第3話 星律の杖と、言えない真実
朝になっても、星見坂孤児院はいつも通りだった。
食堂にはパンの匂いが漂っている。
廊下には子どもたちの足音が響いている。
窓辺の鉢植えには、何も知らないみたいな顔で朝の光が落ちている。
いつもと同じ朝。
それが、ましろには少し怖かった。
昨夜、この場所は星骸に襲われた。
子どもたちの名前が奪われかけた。
孤児院を守る結界は破られかけた。
自分は魔法少女になって、白と金の杖を手にした。
そして、その杖には、小さな少女が宿っていた。
「……夢じゃ、ないんだよね」
ましろは自室のベッドの上で、膝に置いた杖を見つめた。
星律の杖。
昨夜、胸元の宝石から現れたその杖は、変身が解けたあとも消えなかった。
今はまるで眠っているみたいに、先端の青い宝石だけが淡く光っている。
「夢だったら、もっと構成を整えているわ」
杖から声がした。
ましろは肩を跳ねさせた。
「レム?」
「ええ。あなたの相棒こと、レム・ステラよ。忘れていたら減点」
宝石の中に、小さな少女の姿が浮かび上がる。
淡い銀桃色の髪。
青白い瞳。
白と水色の、精霊のような衣装。
昨夜と同じ姿だった。
けれど朝の光の中で見ると、レムは星の欠片みたいに透けていた。
強気な顔をしているのに、どこか儚い。
「忘れてないよ。ただ……まだ信じられなくて」
「信じるかどうかは自由だけど、現実はだいたい本人の理解を待ってくれないわ」
「朝から言うことが重い」
「親切よ。早めに期待を折ってあげているの」
ましろは小さく息を吐いた。
レムの言葉はきつい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
冷たいというより、余計な布を一枚ずつ剥がしていくような言い方だった。
「昨日のこと、子どもたちは……」
「ほとんど覚えていないはずよ」
レムは淡々と言った。
「星骸に触れた記憶は不安定になる。星守澄が、結界の残りで記憶の角を丸めたみたいね」
「記憶の角を、丸める?」
「完全に消すわけじゃない。夢だった、怖かった、何かあった気がする。その程度にぼかすこと」
ましろは胸元を押さえた。
「それって、いいことなのかな」
「子どもには必要な処置よ。昨日のまま覚えていたら、眠れなくなる子もいる」
「でも」
そこまで言って、ましろは口を閉じた。
忘れることは、守ることなのだろうか。
名前を奪われるのも怖い。
けれど、誰かの記憶をこちらの都合で薄くしてしまうことも、同じくらい怖かった。
レムは少しだけ目を細める。
「あなたにとって、忘れることは他人事じゃないものね」
胸元の宝石が、ほんの少し熱を持った。
昨夜、レムが言った言葉がよみがえる。
本当の名前を思い出せば、力を得る。
でも同時に、“久遠ましろ”としての記憶を失っていく。
ましろは、自分の手を見た。
昨日までと同じ手だ。
小さな子の髪を整えたり、食器を洗ったり、洗濯物をたたいたりしてきた手。
それなのに、どこか知らない人の手みたいにも見えた。
「レム」
「何」
「あなたは、私の本当の名前を知ってるの?」
宝石の中で、レムが黙った。
いつもならすぐに何か返してくるのに。
それだけで、ましろには答えが分かってしまった。
「知ってるんだ」
「……正確には、“近くにいた”と言うべきね」
「近く?」
「その話はまだしない」
「また、それ」
思ったより、強い声が出た。
ましろ自身が一番驚いた。
「院長先生も、レムも、みんな“まだ”って言う。でも、私は昨日、何も分からないまま戦ったんだよ」
レムは視線を逸らさなかった。
「分かっているわ」
「分かってるなら、教えて」
「教えた結果、あなたが壊れる可能性がある」
「壊れるって……」
「記憶が剥がれる。自己認識が揺らぐ。星骸に引き寄せられる。最悪の場合、“久遠ましろ”として戻ってこられなくなる」
部屋の空気が、少し冷えた。
ましろは昨夜の感覚を思い出す。
星骸に触れられた瞬間。
自分の名前が、薄い紙みたいにめくれた。
その下に、別の名前があった。
触れたら戻れなくなりそうな名前。
