第10話 空白の王冠
名札を書き直した翌朝、ましろは少しだけ安心していた。
廊下の名札は、昨日より濃い。
久遠ましろ。
木札の上に、黒い文字がきちんと座っている。
朝の光に溶けることもなく、文字だけが震えることもなく、ちゃんとそこにある。
ましろは指先で、そっと名札の端に触れた。
冷たい木の感触。
名前の奥に何かが潜んでいる感じは、昨日より薄い。
たぶん、大丈夫。
そう思った。
思いたかった。
けれど、その横で時計台の鐘が鳴った。
ごん、と。
朝を告げるには遅すぎる。
昼を告げるには早すぎる。
誰も鳴らしていないはずの鐘。
ましろは廊下の窓へ駆け寄った。
北棟の時計台。
止まっていたはずの針が、また一分だけ進んでいる。
これで、六分。
ソラと出会ってから、止まっていた時間は少しずつ動き始めていた。
ただしそれが、良いことなのか悪いことなのかは、まだ誰にも分からない。
「ましろ」
後ろから声がした。
ねむだった。
寝起きの悪そうな顔に、昨日より濃いくまが居座っている。
手にはメモ帳。
その表紙には、殴り書きでこう書かれていた。
忘れたら見る。
「おはよう、ねむ」
「おはよう。今の鐘、聞いた?」
「うん」
「最悪な音だった」
「鐘に対して辛口だね」
「音に罪はないけど、状況に罪がある」
ねむは窓の外を見た。
時計台の文字盤は、朝の光を受けて白く見える。
けれど、その白さは綺麗というより、何かを塗りつぶした後みたいだった。
「また進んだ」
ねむが言う。
「たぶん、進んだ分だけ何かが近づいてる」
「王冠?」
ましろの声は、自分でも思ったより小さかった。
ねむは答えなかった。
代わりに、メモ帳を開く。
そこには、昨夜、悠太のスケッチブックに浮かんだ言葉を写しておいた文字があった。
名札だけでは、守れない。
ソラの席。
七つめの星。
王冠。
ねむはそのページを見つめたまま、少しだけ眉をひそめる。
「これ、私が書いた?」
「覚えてないの?」
「書いた気はする。でも、書いた時の温度がない」
「温度?」
「手が震えてたとか、腹が立ってたとか、眠かったとか。そういうのが抜けてる」
ましろは息を呑んだ。
記憶の色。
思い出に残る温度。
それが薄くなる怖さは、もう知っている。
「記憶喰いの残り?」
「違うと思う」
ねむは静かに言った。
「これはもっと、名前に近い」
その言葉に、ましろの胸元がかすかに熱を持つ。
服の下の青い宝石が、目を覚ます前の獣みたいに息をした気がした。
「レムに聞こう」
「うん」
ねむは頷く。
「あと、ソラにも」
その名前を口にした瞬間。
廊下の向こうで、誰かが振り向いた。
灰色の髪。
薄い瞳。
ソラが立っていた。
いつの間にいたのか分からない。
いつものことなのに、今朝はそれが少しだけ不気味だった。
ソラは窓辺に立つ二人を見て、困ったように笑った。
「おはよう」
「おはよう、ソラ」
ましろが返す。
ねむも小さく手を上げた。
ソラは近づいてきた。
昨日より輪郭は濃い。
でも、足音がない。
廊下にいるのに、廊下から少し外れているように見える。
「鐘、聞こえた?」
ましろが聞くと、ソラは頷いた。
「聞こえた。胸の中で」
「胸の中?」
「うん。時計台の鐘なのに、外からじゃなくて、中から鳴った感じ」
ソラは自分の胸に手を当てる。
「名前を呼ばれる前に、返事だけさせられたみたいで、ちょっと嫌だった」
その言い方が、ましろの胸に刺さった。
返事だけさせられる。
名前のない呼び声。
それは、何かに見つけられることよりも、もっと曖昧で怖い。
「ソラは、王冠のことを覚えてる?」
ねむが聞いた。
ソラは少し考えた。
「覚えてるというより、避けてる」
「避けてる?」
「思い出そうとすると、頭の中が白くなる」
ソラは廊下の床を見る。
「名前を消される時って、黒くなると思ってた。でも違うんだね。白いんだ」
ましろは、昨日の名札を思い出した。
白くなった名前。
霞んだ文字。
影ではなく、空白。
「白い方が怖い」
ソラが言った。
「黒いものは、そこに何かがあるって分かる。でも白いものは、最初から何もなかったことにしようとする」
ねむが小さく息を吐いた。
「朝から嫌なこと言うの上手いね」
「ごめん」
「謝られるとさらに嫌」
ソラは少しだけ笑った。
けれど、その笑いはすぐに消えた。
