第9話 名札のない夜
朝、ましろの部屋の名札が白くなっていた。
完全に消えたわけではない。
久遠ましろ。
その文字は、まだそこにある。
けれど、黒い墨で書かれていたはずの名前が、うすい灰色になっていた。
朝の光に溶けかけた影みたいに。
ましろはしばらく、その名札の前に立っていた。
廊下の向こうから、子どもたちの声が聞こえる。
食堂へ急ぐ足音。
誰かが笑う声。
誰かが「ましろお姉ちゃん」と呼ぶ声。
その声を聞くと、胸の奥に引っかかっていたものが少しだけほどける。
呼ばれている。
まだ、呼ばれている。
ましろは自分の名札に指を伸ばした。
触れる直前、文字がほんの少しだけ震えた。
まるで、紙の上で眠っていた小さな虫が身じろぎしたみたいに。
「……気のせい」
そう言ってみた。
声に出すと、少しだけ安心できる気がした。
けれど、気のせいだと思いたい時ほど、たいてい気のせいではない。
最近のましろは、それを少しずつ学んでいた。
食堂へ行くと、ソラの席札はまだ残っていた。
ソラの席。
ねむの字は少し薄くなっている。
悠太の青い星も、端がかすれている。
けれど、そこに座るソラの輪郭は、昨日より少しはっきりしていた。
窓際の席で、両手でミルクのカップを包んでいる。
温かいものを持つのに、まだ慣れていないような手つきだった。
「おはよう、ソラ」
ましろが声をかけると、ソラは少し遅れて顔を上げた。
「おはよう」
返事が返ってきた。
それだけで、ましろは少し嬉しくなる。
忘れていない。
今朝は、ちゃんと覚えている。
昨日、歌を歌ったこと。
子どもたちと一緒に、忘れられた歌に新しい言葉を足したこと。
あかりは窓に、待っている。
その一節は、まだましろの中に残っていた。
「今日は覚えてる?」
ましろが聞くと、ソラはカップを見下ろした。
「半分くらい」
「半分?」
「歌ったことは覚えてる。声も少し。悠太が音を外したことも」
「えっ、外してた?」
近くにいた悠太が顔を上げる。
「外してた」
ソラが言う。
「でも、楽しそうだった」
悠太は少し考えてから、ぱっと笑った。
「じゃあ、いいや」
「いいんだ」
「楽しかったならいい」
ソラはその答えに、少しだけ目を細めた。
「そっか」
ましろは、その表情を見ていた。
ソラが“楽しかった”という言葉を、他人事ではなく聞いている。
それだけで、昨日の歌には意味があったのだと思えた。
食堂の奥では、ねむがパンをかじりながらメモ帳を開いている。
眠そうな顔。
でも、目は動いている。
何かを確認するように、ページをめくっていた。
「ねむ?」
「ん」
「どうしたの?」
「数えてる」
「何を?」
ねむはメモ帳をこちらに向けた。
そこには、孤児院の子どもたちの名前がずらりと書かれていた。
悠太。
ユリ。
カナ。
リオ。
トウマ。
ましろも知っている名前たち。
その横に、小さな丸印がついている。
「朝、全員分の名前を確認した」
「点呼?」
「名札が薄くなってる子が何人かいる」
ましろの手が止まった。
「名札……」
「ましろの部屋も?」
ねむが聞く。
ましろは頷いた。
ねむの顔が少し険しくなる。
「やっぱり」
「やっぱり?」
「昨日の夜、少し見た」
「夢?」
「夢になる前のやつ」
ねむは言い方を探すように、メモ帳の端を指で叩いた。
「寝る前、目を閉じたら廊下が見えた。名札が並んでて、そのうち何枚かが白くなってた」
ましろは廊下の名札を思い浮かべる。
部屋の扉にかかった、小さな木札。
いつもなら、ただそこにあるだけのもの。
でも今は、少し違って見える。
名前は、扉についた飾りではない。
帰る場所を示すものだ。
「レムに見せよう」
ましろが言うと、ねむは頷いた。
「あと院長先生にも。たぶん、もう気づいてる」
食堂の入口で、星守澄が立っていた。
子どもたちに微笑みながら、手には鍵束を持っている。
けれど、その指は少し強く握られていた。
いつもの院長先生なら、こんな朝にはまず子どもたちの皿を見る。
パンが足りているか。
スープをこぼしていないか。
熱いカップを小さな子が持っていないか。
でも今朝は違った。
澄の視線は、扉の名札を追っている。
