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第1話 久遠ましろは、名前を書くのが苦手

久遠ましろは、自分の名前を書くのが少し苦手だった。


文字を忘れるわけではない。


漢字が難しいわけでもない。


けれど紙の上に「久遠ましろ」と書こうとすると、胸の奥のどこかで、知らない誰かが小さく泣くような気がする。


その感覚を、ましろは誰にも上手く説明できなかった。


だからいつも、少しだけ笑ってごまかすことにしている。


星見坂孤児院の朝は、にぎやかだ。


食堂には焼きたてのパンの匂いが満ちている。


年下の子どもたちの声が壁に跳ね返り、白いテーブルクロスの上には、窓から差し込む朝の光が四角く落ちていた。


「ましろお姉ちゃん、ジャム取ってー!」


「こら、立たないの。座って食べようね」


ましろはそう言いながら、小さな子にパンを手渡した。


自分の皿に乗っていた分を半分に割って、何でもないことのように相手の皿へ移す。


隣では、まだうまくスプーンを持てない子に持ち方を教える。


少し離れた席では、寝ぐせのひどい男の子の髪を、片手で器用に整えている。


「ましろお姉ちゃんって、手がいっぱいあるみたい」


年少の女の子が感心したように言うと、食堂のあちこちから笑い声が起きた。


ましろも笑った。


「そんなにあったら、洗濯物たたむのが楽そうだね」


けれど、自分の席に戻るころには、ましろのパンはすっかり冷めていた。


その様子を、食堂の端の席からじっと見ている少女がいた。


黒髪のボブ。


眠たげに半分閉じた目。


机に頬杖をついたまま、いかにもだるそうな顔でこちらを見ている。


棘咲ねむだった。


「……また自分のぶん減らしたでしょ」


ぼそりとした声に、ましろは肩をすくめた。


「少しだけだよ」


「そういう“少し”を積み重ねて、人は勝手に倒れるの」


ねむはスプーンでスープをかき混ぜながら、不機嫌そうに言った。


「ましろ、自分が一人しかいないこと忘れてるでしょ」


「忘れてないよ」


「じゃあ、たまには自分を一番目にして」


ましろは苦笑する。


「ねむ、それ、朝からちょっと重い」


「朝だから言うの。夜だと私も面倒だし」


言い方はそっけない。


けれど、ましろはそれが心配から来ているのを知っていた。


ねむはいつもこうだ。


わざとやわらかくしない言い方で、こちらを気遣う。


だからましろは、少しだけ嬉しくなってしまう。


「ありがとう」


素直にそう言うと、ねむは露骨に顔をしかめた。


「……別に優しくしてるわけじゃない」


「うん、知ってる」


「分かってない顔してる」


「ねむのそういうところ、好きだよ」


「朝から面倒」


そう言いながらも、ねむは自分の皿のゆで卵を半分に割って、ましろの皿に載せた。


「はい、最低限のカロリー」


「商店街の栄養士さんみたい」


「その人より優秀」


食堂の空気は、そんな二人のやり取りを見て、また少しやわらかくなる。


星見坂孤児院では、こういう朝が当たり前だった。


当たり前で、やさしくて。


少しだけ、足りない。


朝食のあと、子どもたちを送り出し、片付けを済ませたころ。


ましろは食堂横の小さな机で、配られた書類を前にしていた。


進路希望調査。


健康状態確認。


保護者欄。


志望欄。


孤児院の子どもたちにとって、こういう書類は少しだけ現実の匂いが強い。


卒業。

進学。

就職。


そういう言葉は、星見坂孤児院の中だけで完結していた毎日を、少しずつ外へ押し出してくる。


ましろはペンを持った。


住所。

生年月日。

年齢。


そこまでは問題なく書ける。


けれど、「氏名」の欄で手が止まった。


久遠ましろ。


たったそれだけの文字なのに、胸の奥がざわつく。


服の下、胸元に埋まる青い宝石が、ほんのわずかに熱を持った気がした。


ましろは無意識にそこを押さえる。


「また?」


横から声がした。


いつの間にか隣に来ていたねむが、眠そうな目で覗き込んでいる。


ましろは困ったように笑った。


