第2話 名前を喰らう星
――名前を、返して。
声がした。
耳で聞いたのではない。
胸の奥。
青い宝石の、もっと内側。
そこに直接、冷たい指を差し込まれたような声だった。
ましろは息を止めた。
門の外で、黒いものが渦を巻いている。
星屑に見えた。
けれど、星にしては暗すぎる。
その真ん中に、白い仮面が浮かんでいた。
割れている。
笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「……何、あれ」
ねむの声は小さかった。
いつもなら、そのあとに皮肉のひとつでも続く。
けれど、何も続かなかった。
ましろはそこで初めて、ねむも怖がっているのだと気づいた。
胸元が熱い。
服の下で、青い宝石が脈打っている。
心臓とは別の鼓動。
自分のものではないはずなのに、ずっと前からそこにあったような鼓動。
――返して。
今度は、もっと近かった。
――その名前は、わたしのもの。
「ましろ」
ねむが腕を掴んだ。
強い力だった。
「下がって。あれ、普通じゃない」
「でも」
ましろは門の方を見た。
いた。
門のすぐ内側に、小さな背中。
七瀬悠太だった。
星柄のブランケットを引きずって、胸にはいつものスケッチブックを抱えている。
表紙の「わすれないノート」という文字だけが、夜の中で妙にはっきり見えた。
悠太は動かない。
黒い星屑を、ただ見上げている。
ましろの足は、もう走り出していた。
「ましろ!」
ねむの声が背中に刺さる。
でも、止まれなかった。
怖くないわけがない。
喉の奥はからからで、指先は冷えている。
それでも、悠太がそこにいる。
それだけで、考える順番が変わってしまう。
階段を駆け下りる。
廊下の壁が、低く軋んだ。
窓ガラスが細かく震えている。
古い孤児院そのものが、眠りの中で怯えているみたいだった。
部屋のあちこちから声がする。
「何の音?」
「ましろお姉ちゃん?」
「怖いよ……」
ましろは振り返らなかった。
玄関の扉を開けると、冷たい風が吹き込んだ。
夜の庭は、もう昼間の庭ではなかった。
芝生には黒い星屑が降っている。
花壇の花は、風もないのに震えていた。
門に刻まれていた古い傷が、淡い青で光っている。
その前に、悠太が立っていた。
「悠太くん!」
ましろが叫ぶと、悠太はようやく振り向いた。
「ましろ、お姉ちゃん……」
泣く直前の声だった。
ましろは駆け寄って、悠太を抱きしめるように引き寄せた。
その一瞬後。
門の隙間から、黒い腕が伸びた。
細い。
長い。
人の腕に似ているのに、指だけが影のようにほどけている。
ましろは反射的に、悠太を背中にかばった。
冷たいものが、背中をかすめる。
痛みはなかった。
その代わりに、何かを剥がされた。
紙を一枚めくられるような感覚。
ましろ、という名前の表面を、爪の先で薄く削られたような。
「お姉ちゃん?」
悠太が震える声で呼んだ。
その声に、ましろは息を取り戻した。
「大丈夫。中に戻ろう」
笑おうとした。
うまくできたかは分からない。
悠太を抱き上げた、その背後で。
白い仮面が、また囁いた。
――くおん。
足が止まった。
いつも呼ばれている名前。
けれどその声で呼ばれた瞬間、ましろは自分の名前が自分から少し離れるのを感じた。
――ましろ。
名前が薄くなる。
紙のように。
霧のように。
その下に、別の音がある。
知らないはずの音。
けれど、身体のどこかが覚えている音。
深くて、遠くて、触れたら戻れなくなりそうな名前。
胸元の宝石が、痛いほど光った。
「ましろ!」
ねむが玄関から飛び出してきた。
手には古いランタンを握っている。
ただのランタンだ。
魔法の道具でも、武器でもない。
それでも、ねむは両手で強く握っていた。
「悠太、こっち!」
ましろは悠太をねむに預けようとした。
その時だった。
仮面の怪物が、門を越えた。
いや、越えたというより、すり抜けた。
何か透明な膜が破れるように、空気が震えた。
地面に、青い線が浮かび上がる。
星座のように繋がった光の線。
けれど、その端から黒く染まっていく。
「結界が……」
低い声がした。
玄関に、星守澄が立っていた。
いつもの院長先生とは違っていた。
白い寝間着にショールを羽織り、片手には古びた本。
もう片方の手には、鍵束と星型の護符。
その顔に、穏やかな笑みはなかった。