「だから、あなたが何も知らないままでいることには意味があった」
「でも、知らないままなら、また昨日みたいになる」
「ええ」
「それなら、どうすればいいの」
「強くなるしかないわ」
レムは当然のように言った。
「守りたいなら、戦えるようになる。知りたいなら、耐えられるようになる。名前に触れるなら、自分を失わない錨を持つ」
「錨?」
「あなたを“久遠ましろ”として繋ぎ止めるもの」
レムの視線が、窓の外へ向いた。
中庭では、子どもたちが朝の掃除をしている。
その中に、七瀬悠太の姿もあった。
星柄のブランケットを肩にかけ、片手にスケッチブックを抱えている。
少し大きすぎるカーディガンの袖が、手の甲まで落ちていた。
ましろが窓越しに見ていると、悠太はふと顔を上げた。
目が合う。
悠太はぱっと笑って、大きく手を振った。
ましろも小さく手を振り返す。
たったそれだけで、胸の奥に少しだけ温かいものが戻ってくる。
レムが小さく言った。
「今のあなたに必要なのは、力だけじゃない。呼んでくれる声よ」
「声……」
「あなたがあなたでいられなくなりそうな時、名前を呼んでくれる誰か」
ましろは悠太の言葉を思い出した。
名前があれば、帰ってこられるんだよ。
昨日は、子どもらしい言葉だと思った。
でも今は、その言葉の方が、自分よりずっと賢い気がした。
扉がノックされた。
「ましろ、起きてる?」
ねむの声だった。
「うん」
扉が開く。
入ってきたねむは、いつもより明らかに機嫌が悪そうだった。
眠たげな目はそのままなのに、空気だけがぴりぴりしている。
「体調は?」
「大丈夫」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんで大丈夫って言わない」
ねむはベッドのそばに立つと、ましろの額に手を当てた。
熱を測るような仕草だった。
その手が、少し震えていた。
ましろは気づいてしまう。
「ねむ」
「何」
「心配かけてごめん」
ねむの眉が、ぴくりと動いた。
「謝るなって昨日言った」
「でも」
「でもじゃない」
ねむは額から手を離し、ましろを見下ろした。
「ましろは、すぐ謝る。すぐ自分が悪いことにする。昨日もそう。自分が危ないのに、悠太を助けに行って、みんなの名前を守ろうとして、最後は星骸にまで手を止めた」
「手を止めたわけじゃ……」
「止まった」
ねむの声は低かった。
「聞こえたからでしょ。あれが“自分の名前を返して”って言ったから」
ましろは黙った。
ねむは見ていたのだ。
あの瞬間、ましろの手が止まったことを。
「怒ってる?」
「怒ってる」
即答だった。
「ましろに」
「うん」
「院長先生にも」
「……うん」
「その杖の中のちっちゃい子にも」
宝石の中でレムが眉を上げた。
「ちっちゃい子とは私のこと?」
「他にいる?」
「口の悪さは高評価ね」
「評価いらない」
ねむは杖を睨んだ。
「あなた、昨日ましろに戦わせた」
「戦わなければ全員の名前が奪われていた」
「それでも、ましろは何も知らなかった」
「知らなくても選んだのは本人よ」
「そういう言い方、嫌い」
部屋の空気が硬くなる。
ましろは慌てて口を挟んだ。
「ねむ、レムは助けてくれたんだよ」
「それは分かってる」
ねむは唇を噛んだ。
「分かってるから、余計に腹立つの」
その声は、怒りよりも怖さに近かった。
「昨日、ましろが消えるかと思った」
ましろは言葉を失った。
ねむは視線を落とす。
「夢で見たのと同じだった。宝石が光って、黒い星屑が出て、ましろが違う名前で呼ばれそうになって」
「思い出したの?」
「全部じゃない。でも、少しだけ」
ねむはこめかみを押さえた。
「大事なところはまだ抜けてる。いつもそう。肝心なところだけ夢から持って帰れない」
「ねむ……」
「でも、これだけは覚えてる」
ねむはましろを見る。
「ましろが、自分じゃないものになりかけてた」
胸元の宝石が、かすかに震えた。
レムも黙る。
朝の光が、床の上に白く伸びている。
こんなに明るいのに、ましろにはまだ、昨夜の黒い星屑が部屋の隅に残っているように思えた。
しばらくして、廊下から静かな足音が近づいてきた。