「うん。なんか、変だよね」


「変なのは今さらでしょ」


「そうなんだけど」


「書けないの?」


「書けるよ。書けるんだけど……」


そこで、ましろは少し言葉を探した。


「自分の名前なのに、借り物みたいな感じがする時があるの」


ねむの眠たげな表情が、一瞬だけ薄く消えた。


「……ふうん」


それだけ言って、机に肘をつく。


「じゃあ、今日のましろは繊細モードなんだ」


「何そのモード」


「自覚ないのが一番面倒」


それでも、ねむは笑い飛ばさなかった。


その代わり、小さくあくびをしてから、いつものように無愛想に言う。


「気になるなら、院長先生にまた聞けば」


「また困らせちゃうかな」


「もう十分困らせてるでしょ。今さら一回増えても変わらない」


ましろは思わず笑ってしまった。


「ねむ、院長先生に対して遠慮がないよね」


「あるよ。あるけど、私はましろほど優等生じゃないだけ」


そう言われると、少しだけ肩の力が抜けた。


ましろは深呼吸して、ようやく「久遠ましろ」と書いた。


文字はいつも通りのはずだった。


それなのに、紙の上に落ちたその名前は、やはりどこか自分から半歩遠い気がした。


昼前。


ましろは院長室を訪ねた。


古い木の扉をノックすると、中から穏やかな声が返ってくる。


「どうぞ」


扉を開けると、本棚と机に囲まれた静かな部屋が広がっていた。


窓辺には小さな鉢植え。


壁には古い時計。


机の上には、きれいに重ねられた書類と、一冊の古びた本。


その横に、小さな星型の護符が置かれている。


机の向こうに、星守澄が座っていた。


白髪をきちんとまとめ、薄い青灰色の瞳でましろを見上げる。


その表情は、いつものように穏やかだった。


見るだけで、呼吸がしやすくなるような人。


ましろにとって、院長先生はそういう人だった。


「どうしました、ましろ」


「ちょっと、聞きたいことがあって」


「ええ」


澄はペンを置き、ましろの方に身体を向けた。


それだけで、“ちゃんとあなたの話を聞きますよ”という姿勢が伝わってくる。


ましろは少し迷ったが、結局、正直に言うことにした。


「私がここに来た時のこと、もう少し教えてもらえませんか」


澄の表情が、ごくわずかに止まった。


本当に一瞬のことだった。


気づかない人は気づかないくらいの、小さな揺れ。


けれど、ましろは見逃さなかった。


「どうして、そう思ったのですか?」


「最近、名前を書くたびに、ちょっと変な感じがするんです」


ましろは胸元に手を当てた。


「これも、時々熱くなるし……」


澄の視線が、ましろの手の先へ落ちる。


服の下の、青い宝石の位置。


その目に差した影は、一瞬だったが、はっきりと悲しみに似ていた。


「あなたは、星がとても綺麗な夜に来たのです」


澄は静かに言った。


「流星群の夜でした。門の前に、白い布に包まれて置かれていて……あなたは、泣いていませんでした」


「やっぱり、何もなかったんですよね。名前とか、手紙とか」


「ええ」


「私の本当の名前も、分からないまま?」


澄はすぐには答えなかった。


古い時計の秒針だけが、部屋の中で小さく響く。


やがて澄は、いつもより少しだけ低い声で言った。


「……今は、まだ」


ましろは目を瞬いた。


“分からない”ではなかった。


“知らない”でもなかった。


今は、まだ。


その言葉の意味を問い返そうとした時、澄は穏やかに微笑んだ。


「焦らなくていいのですよ、ましろ」


「でも」


「名前は、人を形づくる大切なものです。だからこそ、急いで触れてはいけないこともあります」


その言い方はやさしい。


けれど同時に、そこから先へ踏み込ませない強さもあった。


ましろは黙る。


澄は立ち上がり、ましろの前まで来ると、そっとその頭を撫でた。


「あなたは、久遠ましろとして、ちゃんとここにいます」


その手はあたたかかった。


幼い頃から、何度もその手に助けられてきた。


悲しい時も。

熱を出した時も。

眠れない夜も。


だからこそ、ましろは余計に分からなくなる。