「院長先生!」
ましろが呼ぶと、澄は短く言った。
「子どもたちを中へ」
「でも、あれは――」
「星骸です」
夜の庭に、その言葉だけが残った。
星骸。
聞いたことのない言葉のはずだった。
それなのに、胸元の宝石が反応した。
まるで、その名前を知っていたみたいに。
澄は護符を掲げた。
「星見坂の結界よ、子らを守りなさい」
淡い青白い光が、孤児院の壁を走った。
窓枠。
屋根。
門。
地面。
建物の中に眠っていた星の線が、夜の中で一斉に目を覚ます。
けれど、弱い。
黒い星屑が触れるたび、光の線にひびが入っていく。
星骸が首を傾けた。
仮面の奥で、青白い光が細くなる。
――名前を。
庭に置かれていた小さな木の札が、ふわりと浮いた。
食堂の席札。
靴箱の名札。
洗濯物に縫い付けられた小さな布。
そこに書かれた文字が、端から剥がれていく。
「あ……」
悠太が、ねむの腕の中で小さく声を漏らした。
抱えていたスケッチブックの表紙。
「わすれないノート」の文字が、かすかに揺れている。
その瞬間、ましろの中で何かが切れた。
「だめ……!」
声が出た。
名前が消える。
子どもたちの名前が。
それがどれほど恐ろしいことなのか、ましろはまだ言葉では知らない。
けれど、心だけが先に知っていた。
消してはいけない。
奪わせてはいけない。
絶対に。
ましろは悠太をねむに押しつけた。
「お願い!」
「ましろ、何する気!」
「止める!」
「止められるわけないでしょ!」
「でも、止めなきゃ!」
ましろは星骸へ向かって走った。
武器なんてない。
戦い方も知らない。
魔法なんて、あると思ったことすらない。
けれど、名前が剥がれていくのを見ているだけなんてできなかった。
「返して!」
ましろは叫んだ。
「その名前は、その子たちのものだよ!」
星骸がこちらを向く。
顔のない仮面。
そこに、表情はない。
けれど笑った気がした。
――なら。
黒い星屑が、ましろの足元に集まる。
――おまえの名前を。
影の腕が伸びた。
「ましろ!」
ねむの叫び。
「いけません!」
澄の声。
どちらも、届く前に遅かった。
黒い指が、ましろの胸元へ伸びる。
青い宝石に触れた。
世界が止まった。
音が消えた。
夜風も。
子どもたちの泣き声も。
ねむの叫びも。
全部、遠くなる。
ましろの中で、何かが開いていく。
白い部屋。
知らない声。
泣いている誰か。
砕ける星。
青い宝石。
そして、遠くから呼ばれる名前。
それは、ましろではなかった。
違う。
違う名前。
聞いてはいけない。
思い出してはいけない。
なのに、唇が勝手に動きそうになる。
その時。
小さな声がした。
――だめ。
ましろは目を見開いた。
声は、胸の中から聞こえた。
青い宝石の奥。
ずっと眠っていた誰かが、ましろの手を掴むように言った。
――それ以上、近づかないで。
光が溢れた。
青白い光が、ましろの胸元から庭いっぱいに広がる。
星骸の腕が弾かれた。
黒い星屑が、一瞬だけ白く照らされる。
ましろの目の前に、一本の杖が現れた。
白と金を基調にした細い杖。
先端には青い宝石。
その周囲に、星の輪がゆっくりと浮かんでいる。
ましろは息を呑んだ。
「……杖?」
――手に取って。
また声がした。
今度ははっきり聞こえた。
少女の声だった。
幼さを少し残しているのに、妙に冷静で、どこか呆れている。
――死にたいなら止めないけど、今ここで倒れるのはかなり迷惑。
「え?」
――聞き返す余裕があるなら持てるでしょ。早く。
ましろは戸惑いながらも、手を伸ばした。
指先が杖に触れる。
光が弾けた。
胸元の宝石と、杖の宝石が同時に輝く。
足元に青白い魔法陣が広がった。
その外側を、金色の星の線が走る。
風が巻き上がる。
髪がほどけるように揺れた。
「ましろ……?」
遠くで、ねむの声がした。
ましろは光に包まれていた。
怖くはなかった。
むしろ、ずっと忘れていた服に袖を通すみたいな感覚だった。
白い光が腕を包む。
金の線が衣装を描く。
胸元の宝石から伸びた光のリボンが、ましろの周りを巡る。
足元から星の粒が舞い上がり、スカートの裾を形づくった。
長い髪がふわりとほどけ、桜色のツインテールが夜の中で輝く。
気づけば、ましろは杖を胸の前に構えていた。
知らないはずの姿勢。
それなのに、身体は覚えている。