今度は、星守澄だった。
「入ってもよろしいですか」
「院長先生」
澄はいつもの院長服に着替えていた。
白と淡い灰色の落ち着いた服。
胸元には小さな星のブローチ。
手には古い本を抱えている。
けれど、目の下には疲れの色が濃かった。
「ましろ、体はどうですか」
「大丈夫です」
ねむが横から言った。
「大丈夫かどうかは本人に任せない方がいいです」
澄は少しだけ苦笑した。
「そうですね。あなたがそばにいてくれて助かります、ねむ」
「褒めてもごまかされません」
「ええ。分かっています」
澄は椅子へ腰かけた。
その視線が、ましろの膝の上の杖へ向く。
正確には、杖の宝石に浮かぶレムへ。
「レム・ステラ」
「その呼び方をされるのは、ずいぶん久しぶりね」
レムの声には、いつもの皮肉が混じっていた。
けれど奥に、かすかな警戒がある。
澄は目を伏せた。
「あなたが目覚めたということは、封印が綻び始めたのですね」
「最初から完璧な封印ではなかったわ」
「ええ」
澄は小さく頷いた。
「それでも、十六年は持ちました」
「持たせた、の間違いでしょう」
レムの声が少し鋭くなる。
「ずっと隠してきたのね。ましろ本人にさえ」
澄は否定しなかった。
「はい」
「どうして?」
ましろは思わず聞いた。
声が、思ったより小さかった。
「どうして、私に教えてくれなかったんですか」
澄はましろを見た。
その瞳は優しかった。
けれど、その優しさの奥に、何年も沈めてきた痛みがあった。
「あなたに、普通の子として生きてほしかったからです」
「普通……」
「朝起きて、食事をして、友達と話して、子どもたちに囲まれて、名前を呼ばれて笑う。そんな日々を、できるだけ長く」
澄の声は静かだった。
「あなたは、生まれた時から大きすぎるものを背負っていました。名前。星の魔法。星骸。封印。どれも、幼いあなたが知るには重すぎた」
「でも、昨日知りました」
ましろは言った。
「何も知らないまま、襲われました」
澄の手が、膝の上で強く握られる。
「……はい」
「私だけじゃありません。悠太くんも、みんなも危なかった」
「はい」
「これからも星骸は来るんですか?」
澄は黙った。
それが答えだった。
ねむが低く言う。
「来るんですね」
澄は目を閉じた。
「昨夜の星骸は、まだ小さな欠片に近いものでした。本来なら、星見坂の結界を越えるほどの力はありません」
「でも越えた」
レムが言う。
「ましろの宝石が反応したから」
ましろは胸元を押さえた。
「私が、呼んだってこと?」
「あなたが呼んだのではありません」
澄がすぐに言った。
「星骸が、あなたの中の名前に引き寄せられたのです」
「名前に……」
レムが続ける。
「星骸は、失われた名前や記憶、押し込められた感情に群がる。特に名喰い系の星骸は、本当の名前に強く反応する」
「昨日のあれも?」
「ええ。下位の名喰いね。まだ不完全だった。だから浄化できた」
「不完全じゃないのが来たら?」
ねむが聞いた。
レムは、少しだけ黙った。
「今のましろでは危ない」
ましろは杖を見下ろした。
昨日、あれだけ必死に戦った。
それでも、不完全な相手だった。
手のひらに、冷たい汗がにじむ。
澄が静かに口を開いた。
「星骸は、ただの怪物ではありません」
その言葉に、ましろは昨夜の声を思い出す。
――わたしの、名前。
「失われたものが、星の魔力に歪められた姿です。名前を奪われたもの。記憶を失ったもの。怒りを押し込めたもの。夢を壊されたもの。壊れた約束や、戻れなくなった祈り」
澄は、言葉をひとつずつ置いた。
「それらが形を持ったものを、私たちは星骸と呼びます」
「倒すんじゃなくて、浄化するってレムが言ってました」
「ええ。完全に消すのではありません。歪んだものを、星へ返すのです」
「星へ……」
ましろは窓の外を見る。
朝の空に、星は見えない。
けれど昨夜、浄化された星骸から小さな青い星が昇っていった。
あれは、消えたのだろうか。
それとも、帰ったのだろうか。
そう思うと、胸が少し痛んだ。
ねむが腕を組む。
「それで、ましろはこれからどうなるんですか」