この人は、自分を大切にしてくれている。


それは本当だ。


けれど同時に、何か大きなことを隠している。


それもたぶん、本当だった。


「院長先生」


「はい」


「私、本当のことを知るのが怖いわけじゃないです」


澄の瞳が、ほんの少しだけ揺れた。


「……ええ。知っています」


「でも、知らないままでいるのも、ちょっとだけ怖いです」


澄はすぐには答えなかった。


代わりに、ましろの肩に手を置いたまま、ゆっくりと息をつく。


「そうですね」


その声は優しかった。


優しかったからこそ、余計に胸が痛くなる。


「いつか、話さなければならない日が来ます」


その一言だけが、やけに重く残った。


午後。


洗濯物を干し終えたねむは、中庭のベンチに腰を下ろしたまま、いつの間にか眠っていた。


春の風はやわらかく、木漏れ日はまぶしい。


昼下がりの孤児院は静かで、世界が少しだけまどろんでいるようだった。


ねむは夢を見た。


夜の孤児院。


空には星がなく、ただ冷たい光だけが満ちている。


その中庭の真ん中に、ましろがひとりで立っていた。


いつもの白い服ではない。


風に揺れる淡い色のスカート。


胸元では青い宝石が、悲鳴のように明滅している。


ましろは誰かに名前を呼ばれていた。


でも、それは“ましろ”ではなかった。


もっと長くて。


もっと遠くて。


口にした瞬間、何かを失ってしまいそうな名前。


聞き取れそうで、聞き取れない。


夢の中なのに、その音だけは耳が拒んでいるみたいにぼやけていた。


ましろの足元から、黒い星屑が湧き上がる。


空にひびが入る。


宝石が割れる。


その向こうで、白い仮面のようなものが笑った。


ねむは、はっと目を覚ました。


額にうっすら汗がにじんでいる。


「ねむ、大丈夫?」


声をかけられ、振り向くと、心配そうな顔のましろがいた。


トレイに麦茶を二つ載せている。


ねむは呼吸を整えながら、深く息を吐いた。


「……最悪の夢を見た」


「どんな夢?」


「それが」


言いかけて、ねむは眉をひそめる。


あれほど嫌な感覚だったのに、肝心の内容がするりと指の間からこぼれていく。


夜。


宝石。


仮面。


黒い星屑。


大事なところだけが、きれいに抜け落ちていく。


「……忘れた」


ねむは自分でも腹立たしそうに言った。


「大事そうなとこだけ、綺麗に」


ましろは麦茶を差し出した。


「じゃあ、思い出すまで休んで」


「そういう優しいこと言うから、自分が危ない時に雑になるんでしょ」


「え、今のそこに繋がる?」


「全部繋がってる」


ねむはコップを受け取りながら、じっとましろを見た。


言えなかったことがある。


夢の中のましろは、消えそうだった。


それが妙に嫌で、胸の奥に小さな棘みたいに残っている。


「ねむ?」


「……何でもない」


「絶対何かある顔だよ」


「面倒だから今は黙る」


「それ、黙るって宣言しちゃってるから逆に気になるやつ」


ねむはコップの縁に口をつけた。


ぬるくなりかけた麦茶の味が、妙に現実的だった。


だから少しだけ安心した。


夢は夢だ。


未来は決まっていない。


そう、自分に言い聞かせるように。


夕方、ましろは取り込んだ洗濯物をたたんでいた。


廊下の窓からは、茜色に染まり始めた空が見える。


一日の終わりが近づく時間。


孤児院の子どもたちも、どこか静かになる時間だ。


「ましろお姉ちゃん」


小さな男の子が、クレヨンの箱を抱えてやってきた。


七瀬悠太。


年少組の中でも、とくにましろに懐いている子だった。


柔らかい栗色のくせ毛は今日も少し跳ねていて、片方の靴下がずれている。


首からは小さなクレヨンケース。


腕には、大事にしているスケッチブック。


表紙には、ひらがなで大きくこう書かれていた。


わすれないノート。


「どうしたの、悠太くん?」


「絵、描いたの」


差し出された画用紙には、孤児院の絵が描かれていた。


大きな家。


星。


子どもたち。


その隅に、髪の長い女の子が笑っている。