光が収まった時、庭に立っていたのは、いつもの孤児院の少女ではなかった。
白と金の衣装。
青い宝石。
星の杖。
光の魔法少女。
ねむが呆然と呟く。
「……何それ」
ましろも同じことを聞きたかった。
けれど答える前に、杖の先端の宝石が淡く光った。
その中に、小さな少女の姿が浮かび上がる。
淡い銀桃色の髪。
青い瞳。
白と水色の、精霊のような衣装。
少女は腕を組み、ましろを見上げた。
「やっと起きた。遅い」
「あなたは……?」
「レム・ステラ」
少女は短く名乗った。
「あなたの杖に宿る相棒。説明はあと。今は前」
星骸が動いた。
仮面の奥の光が強くなる。
散らばっていた黒い星屑が、また名札へ伸びていく。
ましろは杖を握り直した。
「どうすればいいの?」
「守りたいんでしょ」
レムは当然のように言った。
「なら、杖を前に。光を通す。難しく考えないで。あなたは元々、そういうふうにできてる」
「そういうふうにって……」
「質問が多い。戦闘中は減点対象」
「減点?」
「今のところ三十二点」
「低い……!」
「集中」
ましろは息を吸った。
目の前には星骸。
背後には孤児院。
ねむ。
院長先生。
悠太。
子どもたち。
名前を奪われそうになっている、大切な人たち。
ましろは杖を前へ向けた。
「返して」
声は震えた。
でも、逃げなかった。
「みんなの名前を、返して!」
杖の先端に光が集まる。
青白い光。
金色の粒子。
小さな星々が、輪になって回り始める。
レムが言う。
「ルミナス・ベル。基本浄化。鐘を鳴らすイメージで」
「鐘……」
ましろは目を閉じた。
孤児院の門にある小さな鐘。
朝を告げる音。
夕食を知らせる音。
誰かが帰ってきた時に揺れる音。
みんながここにいると知らせる音。
杖の光が広がった。
りん、と。
澄んだ鐘の音が、夜の庭に響いた。
たった一音。
けれどその音は、黒い星屑を震わせた。
星骸の身体が大きく揺らぐ。
名札から剥がれかけていた文字が、光に包まれ、元の場所へ戻っていく。
「効いてる……!」
ねむの声がした。
ましろはもう一度、杖を振った。
光の波が庭を走る。
黒い星屑が弾け、白い仮面にひびが入る。
星骸が、苦しむように身をよじった。
――返して。
声が弱くなっている。
――わたしの、名前。
ましろの手が止まった。
わたしの?
その言葉は、針みたいに胸へ刺さった。
この怪物は、本当にただの敵なのだろうか。
奪おうとしている。
けれど同時に、失くしたものを探しているようにも聞こえた。
「ましろ、止まらないで」
レムの声が鋭くなる。
「それは星骸。近づきすぎると引き込まれる」
「でも、今……」
「同情は後。今あなたが守るべきなのは、後ろにいる子たち」
その言葉で、ましろは背後を思い出した。
泣いている子どもたち。
震えているねむ。
結界を支える院長先生。
ノートを抱きしめた悠太。
そうだ。
今は、守る。
ましろは杖を両手で握った。
「スターライト・ヴェール!」
名前は、勝手に口から出た。
けれど杖は応えた。
金色の星の結界が、孤児院の前に広がる。
薄いヴェールのような光が、子どもたちと建物を包み込んだ。
星骸の伸ばした影の腕が、結界に触れて弾かれる。
レムが小さく頷いた。
「悪くない。六十八点」
「まだ低いんだ……」
「伸びしろがあるという意味」
ましろは、こんな時なのに少し笑いそうになった。
怖い。
分からないことだらけだ。
でも、なぜか少しだけ心強い。
星骸が最後の力を振り絞るように、仮面を大きく開いた。
声が響く。
――その名を、思い出せ。
空気が凍った。
胸元の宝石が、強く、強く光る。
頭の中に、また音が流れ込んできた。
遠い名前。
封じられた名前。
口にしたら、何かが終わってしまう名前。
ましろの唇が、無意識に動きかける。
その時。
「ましろ!」
レムが叫んだ。
杖の宝石から光が弾ける。
小さな手が、ましろの意識を引き戻すみたいだった。
「思い出してはいけない!」
ましろは息を呑んだ。
「あなたの本当の名前だけは!」
本当の名前。
やっぱり、あるのだ。
自分には、久遠ましろではない名前が。
けれど今、それに触れてはいけない。
ましろは目を閉じた。
かわりに、別の名前を呼んだ。
悠太。
ねむ。
院長先生。
孤児院のみんな。
自分ではない、大切な人たちの名前を。