澄は答えに詰まった。
代わりにレムが言う。
「星骸はまた来る。ましろの本当の名前が封じられている限り」
「封じられているから来るの?」
「封じられているから、まだ保っている。でも封印があるからこそ、そこに強い名前があると分かる」
ねむは露骨に嫌そうな顔をした。
「最悪」
「同感ね」
レムがあっさり頷く。
ましろは少し笑いそうになった。
でも、すぐに表情を引き締める。
「私は、どうすればいいですか」
部屋の全員が、ましろを見た。
ましろは杖を握る。
「怖いです。何も分からないし、自分の名前のことも、星骸のことも、正直、怖いです」
声は震えていた。
でも、逃げたくはなかった。
「でも、昨日みたいに誰かの名前が消えそうになるなら、私は止めたい」
ねむが何か言いかける。
ましろは先に続けた。
「自分を後回しにしたいわけじゃないよ」
ねむの言葉を思い出しながら、ゆっくりと言う。
「でも、私が守れるかもしれないなら、知りたい。戦い方も、この杖のことも、星骸のことも」
胸元に手を当てる。
「本当の名前のことも」
レムの表情が少し険しくなった。
「それは急がない方がいい」
「急がない。でも、逃げたくない」
ましろはレムを見る。
「私は、久遠ましろでいたい。でも、知らないまま怖がるだけなのも嫌」
澄が息を呑んだ。
ねむは黙ってましろを見ている。
ましろは続けた。
「だから、教えてください。全部じゃなくていい。今の私が知っても壊れないところからでいい」
レムはしばらく、ましろを見つめていた。
それから、小さく息を吐く。
「……自己評価は低いくせに、変なところで頑固ね」
「よく言われる」
「でしょうね」
レムは宝石の中で腕を組んだ。
「いいわ。まずは基礎から。星律の杖、あなたの魔法、星骸への対処。名前については制限つき」
「制限?」
「本当の名前そのものには近づかない。関連する記録にも無闇に触れない。夢で聞いた名前を復唱しない。星骸に呼ばれても答えない」
「分かった」
「あと、無茶をしない」
ねむが割り込んだ。
「それ一番大事」
レムが頷く。
「同意ね。あなたは自分の命を消耗品か何かだと思っている節がある」
「そんなことないよ」
「昨日、武器なしで星骸に走っていった人の台詞とは思えない」
「う」
「減点対象」
「また減点……」
ねむはため息をついた。
「私も関わる」
ましろは目を瞬いた。
「ねむ?」
「当たり前でしょ。ましろ一人に任せたら、三日で倒れる」
「三日は早くない?」
「早い方がいい? 一日?」
「悪化した」
ねむは真顔だった。
「私は夢を見る。たぶん、これからも見る。気持ち悪い夢でも、役に立つなら使う」
「でも、ねむも危ないかもしれない」
「それをましろが言う?」
ましろは何も言えなくなった。
レムがねむを見る。
「棘咲ねむ。あなたの夢見は不完全だけど、有用よ」
「不完全って言い方」
「事実だから」
「ほんと嫌な精霊」
「褒め言葉として受け取るわ」
澄は二人のやり取りを見て、ほんの少しだけ表情を和らげた。
けれどすぐに、ましろへ向き直る。
「ましろ」
「はい」
「私は、あなたを守るために黙ってきました」
澄は深く頭を下げた。
ましろは慌てる。
「院長先生、やめてください」
「いいえ。あなたに謝らなければなりません」
澄の声は静かだった。
「昨日、あなたは自分の意思で戦いました。ならば私は、あなたをただ守られる子どもとして扱い続けることはできません」
「院長先生……」
「けれど、今すぐ全てを話すこともできません」
ねむが眉をひそめる。
「またですか」
「はい」
澄はねむの視線を受け止めた。
「これは逃げではありません。話せば危険が増すことがあるのです。名前に関わる情報は、知るだけで星骸を呼ぶことがある」
部屋の空気が冷える。
「言葉が鍵になるんです」
澄は言った。
「名前は、ただの音ではありません。この世界では時に、扉を開ける鍵になります。だから私は、話す順番を間違えるわけにはいかない」
ましろは、第0話の夜を知らない。
けれど、院長がずっと何かを抱えてきたことだけは分かった。