「これ、ましろお姉ちゃん」


「わあ、上手」


「ね、ここに名前書いて」


ましろは笑ってクレヨンを受け取る。


名前を書くくらい、何でもないはずなのに、ほんの少しだけ指先が迷った。


すると悠太が、無邪気に言った。


「忘れないように、ちゃんと書いてね」


その言葉に、ましろは一瞬だけ息を止めた。


忘れないように。


名前を書く。


それだけのことなのに、どうしてこんなに胸がざわつくのだろう。


「……うん」


ましろは小さく答え、画用紙の隅に丁寧に名前を書いた。


くおん ましろ。


丸い文字を見て、悠太は嬉しそうに笑った。


「これでずっと覚えてられる!」


ましろも笑い返した。


けれど、その笑顔の奥で、言いようのない不安が小さく広がっていく。


名前は、忘れないためのものだ。


なのに自分は、その名前に触れるたび、何かを失いそうな気がする。


「悠太くん」


「なあに?」


「どうして、そんなに名前を書くのが好きなの?」


悠太は少し考えてから、当たり前みたいに答えた。


「名前があれば、帰ってこられるんだよ」


ましろは、何も言えなかった。


夜。


消灯前の孤児院は静かだった。


小さな寝息があちこちの部屋から漏れ、廊下には足音すらほとんど響かない。


ましろは窓を少しだけ開けて、夜空を見上げた。


星は出ている。


けれど、今夜の空はどこか冷たかった。


胸元の宝石が、じんわりと熱を持つ。


「……また」


思わずそこを押さえた瞬間、孤児院の壁がごく一瞬だけ淡く光った。


窓枠に沿って、見えないはずの線が浮かび上がる。


地面の下を走る、星のような紋様。


すぐに消えてしまったそれは、気のせいにするにはあまりにはっきりしていた。


廊下の向こうから、ぱたぱたと足音が近づいてくる。


ねむだった。


珍しく目が冴えている。


「ましろ」


「どうしたの?」


ねむは答える代わりに、窓の外を見た。


遠くの空。


山の向こう。


夜の縁が、黒く滲んでいる。


流星が一本、空を横切った。


けれどそれは、普通の流星ではなかった。


尾が黒い。


星が光ではなく、影を引いている。


ねむの顔色が変わった。


「……来る」


ましろは思わず聞き返した。


「何が?」


「分かんない」


ねむは唇を噛む。


「でも、夢で見た気がする」


その時だった。


孤児院の門の外で、何かが砕けるような、乾いた音がした。


二人は同時に息を呑んだ。


夜風が急に冷たくなる。


世界から音が少しずつ遠ざかっていく。


虫の声も。


木の葉の擦れる音も。


何かに吸い取られるように薄れていった。


門の向こう。


暗闇の中で、黒い星屑が集まり始める。


小さな塵だったものが渦を巻き、形を持ち、そこに“何か”を作っていく。


白いものが見えた。


割れた仮面のような白。


人の顔に似ていて、でも決して人ではないもの。


ましろの胸元の宝石が、今までにないほど強く光った。


熱い。


心臓の鼓動に合わせて、青い光が明滅する。


黒い星屑の中から、囁くような声が聞こえた。


人の声とも、風の音ともつかない。


けれど、意味だけははっきりと伝わってきた。


――名前を、返して。


ましろは、はっと息を詰めた。


聞いたことがないはずのその声に、どうしてか涙が出そうになる。


怖いのに、懐かしい。


知らないのに、胸が痛い。


ねむがましろの腕を掴んだ。


「下がって」


「でも、みんなが――」


「ましろ!」


ねむの声は鋭かった。


それでもましろの足は、まるで引き寄せられるように窓へ近づいてしまう。


外の“それ”が、ゆっくりとこちらを見上げた。


仮面の割れ目の奥で、青白い光が灯る。


そして、もう一度声が響いた。


――おまえの名前を。


その夜、久遠ましろは初めて知る。


名前を持たないことよりも怖いのは、


誰かに、自分ではない名前で呼ばれそうになることなのだと。

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