムが言った。


ねむはため息をついた。


「いらない」


そう言った。


本心だった。


夢なんて、これ以上見たくない。


ましろが消えそうになる夢。

誰かの名前が剥がれていく夢。

白い仮面が笑う夢。


そんなものを、覚えていたくない。


けれど。


ましろは走った。


自分が止めても、走った。


悠太がいたから。

名前が消えそうだったから。

守りたいものがそこにあったから。


ましろはそういう子だ。


なら、きっと次も走る。


止めても走る。


ねむはましろを見た。


ましろは、困ったように笑った。


「無理しなくていいよ、ねむ」


出た。


一番聞きたくない言葉。


ねむはランタンへ手を伸ばした。


「やっぱり持つ」


ましろが目を見開く。


「ねむ」


「無理しなくていいって言われると、無理したくなる」


「それはちょっと危ない性格じゃない?」


「ましろにだけは言われたくない」


ねむの指が、ランタンの持ち手に触れた。


冷たい。


そう思った瞬間、ランタンの中で青黒い光が揺れた。


火が灯ったわけではない。


それはもっと静かで、もっと深い光だった。


眠りの底に沈んでいる星を、ひとつだけ掬い上げたような光。


礼拝室の空気が、すっと変わった。


床の魔法陣が反応する。


ましろの胸元の宝石も、かすかに光った。


レムが低く言う。


「相性は悪くないみたいね」


「嬉しくない」


ねむはランタンを睨んだ。


「勝手に光るな」


ランタンは答えない。


けれど、青黒い光は消えなかった。


その夜。


ねむは、いつもより早く眠ることになった。


正確には、眠らされることになった。


「これは訓練よ」


レムが言う。


「夢見のランタンに慣れるため、浅い夢に入る。危険になったら起こす」


「危険じゃなくても起こして」


「それでは訓練にならない」


「訓練って言葉、本当に便利」


ねむはベッドに横になりながら文句を言った。


部屋にはましろと澄がいる。


ましろは椅子に座って、ねむの手元のランタンを心配そうに見ていた。


澄は少し離れた場所で、星の護符を持っている。


「無理だったら、すぐやめよう」


ましろが言った。


「そういう顔しないで」


「どういう顔?」


「こっちが悪いことしてる気分になる顔」


「してないよ」


「してる」


ねむは枕に頬を沈める。


ランタンはベッド脇の小さな机に置かれている。


青黒い光が、部屋の壁を淡く揺らしていた。


まるで水の底みたいだ。


「ましろ」


「うん?」


「変なこと言ったら起こして」


「変なこと?」


「知らない名前とか」


ましろの表情が少しこわばった。


「分かった」


「あと、私が苦しそうにしたら起こして」


「うん」


「あと、寝顔見ないで」


「それは難しい位置にいる」


「じゃあ目を閉じて」


「ねむを見守る意味」


「そこは気合いで」


ましろが小さく笑う。


その声を聞いて、ねむは少しだけ安心した。


それから、目を閉じる。


眠りは、すぐに来た。


いつもより早い。


というより、底から引っ張られた。


水に落ちるみたいに。


ねむは夢の中にいた。


そこは星見坂孤児院の廊下だった。


けれど、昼でも夜でもない。


壁は白い。

窓の外は暗い。

足元には、薄い水が張っている。


水は冷たかった。


それなのに、どこか古い紙の匂いがした。


歩くたびに、ぱしゃり、と音がする。


手にはランタンがあった。


青黒い光が、廊下を細く照らしている。


「……趣味悪い」


自分の声が、やけに遠く響いた。


廊下の先に、食堂が見える。


テーブルが並んでいる。


椅子もある。


けれど、誰もいない。


席札だけが置かれていた。


ねむは一枚を手に取る。


何も書かれていない。


次の席札も。


その次も。


全部、白紙だった。


胸の奥が冷える。


「ましろ」


呼んだつもりだった。


けれど、声がうまく出ない。


ランタンの光が揺れる。


食堂の奥で、小さな音がした。


クレヨンが床に落ちる音。


ねむは振り向いた。


悠太のスケッチブックが落ちていた。


表紙には「わすれないノート」と書かれている。


けれど、その文字が少しずつ薄れていく。


ねむは駆け寄って、スケッチブックを開いた。


ページの中で、ましろが笑っている。


胸元に青い丸。


その横に、ねむ自身も描かれていた。


眠そうな顔で、片手にランタンを持っている。


「私、こんな顔してない」


思わず言う。


その時、ページの端が黒く滲んだ。


七つの星。


そのうち一つが、黒く塗り潰されていく。


ねむは息を呑んだ。


廊下の向こうから、誰かの足音がする。


ぱしゃり。


ぱしゃり。


水を踏む音。


ランタンを掲げる。


そこに、少年が立っていた。