ましろはそれに気づいてしまった。
院長先生は知っている。
たぶん、何かが始まっていることを。
礼拝室に入ると、空気がいつもより硬かった。
床の魔法陣は薄く光っている。
祭壇の上には、昨日の歌集が閉じられたまま置かれていた。
あの空白のページ。
あかりは窓に――
その先を拒むように白くなっていた歌詞。
ましろはそこを見ないようにした。
見れば、胸元の宝石がまた反応しそうだったからだ。
レムは杖の宝石の中から、ましろの話を黙って聞いていた。
名札が薄くなっていること。
ねむが眠る前に見た廊下。
ましろの部屋の名札。
子どもたちの名前。
そして、昨夜スケッチブックに浮かんだ文字。
七つめの星は、王冠に名前を渡さない。
話し終えるころには、礼拝室の光が少し冷たく感じられた。
レムは腕を組んだまま、しばらく何も言わなかった。
「レム」
ましろが呼ぶ。
「これ、あの記憶喰いの残り?」
「違うわ」
レムは即答した。
「記憶の色ではなく、名前の輪郭に触れている。もっと直接的で、もっと悪質」
ねむが低く言う。
「名喰い?」
「ええ。まだ本体ではない。でも、近い」
ましろの胸元が、じわりと熱くなった。
名喰い。
初めて星骸と戦った夜、子どもたちの名前が札から剥がれかけた。
あの時の感覚が戻る。
紙を一枚めくられるみたいに、自分の名前が自分から離れていく感覚。
「王冠の先触れ?」
ねむが言った。
その言葉を口にした瞬間、部屋の空気がわずかに震えた。
まだ誰も直接見ていない。
けれど、夢の中で、羽根の模様で、歌の空白で、少しずつ近づいているもの。
レムはゆっくり頷いた。
「まだ、そう呼ぶべき段階ではないわ」
その声は低かった。
「けれど、王冠の先触れが、孤児院の名札を試している」
「試す?」
「どの名前が薄いか。どの扉が開きやすいか。どの子が呼び戻されにくいか」
「嫌な言い方」
ねむが顔をしかめる。
「嫌なことをしているのよ」
レムの声は冷たかった。
澄が静かに言う。
「名札をすべて書き直しましょう」
ましろは振り向いた。
「全部ですか」
「ええ。子どもたちの部屋、食堂の席札、洗濯物の布札、古い名簿。名前が書かれているものを、今の手でなぞり直します」
「それで防げるんですか?」
「防ぐというより、確かめるのです」
澄は胸元の星のブローチに触れた。
「この名前はまだここにある、と。世界に向けて、もう一度知らせる」
ねむが少し眉を上げた。
「名前の再確認」
「そう呼んでもいいでしょう」
レムが補足する。
「記録は強い。でも、放置された記録は古くなる。誰にも読まれない名前は、少しずつ埃をかぶる」
「だから、なぞる」
ましろが言った。
「呼び直す。書き直す」
ソラがぽつりと言う。
「僕の席札と同じだ」
全員がソラを見る。
ソラは少しだけ困ったように笑った。
「消えそうになるたび、みんなが書いてくれた。たぶん、あれと同じ」
「そうね」
レムが言った。
「あなたの性質が、私たちに対処法を教えた」
ソラは少し考えた。
「僕が?」
「ええ」
レムは少しだけ目を細める。
「かなり」
ソラは、意外そうに瞬いた。
それから、小さく笑った。
「そっか」
ましろはその表情を見て、胸の奥が温かくなった。
消えやすいことが、誰かを守る手になった。
ソラはそれを、あの夜ちゃんと見せてくれた。
けれど、本人がそれを少しでも受け取れるようになるには、きっと時間がかかる。
なら、何度でも言えばいい。
ソラがここにいるように。
その日、孤児院では名前を書き直すことになった。
最初に食堂。
長いテーブルに、子どもたちの席札を並べる。
ひとつずつ、名前を読み上げる。
「ユリ」
「はい!」
「カナ」
「はーい」
「トウマ」
「いるー」
子どもたちは面白がっていた。
普段なら退屈な作業かもしれない。
けれど、ましろが「名前を元気にするお手伝い」と言うと、みんな妙に張り切った。
「名前って元気なくなるの?」
悠太が聞く。
「たまにね」
ねむが答える。
「人間と同じ」
「じゃあ、ごはん食べる?」
「名前はごはんじゃなくて、呼ばれると元気になる」
「へえ」
悠太は真剣に頷いた。
「じゃあ、いっぱい呼ぶ」
