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第0話 流星群の夜、名前のない少女

その夜、星は降っていた。


願いを叶えるためではなく、

何かを隠すために。


丘の上に建つ星見坂孤児院は、夜になると街の灯りから少しだけ遠ざかる。


古い白壁の建物。

蔦の絡まる門。

風が吹くたび、門の上の小さな鐘が頼りなく揺れる。


昼間は子どもたちの声でいっぱいになるその場所も、今は深く眠っていた。


けれど、その夜だけは違った。


空には、数え切れないほどの流星が流れていた。


星が線を引く。

夜を裂く。

音もなく、地上へ降り注いでいく。


それは綺麗だった。


綺麗すぎて、どこか怖かった。


まるで空そのものが、何かを忘れようとしているみたいだった。


最初に泣き声に気づいたのは、夜の見回りをしていた若い職員だった。


「……赤ちゃん?」


門の外から、かすかな声が聞こえた。


泣き声、と呼ぶには弱い。


けれど、聞き間違いではなかった。


職員はランプを手に取り、慌てて玄関を出た。


冷たい夜風が頬を打つ。


門の前に、白い布に包まれた赤ん坊が置かれていた。


不思議なことに、その子は泣いていなかった。


ただ、夜空を見上げていた。


まるで、自分がどこから来たのかを覚えているみたいに。


「院長先生! 院長先生、来てください!」


職員の声を聞きつけ、奥の部屋から一人の老婦人が現れた。


星守澄。


星見坂孤児院の院長であり、子どもたちからはただ「院長先生」と呼ばれている人だった。


白髪をきちんと結い、いつも穏やかな笑みを絶やさない。


叱る時でさえ、声を荒げることはほとんどない。


そんな人だった。


けれど、その赤ん坊を見た瞬間。


澄の顔から、すっと血の気が引いた。


「……そんな」


それは、驚きというよりも、恐れに近い声だった。


澄は震える手で赤ん坊を抱き上げた。


布の内側には、名前を書いた紙も、家族を示す品も、何もなかった。


ただひとつ。


赤ん坊の胸元に、青い宝石があった。


首飾りではない。


飾りでもない。


まるで最初からそこにあったもののように、胸のあたりで淡く、静かに光っていた。


「これは……」


若い職員が息を呑む。


宝石の奥で、小さな星が瞬いているように見えた。


近づくと、かすかに音がした。


鐘の音にも、誰かの名前を呼ぶ声にも似ている。


澄は赤ん坊を抱いたまま、空を見上げた。


流星群の中で、ひとつだけ星が止まっていた。


他の星々が夜空を流れていく中、その星だけがじっと孤児院を見下ろしている。


次の瞬間。


その星が、消えた。


誰も声を出せなかった。


夜空に空白が生まれた。


そこにあったはずの星だけが、最初から存在しなかったみたいに消えていた。


若い職員は、震える声で尋ねた。


「院長先生……この子の名前は?」


澄は答えなかった。


腕の中の赤ん坊は、泣かずに澄を見つめている。


黒でも、青でもない。


まだ色を持たない瞳。


けれどその奥には、なぜか深い夜空が映っていた。


「名前は……」


澄の唇が、かすかに震えた。


「まだ、呼んではいけません」


「呼んでは、いけない?」


「ええ」


澄は赤ん坊の胸元の宝石に、そっと手を重ねた。


その瞬間、青い光が少しだけ強くなる。


孤児院の門に刻まれた古い傷が、星座のように浮かび上がった。


地面に。

窓枠に。

屋根の縁に。


見えないはずの線が、孤児院全体へ静かに走っていく。


それは一瞬だけだった。


すぐに、何もなかったように消えた。


けれど澄だけは知っていた。


この孤児院は、ただの家ではない。


この場所は、誰かを守るために作られた。


世界から見つからないように。


名前を呼ばれないように。


失われた星が、もう一度奪われないように。


そして今。


守るべきものが、ここへ戻ってきた。


あるいは、落ちてきた。


赤ん坊が小さく手を伸ばした。


澄の指を握る。


その手はあまりに小さく、あまりに温かかった。


澄の目に、涙が浮かんだ。


「あなたは……また、ここへ来てしまったのね」


若い職員は、その言葉の意味を聞けなかった。


澄の声が、あまりにも悲しそうだったからだ。


名前のない子。


記録のない子。


家族のいない子。


けれど胸元には、星のような宝石を宿した子。


職員がそっと言う。


「でも、呼び名がないと困ります。子どもたちにも、書類にも……」


澄はしばらく黙っていた。


夜風が門の鐘を揺らす。


ちりん、と小さな音がした。


やがて澄は、赤ん坊を抱きしめるようにして言った。


「久遠」


その声は、祈りのようだった。


「久遠……ましろ」


若い職員は、少しだけほっとしたように微笑んだ。


「ましろちゃん、ですか」


「ええ」


澄は頷いた。


けれど、その表情は晴れなかった。


久遠ましろ。


それは、名前の形をしていた。


けれど澄には分かっていた。


これは本当の名前ではない。


これは、封印だ。


その子がいつか、本当の名を思い出してしまわないように。


その名を、誰かが呼んでしまわないように。


世界が再び、その子を見つけてしまわないように。


澄は赤ん坊の額に、そっと口づけた。


「ごめんなさい」


誰にも聞こえない声で、そう呟く。


「でも、今度こそ守ります。あなたが、あなたとして笑える日まで」


赤ん坊は小さく息をした。


胸元の青い宝石が、鼓動のように淡く光る。


その光を見つめながら、澄は古い記憶を思い出していた。


白い部屋。


砕ける星。


名を呼ばれた少女。


そして、守れなかった約束。


けれど澄は、その記憶を言葉にしなかった。


言葉にすれば、名前が近づいてしまう。


名前が近づけば、世界がこの子を思い出してしまう。


だから澄は、ただ赤ん坊を抱きしめた。


その夜、星見坂孤児院にひとりの少女が迎え入れられた。


名前は、久遠ましろ。


本当の名前は、まだ誰も知らない。


いや。


知っていた者たちは、もう忘れてしまったのかもしれない。


夜明けが近づくころ、流星群は止んだ。


空は何事もなかったように静まり返り、孤児院の窓に淡い朝の光が差し込んだ。


消えた星のことを、誰も口にしなかった。


誰も覚えていなかった。


けれど、孤児院の門に刻まれた古い星の傷だけが、朝露の中でかすかに光っていた。


そして赤ん坊の胸元で、青い宝石だけが静かに光っている。


まるで、失われた名前を抱いているみたいに。

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