その名前が、ましろを繋ぎ止めた。
杖の光が、今までで一番強くなる。
「ルミナス・ベル!」
鐘の音が響いた。
今度は一音ではない。
いくつもの光の鐘が、星空の下で鳴った。
星骸の仮面に、大きなひびが入る。
黒い星屑がほどけ、胸の星型の核が露わになった。
ましろは杖をそっと前に差し出した。
攻撃ではなく、祈るように。
「あなたの名前は、分からない」
声は震えていた。
「でも、誰かのものを奪わなくてもいいように、ちゃんと……光に返すから」
青白い光が、核に触れた。
仮面が砕ける。
その奥に、一瞬だけ、小さな影が見えた気がした。
泣いている子どものようにも、
遠い昔のましろ自身のようにも見えた。
黒い星屑が、白い光へ変わっていく。
最後に、小さな青い星がひとつ、夜空へ昇った。
庭に静けさが戻る。
名札の文字は消えていない。
孤児院の結界の光も、ゆっくりと薄れていく。
ましろは杖を下ろした。
途端に、膝から力が抜けた。
「ましろ!」
ねむが駆け寄ってくる。
ましろはその場に座り込んだ。
変身の光がほどけ、衣装はいつもの服へ戻っていく。
白と金の杖だけが、まだ手の中に残っていた。
レムの姿は、杖の宝石の中に小さく浮かんでいる。
ねむはましろの肩を掴んだ。
「何、今の。何なの。説明して。いや、説明できない顔してるけど説明して」
「私も、分からない……」
「分からないで魔法少女になる人いる?」
「たぶん、ここに……」
「冗談言ってる場合じゃない」
ねむの声は怒っていた。
でも、その目は泣きそうだった。
ましろは笑おうとして、うまくできなかった。
「ごめん」
「謝るの禁止。今それ一番腹立つ」
そう言って、ねむはましろを抱きしめた。
少し乱暴で、温かかった。
玄関の方から、澄が歩いてくる。
顔色は悪い。
けれど、驚いてはいなかった。
ましろはそれを見て、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
院長先生は知っていた。
少なくとも、何かを知っていた。
「院長先生」
ましろは杖を握ったまま尋ねた。
「これは、何なんですか」
澄はすぐには答えなかった。
視線はましろではなく、杖の宝石へ向いていた。
その中のレムを見て、わずかに息を呑む。
「……レム・ステラ」
澄がその名を呟いた。
レムの青い瞳が細くなる。
「久しぶり、と言うべきかしら。星守澄」
ましろは、二人を交互に見た。
「知り合い、なの?」
レムは答えない。
澄も答えない。
夜の庭に、言葉にできない沈黙が落ちる。
やがて澄は、ひどく疲れた声で言った。
「ましろ。今夜のことは、子どもたちには覚えさせない方がいい」
「覚えさせない……?」
「星骸に触れた記憶は、傷になります」
ましろは首を振った。
「でも、私には説明してください」
声が震えた。
「私、今、自分が何なのか……何も分からないんです」
澄は目を伏せた。
その表情を見た瞬間、ましろは分かってしまった。
この人はまた、言えないのだ。
守るために。
隠すために。
けれど、今度はレムが口を開いた。
「簡単に言うわ」
杖の中の小さな少女は、ましろをまっすぐ見た。
「あなたは魔法少女。星律の杖の持ち主。そして、星骸が狙う“名前”の器」
「名前の……器?」
「そう」
レムの表情から、いつもの皮肉が消えた。
「あなたの胸の宝石には、本当の名前が封じられている」
ましろは胸元を押さえた。
さっきまで熱を持っていた宝石は、今は静かに沈黙している。
「私の、本当の名前……」
「でも、今は知ってはいけない」
レムは言った。
「思い出せば、あなたは力を得る。でも同時に、“久遠ましろ”としての記憶を失っていく」
ましろは息を止めた。
ねむも、澄も、何も言わなかった。
夜空に、小さな星がひとつ瞬く。
レムの声だけが、静かに続いた。
「だから覚えておきなさい、ましろ」
青い宝石の光が、彼女の横顔を照らす。
「あなたが探している本当の名前は、救いかもしれない」
そして、少しだけ声を低くした。
「でも同時に、あなた自身を消す鍵でもある」
ましろは何も答えられなかった。
ただ、さっき浄化された星骸の声が、まだ耳の奥に残っていた。
――名前を、返して。
その夜から、久遠ましろの日常は静かに終わりを告げた。
そして、名前を持たない魔法少女の物語が始まった。