「じゃあ、今話せることだけ教えてください」
ましろは言った。
「私が昨日使った力。星律の杖。レムのこと。星見坂孤児院の結界。それだけでも」
澄は静かに頷いた。
「分かりました」
その時、廊下の向こうから小さな足音がした。
扉が少しだけ開く。
「ましろお姉ちゃん……?」
顔を覗かせたのは、悠太だった。
手には、いつものスケッチブック。
「悠太くん」
ましろが名前を呼ぶと、悠太はほっとしたように笑った。
「起きてた」
「うん。どうしたの?」
「これ、見てほしくて」
悠太は少し遠慮がちに部屋へ入ってきた。
ねむが扉の方へ行き、廊下に他の子がいないことを確認してから閉める。
「悠太くん、昨日のこと覚えてる?」
ましろが聞くと、悠太は首を傾げた。
「昨日?」
「夜、怖いことなかった?」
「……うーん」
悠太は考え込む。
小さな眉が寄った。
「黒い星、見た気がする」
澄の表情がわずかに変わった。
「黒い星?」
「うん。でも、夢かも」
悠太はスケッチブックを開いた。
「朝起きたら、これ描いてあったの」
ページには、星見坂孤児院が描かれていた。
子どもらしい線。
大きな家。
窓。
星。
庭。
その前に、白と金の服を着た女の子が立っている。
手には杖。
胸元には青い丸。
ましろは息を呑んだ。
「これ……」
「ましろお姉ちゃん」
悠太は当たり前のように言った。
「昨日の夢のましろお姉ちゃん、きらきらしてた」
ねむが小さくつぶやく。
「忘れてない……?」
澄が悠太のノートを覗き込む。
その表情が、さらに硬くなった。
ページの端には、七つの星が描かれている。
そのうち一つだけ、青く塗られていた。
そしてもう一つ。
ましろの絵のそばに、小さな女の子が描かれていた。
淡い色の髪。
杖の中から顔を出しているような小さな姿。
悠太はその絵を指さした。
「この子、だれ?」
レムが黙った。
ましろも言葉が出ない。
悠太は不思議そうに続ける。
「夢で、ましろお姉ちゃんに怒ってた」
「怒ってないわ。指導よ」
レムが即答した。
悠太は目を丸くする。
「しゃべった!」
ましろは慌てた。
「悠太くん、これは、その」
「妖精さん?」
「……だいたいそんな感じ」
「違うわ。精霊に近い高位補助存在よ」
「レム、それ七歳には難しい」
悠太は宝石の中のレムをじっと見つめた。
それから、にこっと笑う。
「レムちゃん?」
「ちゃん付けは不要」
「じゃあ、レムお姉ちゃん?」
レムが固まった。
ねむが横を向いて、少しだけ笑いをこらえている。
ましろも思わず口元が緩んだ。
レムは宝石の中で腕を組み直す。
「……呼称の件は保留」
「ほりゅう?」
「あとで考えるって意味」
「うん!」
悠太は満足そうに頷いた。
その無邪気さに、部屋の緊張が少しほどける。
けれど澄だけは、悠太のノートから目を離せなかった。
「悠太」
澄が優しく声をかける。
「この星は、いつも描いていますね」
「うん」
「どうして七つなのですか?」
悠太はきょとんとした。
「だって、七つあるから」
ましろは窓の外を見た。
昼の空に星は見えない。
けれど、なぜかその言葉が胸の奥に残った。
七つあるから。
澄は静かにノートを閉じた。
「ありがとう、悠太。これは大切に持っていてください」
「うん。わすれないノートだから」
悠太は胸を張る。
「忘れないように、みんなの名前書いてるんだ」
そして、ましろを見上げた。
「ましろお姉ちゃんの名前も、ちゃんとあるよ」
ましろの胸が、きゅっと締めつけられる。
「ありがとう、悠太くん」
「名前があれば、帰ってこられるんだよ」
悠太は、昨日と同じ言葉を言った。
その瞬間、誰もすぐには喋らなかった。
子どもの何気ない言葉。
けれどそれは、この部屋にいる誰よりも、ましろの核心を突いているように聞こえた。
しばらくして、澄が悠太を部屋の外へ送った。
「朝食の片付けを手伝ってくれますか」
「うん!」
悠太は元気よく頷き、スケッチブックを抱えて廊下へ出ていった。
扉が閉まる。
部屋には、再び静けさが戻った。
ねむが最初に口を開く。
「悠太のノート、普通じゃないですよね」
澄は否定しなかった。