灰色の髪。

薄い瞳。

まるで長い間、誰にも呼ばれなかったみたいな顔。


見たことがある気がした。


けれど、思い出せない。


「誰」


ねむは聞いた。


少年は少し困ったように笑った。


「それ、僕も知りたい」


「ふざけてる?」


「たぶん、真面目」


少年は廊下の窓に手を当てた。


その手は、少し透けていた。


「名前を忘れられるのと、名前を奪われるのは違う」


「何の話」


「まだ早い話」


「夢の中でまでそれ言うのやめて」


少年は笑った。


寂しそうだった。


「でも、君は覚えて帰れるかもしれない」


「何を」


少年は答えない。


代わりに、廊下の奥を指さした。


そこには鏡があった。


礼拝室にあるものと同じ鏡。


鏡の中に、白い髪の少女が立っている。


ましろに似ていた。


でも、ましろではない。


長い白銀の髪。

静かな瞳。

胸元に青白い宝石。


その少女は、ねむを見た。


そして言った。


「その夢を変えて」


声は、鈴の音みたいに澄んでいた。


けれど、聞いた瞬間、胸が苦しくなった。


「でないと、彼女は私になる」


ねむは鏡に近づいた。


「彼女って、ましろ?」


白い少女は答えない。


「あなたは誰」


鏡面に、ひびが入る。


その向こうで、夜空が見えた。


黒い流星が落ちる。


星見坂孤児院の上に、割れた王冠のような魔法陣が浮かんでいた。


名前のない文字が、空から剥がれていく。


そして、その中心から声がした。


――その名は、誰のものだ。


ねむのランタンが激しく揺れた。


青黒い光が、手の中で暴れる。


水が足元からせり上がってくる。


食堂の席札が浮かぶ。


全部、白紙。


スケッチブックの中のましろの顔が、少しずつぼやけていく。


「やめて」


ねむはページを押さえた。


「消えるな」


黒い染みが広がる。


ましろの名前が消えかける。


ねむは叫んだ。


「ましろ!」


その瞬間、夢のどこかで鐘が鳴った。


りん。


小さな音。


けれど、ランタンの光が応える。


青黒い火の中心に、淡い金色が灯った。


水が引いていく。


鏡のひびが止まる。


白い髪の少女が、かすかに目を細めた。


「まだ、呼べるのね」


その声が遠ざかる。


灰色の髪の少年も、少しずつ薄くなっていく。


ねむは手を伸ばした。


「待って。名前」


少年は振り返った。


口元だけで、何かを言った。


声は聞こえなかった。


けれど、唇の形だけが残った。


そ、ら。


そこで、ねむは目を覚ました。


「ねむ!」


ましろの声が近くで弾けた。


ねむは勢いよく上体を起こす。


息が荒い。


頬が濡れていた。


汗なのか涙なのか分からなかった。


ランタンは机の上で、まだ光っている。


青黒い光の中に、一瞬だけ金色の火が揺れた。


それから、ふっと小さくなった。


「大丈夫? ねむ、大丈夫?」


ましろが手を握っている。


その手が温かい。


夢の中の水の冷たさが、少しずつ離れていく。


ねむはしばらく呼吸を整えた。


それから、ましろの顔を見た。


ちゃんとある。


ましろの顔。


ましろの名前。


ましろの声。


「……最悪」


ねむは呟いた。


ましろの顔が歪む。


「苦しかった?」


「苦しかった」


「ごめん、やっぱりやめよう。こんなの――」


「でも、見た」


ねむはましろの言葉を遮った。


「今度は、少し覚えてる」


レムの声が、杖から聞こえる。


「何を見たの」


ねむは目を閉じた。


忘れないうちに。


こぼれ落ちる前に。


「白紙の席札。悠太のノート。七つの星のひとつが黒くなる。礼拝室の鏡。白い髪の女の人」


ましろの手が、ぴくりと動いた。


「白い髪……」


「ましろに似てた。でも違う」


澄の表情が硬くなる。


レムも黙った。


ねむは続ける。


「その人が言った」


声が少しかすれた。


「その夢を変えて。でないと、彼女は私になる」


部屋が静まり返った。


夜の空気が、窓の外で細く鳴る。


ましろは何も言わなかった。


言えなかったのだと思う。


ねむは、もうひとつの記憶を手繰った。


「あと、灰色の髪の男の子がいた」


「男の子?」


「知らない。たぶん知らない。でも、知ってる気がした」


ねむは額を押さえる。


頭の奥が痛い。


「名前を聞いたけど、ちゃんと聞こえなかった」


「何か覚えてる?」


ましろが聞く。


ねむは迷った。


たぶん、あれは本当に聞いた名前ではない。


唇の形だけ。


夢の残りかす。


でも、言わなければ消える気がした。


「……ソラ」


その名前を口にした瞬間、部屋の明かりが一度だけ揺れた。


誰も動かない。


ましろも。

澄も。

レムも。


ねむは全員の顔を見た。


「何。今の反応」


澄が静かに言った。