そして自分の席札を両手で持って、大きな声で言った。
「七瀬悠太!」
食堂の中に、子どもたちの笑い声が広がる。
ましろも笑った。
けれど、その瞬間。
悠太の席札の文字が、少しだけ濃くなった。
ましろは息を止める。
ねむも気づいたらしい。
「今」
「うん」
レムの声が杖から聞こえる。
「効いているわ。単純だけど、こういうものほど強い」
「単純って言うと子どもたちに怒られるよ」
「事実よ。名を呼び、名を聞き、名を書く。魔法の基本はいつだって単純なもの」
「レムがまともなこと言ってる」
ねむが言う。
「常にまともよ」
「それは違う」
ソラは窓際の席で、自分の札を見ていた。
ソラの席。
その下に、今日は新しく「帳ソラ」と書かれている。
ましろが書いた字。
ねむがなぞった字。
悠太が青い星で囲んだ字。
ソラは指先でその文字をなぞる。
「帳ソラ」
ましろが呼ぶ。
ソラが顔を上げる。
「はい」
返事をしてから、自分で驚いたような顔をした。
「今、普通に返事した」
「したね」
「なんか……変だね」
「嫌?」
「ううん」
ソラは少しだけ笑う。
「変だけど、嫌じゃない」
悠太がやってきて、ソラの隣に立つ。
「帳ソラくん!」
ソラは目を瞬いた。
「はい」
悠太は嬉しそうに笑った。
「返事した!」
「うん」
「もう一回呼んでいい?」
「いいよ」
「帳ソラくん!」
「はい」
「帳ソラくん!」
「はい」
「帳ソラくん!」
「……三回目」
「もっと呼んだらもっと濃くなる?」
悠太は本気で聞いた。
ソラは困ったように笑う。
「たぶん、少し」
「じゃあ呼ぶ」
「休憩を挟んでほしい」
そのやり取りを見て、ましろはふっと笑った。
食堂に、ソラの返事がある。
それだけで、少し世界がましになった気がした。
昼過ぎ。
名前の書き直しは、食堂から廊下へ移った。
部屋の扉にかかった名札を、ひとつずつ確かめる。
子どもたちは楽しそうに、自分の名前を読み上げていた。
「ここ、私の部屋!」
「名前、まだある!」
「こっちはちょっと薄い!」
「なぞって! なぞって!」
ましろは小さな筆を持って、薄くなった名前を丁寧になぞった。
名前を書くたび、不思議な感覚があった。
誰かの輪郭を、紙の上で少しだけ押さえるような。
風に飛ばされそうな布を、そっと留め直すような。
ましろは、名前を書くのが苦手だった。
自分の名前を書く時だけは、いつも胸の奥がざわついた。
でも、誰かの名前を書くのは少し違う。
その子がここにいると、確かめる感じがする。
「ましろ」
ねむが声をかけた。
「疲れてない?」
「大丈夫」
「その大丈夫は信用してない」
「ちょっとだけ疲れた」
「よろしい」
ねむはましろの持っていた筆を取り上げる。
「交代」
「ねむ、字うまい?」
「失礼」
「いや、ほら、眠そうだから」
「眠そうなのと字は関係ない」
ねむはそう言って、扉の名札をなぞる。
棘咲ねむ。
自分の名前だった。
彼女は一瞬、筆を止めた。
「ねむ?」
ましろが呼ぶと、ねむは小さく息を吐いた。
「自分の名前って、変」
「ねむも?」
「私のは借り物って感じじゃない。ただ、たまに刺さる」
「刺さる?」
「棘咲だから」
「それ、冗談?」
「半分」
ねむは自分の名前をなぞった。
棘咲ねむ。
黒い文字が、少しだけ濃くなる。
「名前ってさ」
ねむが言う。
「呼ばれると嬉しい時と、逃げたくなる時がある」
ましろは黙って聞いた。
「でも、消えるのは違う」
ねむは筆を置く。
「逃げたい時があっても、消されたいわけじゃない」
その言葉は、ましろの胸に静かに落ちた。
名前は祝福だけではない。
時には重く、時には痛く、時には逃げたくなるもの。
でも、それでも。
奪われていいものではない。
「うん」
ましろは頷いた。
「消されるのは、違う」
廊下の奥で、澄が古い名簿を開いていた。
古い名簿。
もう孤児院を出た子どもたちの名前も載っている。
紙は黄ばんでいて、端が少し欠けている。
そこにも、薄くなった名前がいくつかあった。
澄はそれを丁寧になぞっていた。
まるで、一人ひとりの頭を撫でるみたいに。
ましろは近づく。
「院長先生」
澄が顔を上げる。
「休んでください。私たちも手伝います」