「星骸に触れた記憶が、完全にはぼかされていません」
「危ないんですか?」
ましろが尋ねると、澄は少し考えてから答えた。
「危うさもあります。けれど、守りにもなるかもしれません」
「守り?」
レムが言う。
「記録よ」
「記録?」
「名前や記憶を奪う相手に対して、記録は小さな抵抗になる。特に、本人の感情が強く結びついた記録はね」
「悠太くんのノートが……」
「あなたにとって、いつか重要になるかもしれない」
レムはそう言って、すぐに視線を逸らした。
ましろは何かを聞きかけた。
けれど、今は聞かない方がいい気がした。
その代わり、杖を両手で握る。
「決めました」
ねむが少し身構える。
「何を?」
「私は、魔法を覚えます」
ましろは言った。
「星骸がまた来るなら、孤児院のみんなを守りたい。名前を奪われるのを止めたい。悠太くんのノートも、ねむの夢も、院長先生が守ってきたものも、ちゃんと守れるようになりたい」
澄は目を細める。
「ましろ」
「もちろん、無茶はしません」
ねむが疑うような目をする。
「本当に?」
「……努力します」
「そこは言い切って」
「言い切れるように努力します」
「弱い」
レムが言う。
「まあ、最初にしては妥当ね。自分の危うさを理解しない決意ほど厄介なものはないから」
「レム、褒めてる?」
「微妙に」
「微妙……」
澄は静かに立ち上がった。
「では、今日の午後、孤児院の古い礼拝室へ来なさい」
「礼拝室?」
「今は使っていない部屋です。星見坂の結界の中心のひとつでもあります」
ましろは初めて聞く場所だった。
「そんな部屋、ありましたっけ」
「普段は閉じています」
澄は胸元の鍵束に触れた。
「昨日のことがあった以上、もう閉じたままにはしておけません」
レムが小さく言う。
「ようやく開ける気になったのね」
澄は答えない。
ましろは、その沈黙にまた秘密の重さを感じた。
でも、今は少しだけ違う。
何も知らずに待つだけではない。
自分から、扉の前に立とうとしている。
午後。
星見坂孤児院の奥。
普段は子どもたちが近づかない古い廊下の先に、その部屋はあった。
白い扉。
真鍮の古い取っ手。
扉の上には、小さな星の紋章が刻まれている。
澄が鍵束から一本の古い鍵を選んだ。
鍵を差し込むと、扉の奥で何かが静かにほどける音がした。
かちり、という金属音ではなかった。
長い間息を止めていた部屋が、ようやく呼吸をしたような音だった。
扉が開く。
中は、小さな礼拝室だった。
高い窓から午後の光が差し込んでいる。
壁には星の模様。
床には円形の魔法陣。
中央には、古びた祭壇のような台がある。
その上に、白い布がかけられていた。
ましろは部屋に一歩入った瞬間、胸元の宝石が温かくなるのを感じた。
杖の宝石も、同時に光る。
レムの声がした。
「ここ、まだ残っていたのね」
「知ってる場所なの?」
ましろが聞くと、レムは少しだけ黙った。
「ええ」
その声には、いつもの皮肉がなかった。
澄は祭壇の前に立ち、白い布に手をかける。
「ましろ」
「はい」
「ここから先、あなたが知ることは、もう完全には戻せません」
その言葉に、ましろは息を呑む。
ねむが隣に立った。
「一人で聞かせないでください」
澄はねむを見る。
「もちろんです」
レムも杖の中で言う。
「私もいる。残念ながらね」
「残念なの?」
「あなたは手がかかるから」
ましろは小さく笑った。
怖さは消えない。
でも、一人ではない。
それだけで、足は前へ進める。
澄が白い布を取り払った。
祭壇の上には、古い星図があった。
星座の線が描かれた羊皮紙。
その中心には、青い宝石に似た小さな星が描かれている。
そして、その星の周囲には、読めない文字が並んでいた。
ましろは、その文字を見た瞬間、胸元を押さえた。
頭の奥で、遠い鐘の音が鳴る。
読めない。
読めないはずなのに、意味が近づいてくる。
名前。
星。
封印。
帰還。
そして――
「見すぎないで」
レムの声が鋭く飛んだ。
ましろは、はっと目を逸らす。
息が荒くなっていた。
ねむが肩を支える。
「ましろ」
「大丈夫……ちょっと、変な感じがしただけ」
「それ、大丈夫じゃないやつ」
澄が星図を半分隠すように手を置いた。
「これが、あなたを守ってきた封印の一部です」
「私を……」
「そして、星見坂孤児院が結界である証です」
ましろは礼拝室を見回した。
自分が育った場所。
朝ごはんを食べ、洗濯物を干し、子どもたちと笑い、ねむと話した場所。
その場所が、自分を守るための結界だった。
家であり、封印でもあった。
その事実が、静かに胸へ沈んでいく。
「私は、ずっと守られていたんですね」
澄は頷いた。
「ええ」
「でも、それだけじゃもう足りない」
レムが言った。
「星骸は結界のほころびを見つけた。昨夜の下位個体は浄化したけど、次はもっと強いものが来る可能性がある」
「だから、練習する」
ましろは杖を握った。
「私が守れるように」
澄は少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「本当は、あなたに戦ってほしくありません」
「私も、戦いたいわけじゃありません」
ましろは答えた。
「でも、守りたいです」
その言葉は、自分でも驚くほどまっすぐだった。
レムが小さく頷く。
「では、最初の訓練を始めるわ」
「今から?」
「星骸は予定表を見て来てくれないもの」
「それはそうだけど」
「まずは杖を構えて。昨日みたいに勢いで光を出すんじゃなく、流れを感じる」
ましろは言われた通り、杖を両手で持つ。
胸元の宝石から、細い光の糸が杖へ流れていくような感覚があった。
「その光を、鐘の音みたいに広げる。壊すんじゃなく、届かせる」
「届かせる……」
ましろは目を閉じる。
孤児院の門の鐘。
朝の食堂。
ねむの声。
悠太のノート。
院長先生の手。
みんながここにいるという感覚。
その全部を、光に乗せる。
杖の先端が淡く光った。
小さな鐘の音が鳴る。
りん。
昨日よりもずっと小さい。
でも、確かに鳴った。
礼拝室の床の魔法陣が、ほんの少しだけ応えるように光る。
ねむが息を呑んだ。
澄の瞳が潤む。
レムはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「七十二点」
ましろは目を開ける。
「上がった」
「昨日よりはまし」
「そこは素直に褒めてほしい」
「調子に乗ると減点」
「厳しい……」
それでも、ましろは笑った。
久しぶりに、心から少しだけ笑えた気がした。
その時だった。
礼拝室の奥。
壁に掛けられていた古い鏡が、かすかに揺れた。
誰も触れていない。
窓も閉まっている。
鏡面に、白い光が一瞬だけ走る。
ましろは振り向いた。
「今、何か……」
鏡の中に、誰かが映った気がした。
白い髪。
長い衣装。
ましろに似た横顔。
けれど次の瞬間には、もう何も映っていなかった。
「どうしたの?」
ねむが聞く。
ましろは鏡を見つめたまま、首を振る。
「ううん。気のせいかも」
レムの表情だけが、わずかに強張っていた。
澄もまた、同じ鏡を見つめている。
二人の沈黙が、ましろの胸に小さな不安を残した。
礼拝室の外では、子どもたちの笑い声が遠く聞こえる。
いつもの日常。
けれどもう、昨日までと同じではない。
ましろは杖を握り直した。
本当の名前は、まだ分からない。
星骸のことも、封印のことも、レムのことも、院長先生の過去も。
分からないことばかりだ。
それでも、ひとつだけ決めた。
知らないからといって、目を逸らさない。
怖いからといって、誰かの名前が消えるのを見ているだけにはならない。
私は、久遠ましろ。
本当の名前を知らなくても、今はまだ、そう呼んでくれる人たちがいる。
なら、その名前で立っていよう。
守りたいものの前に。
その夜、ましろは自分のノートの一番上に、ゆっくりと名前を書いた。
久遠ましろ。
昨日よりも、少しだけ震えない文字だった。
けれど、そのページの端に置いた杖の宝石が、淡く光る。
そして誰にも聞こえないほど小さく、レムが呟いた。
「……まだ、間に合う」
その言葉の意味を、ましろは知らない。
ただ窓の外で、夜空の星がひとつ、静かに瞬いていた。