「その名前を、どこで」


「夢で」


「他には?」


「それだけ」


レムが低く呟く。


「帳の外側に触れたのかもしれない」


「帳?」


ましろが聞き返す。


レムは答えなかった。


澄も目を伏せる。


ねむは苛立った。


「また“まだ話せない”?」


澄は苦しげに眉を寄せた。


「……今は、確かなことが言えません」


「便利ですね、その言葉」


ねむの声は刺々しかった。


ましろが小さく名前を呼ぶ。


「ねむ」


ねむはましろを見る。


まだ手を握られている。


ましろの手は震えていた。


自分のために。


ねむは息を吐いた。


怒るのは簡単だ。


でも、今怒っても、ましろが困るだけだ。


それがまた腹立たしい。


「分かった。今日はここまでにする」


レムが言った。


「あなたの夢見は危ういけれど、使える。夢見のランタンも反応した。次からは記録を取りながら――」


「次もやるとは言ってない」


ねむが言う。


レムはねむを見る。


「やらないの?」


ねむは少し黙った。


夢は嫌いだ。


これからもきっと嫌いだ。


ましろが消えそうな夢なんて、二度と見たくない。


でも。


見なかったせいで、本当に消えたら。


その方が、ずっと嫌だった。


「やる」


ねむは言った。


「でも、私のやり方でやる」


「具体的には?」


「無理だと思ったら寝ない」


「睡眠を拒否する夢見能力者、最悪ね」


「知ってる」


「あと、記録は取るべきよ」


「悠太のノートみたいに?」


「ええ。あなたにも必要になる」


ねむは枕元の小さなメモ帳を見た。


普段は、どうでもいい予定や、ましろに言う小言を書いているものだ。


ねむはそれを手に取った。


鉛筆で、最初のページに書く。


白い髪の女の人。


七つの星。


黒い王冠。


ソラ。


最後の文字を書いた時、胸の奥が少しだけ冷えた。


「これで忘れにくくなる?」


ましろが聞いた。


「分からない」


ねむはメモ帳を閉じた。


「でも、忘れたら腹立つから書く」


ましろは小さく笑った。


「ねむらしい」


「褒めてないでしょ」


「褒めてる」


「ましろの褒め方、たまに雑」


そう言いながら、ねむはランタンを見た。


青黒い光は、もう小さくなっている。


けれど消えてはいなかった。


夢見のランタン。


悪夢を連れてくる道具。


けれど、悪夢の中から何かを持ち帰るための道具。


好きにはなれそうにない。


でも、捨てる気にもなれなかった。


ましろが不意に言った。


「ねむ」


「何」


「ありがとう」


ねむは顔をしかめた。


「早い」


「早い?」


「まだ何もできてない」


「でも、一緒に見てくれた」


「見たくて見たんじゃない」


「うん」


「ましろのためだけでもない」


「うん」


「悠太のノートとか、孤児院とか、あと……私が腹立つから」


「うん」


ましろは、全部分かっているみたいに頷いた。


ねむはその顔がまた少し嫌で、でも少しだけ救われた。


「だから、ありがとうはまだ保留」


「保留」


「レム方式」


宝石の中でレムが不満そうに言う。


「私の方式を勝手に雑用しないで」


「便利だから使った」


「使用料を請求するわ」


「夢の中で払う」


「不渡りになりそうね」


ましろが笑った。


小さな笑い声だった。


けれどその声が部屋にあるだけで、夜の色が少しだけ薄くなった。


窓の外には星が出ている。


昨夜よりも、少し遠く見えた。


ねむはベッドに座ったまま、メモ帳の表紙を指でなぞった。


夢は嫌いだ。


それは変わらない。


けれど、夢の中でしか見つけられないものがあるなら。


ましろが自分ではない何かになりかけた時、そこでしか呼べない名前があるなら。


ねむはきっと、また眠る。


嫌々でも。

文句を言いながらでも。


それが自分の役割なら、腹立たしいけれど引き受ける。


その夜、夢見のランタンは小さく灯り続けた。


青黒い光の奥で、ほんのわずかに金色が揺れている。


まるで、まだ誰にも知られていない朝を、

悪夢の底から拾い上げようとしているみたいに。


そして、ねむがもう一度眠りに落ちる直前。


耳元で、誰かの声がした。


遠くて、薄くて、今にも消えそうな声。


――よかった。


ねむは夢と現実のあいだで、目を開けようとした。


けれど体は動かない。


声だけが、もう一度届く。


――今回は、まだ覚えてる人がいる。


その声が誰のものなのか、ねむには分からなかった。


ただ、メモ帳の一番下に書いた名前だけが、

暗闇の中でかすかに光っていた。


ソラ。


夜が、静かに深くなる。


夢見のランタンが、ちり、と小さく鳴った。


誰かが忘れられた音に、似ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