「ありがとう」
澄は微笑んだ。
けれど、その手は名簿から離れない。
「これは、私がなぞりたいのです」
「どうして?」
「ここに書かれている子たちは、もうこの孤児院にはいません」
澄はページを見下ろす。
「けれど、一度はここで朝を迎え、夜を眠り、名前を呼ばれていました」
紙の上の文字を、細い指がなぞる。
「たとえ今どこにいても、そのことまで消えていいはずがありません」
ましろは何も言えなかった。
澄が抱えているものの重さが、少しだけ見えた気がした。
この人は、ただ今いる子どもたちを守っているのではない。
ここにいたすべての名前を、守ろうとしている。
きっと、守れなかった名前も。
ましろの胸元の宝石が、かすかに光った。
その夜、孤児院の名札はすべて書き直された。
部屋の扉。
食堂の席札。
洗濯物の布札。
古い名簿。
悠太のノート。
ソラの席。
名前という名前が、もう一度呼ばれた。
子どもたちは面白がっていたけれど、途中から少しずつ静かになった。
自分の名前を呼ばれると、誰もが一瞬だけ顔を上げる。
まるで、自分がここにいることを、そのたびに確かめているみたいだった。
夕食のあと、ましろたちは食堂に集まった。
最後に、みんなで星帰りの歌を歌うことになった。
歌は、昨日書き足したままだ。
星が眠る丘のうえ
ちいさな鐘が鳴りました
帰る名前をなくしても
あかりは窓に、待っている
最初は子どもたちだけ。
次にましろ。
少し遅れてソラ。
さらに小さく、ねむ。
澄も、食堂の入口で静かに口を動かしていた。
レムは何も言わなかった。
ただ、杖の宝石が淡く光っている。
歌が食堂に満ちていく。
それは魔法の詠唱ではなかった。
強い力を持つ呪文でもない。
けれど、今のましろには、それが一番必要なもののように思えた。
名前を呼ぶこと。
名前を書くこと。
名前を歌の中へ置くこと。
それらは全部、誰かをここに留める小さな手だった。
歌い終わったあと、ソラがぽつりと言った。
「今日は、少し濃い」
「何が?」
ましろが聞く。
「僕」
ソラは自分の手を見る。
「いつもより、手がちゃんとある感じがする」
ましろは胸が温かくなった。
「よかった」
「うん」
ソラは少し笑う。
「でも、ちょっと重い」
ねむが言う。
「存在感にも筋肉痛があるんじゃない」
「あるのかな」
「知らないけど」
「ねむは知らないことを自信満々に言うね」
「言い切るとそれっぽく聞こえるから」
「勉強になる」
「しなくていい」
ましろは笑った。
その笑い声に、子どもたちもつられて笑う。
食堂に、少しだけ穏やかな空気が戻った。
それでも、ましろは気づいていた。
澄が、歌の最後で一瞬だけ目を伏せたこと。
レムが、名簿の一番古いページを見たまま黙っていたこと。
そして、時計台の方から、かすかな音が聞こえたこと。
ごん。
一度だけ。
遠く、低く。
止まっていたはずの時間が、また少しだけ進む音。
夜更け。
孤児院が静まり返ったころ。
廊下の名札が、ひとつずつ淡く光った。
ユリ。
カナ。
トウマ。
七瀬悠太。
棘咲ねむ。
帳ソラ。
そして。
久遠ましろ。
ましろの部屋の名札も、昼間よりずっと濃くなっていた。
けれど、その文字の上に、薄い影が落ちる。
人影ではない。
鳥でもない。
王冠の形をした、黒い影。
それは、名札の表面をゆっくり撫でた。
久遠ましろ。
文字が、一瞬だけ震える。
ましろ、の三文字の下に、別の線が浮かびかけた。
読めない。
読んではいけない。
けれど、そこに何かがある。
影は満足したように揺れた。
そのまま、廊下の奥へ滑っていく。
誰も見ていない。
誰も気づかない。
ただ、悠太のスケッチブックだけが、寝台の横でひとりでに開いた。
白い髪の少女の絵。
七つの星。
そのうち、まだ塗られていなかった最後の星に、黒い王冠のような線が浮かんだ。
そして、ページの端に小さな文字が現れる。
名札だけでは、守れない。
文字はすぐに消えた。
朝が来れば、誰も覚えていないかもしれない。
けれど、時計台の針はまた一分だけ進んでいた。
星見坂孤児院の止まっていた時間が、少しずつ。
誰かの名前へ向かって、動き始めていた。