廊下の奥。
子どもたちの部屋の方から、泣き声が聞こえた。
三人は同時に振り向いた。
泣いていたのは、年少の女の子だった。
昨日、歌の続きを忘れていた子だ。
彼女は自分の部屋の前で、名札を両手で握りしめている。
その名札には、何も書かれていなかった。
完全な白。
木目だけが残っている。
ましろは駆け寄った。
「どうしたの?」
女の子は涙をこぼしながら、ましろを見上げる。
「これ、私のだよね」
「うん。あなたの部屋の名札だよ」
「じゃあ、どうして」
彼女は唇を震わせた。
「どうして、私の名前がないの?」
ましろは答えられなかった。
昨日、みんなで書き直したはずだった。
何度も呼んだ。
ちゃんと、濃くなった。
それなのに、今は白い。
ねむがしゃがみ込んで、女の子の目線に合わせた。
「自分の名前、言える?」
女の子は涙を拭きながら頷いた。
「ユリ」
その瞬間、名札の表面に、かすかに線が浮かんだ。
ユ。
けれど次の瞬間、白い木肌へ溶けた。
まるで、降りたばかりの雪が、足跡を飲み込んでいくみたいに。
ユリは息を呑んだ。
「消えちゃった」
ましろは彼女の肩に手を置いた。
「大丈夫。もう一回書こう」
「でも、また消える?」
「消えたら、また書く」
自分で言いながら、ましろは声が少し震えていることに気づいた。
昨日まで、その言葉には力があった。
消えたら、また書く。
忘れたら、また呼ぶ。
それでソラは少しずつここにいられるようになった。
でも今、目の前の白い名札は、こちらの言葉を待っていない。
何度書いても消える。
そんな予感があった。
「ましろ」
ソラが低く言った。
「これ、名札じゃない」
「え?」
「名札の形をしてるけど、もう違う」
彼はユリの名札を見ていた。
「名前を書く場所が、消されてる」
その言葉は、ましろの背筋を冷たくした。
名前が消えるのではなく。
名前を書く場所そのものが、失われる。
そこに置くはずのものが、拒まれている。
ねむがメモ帳を取り出した。
「ユリ」
そう書く。
文字は残った。
けれど、ねむの眉が動く。
「変」
「何が?」
「書いた感じが軽い」
「軽い?」
「紙に乗ってない。浮いてる」
ましろには分からなかった。
でも、ねむの顔は真剣だった。
「名前が、書いた場所に根を張らない」
ソラがぽつりと言う。
「じゃあ、あの白いのは土を消してるんだ」
誰も笑わなかった。
その言い方が、一番近い気がしたからだ。
礼拝室へ向かう途中、異変は増えていった。
食堂の席札から、ひとつずつ名前が薄くなる。
洗濯物の布札が、真っ白な布切れになる。
古い名簿のページが、ところどころ空白になる。
それでも、子どもたちは最初、怖がるより不思議がった。
「名前、逃げた!」
「かくれんぼ?」
「じゃあ探せばいい?」
けれど、ひとりが言った。
「私、あの子の名前、何だっけ」
その瞬間、食堂の空気が変わった。
名前が消えることと、相手を思い出せないことは違う。
けれど、その境目は思ったより薄かった。
名前がないと、呼べない。
呼べないと、振り返らない。
振り返らないと、そこにいるのか分からなくなる。
ましろは、何度も子どもたちの名前を呼んだ。
ユリ。
カナ。
トウマ。
リオ。
七瀬悠太。
帳ソラ。
棘咲ねむ。
星守澄。
レム・ステラ。
ひとつ呼ぶたび、誰かの輪郭が少し濃くなる。
でも、すぐに白いものがそれを舐める。
砂浜に名前を書いて、波が来るのを待っているみたいだった。
礼拝室の扉を開けると、星守澄がすでに立っていた。
古い本を開き、祭壇の前で祈るように手を添えている。
礼拝室の奥には、名札を失った子どもたちが小さく集められていた。
自分の木札を抱える子。
何も書かれていない布札を握る子。
声を出さずに泣いている子。
悠太もその中にいた。
スケッチブックを胸に抱きしめ、ましろを見ると、今にも泣きそうな顔で唇を結んだ。
澄の顔は青ざめていた。
「院長先生」
ましろが呼ぶと、澄は振り向いた。
「始まってしまいました」
その声は静かだった。
静かすぎて、余計に怖かった。
レムは杖の宝石の中で、すでに目を覚ましていた。
「澄、結界を閉じて」
「閉じています」
「もっと内側まで」
「すでに」
レムの表情が険しくなる。
「それで入ってくるのね」
「入ってきたのではありません」
澄は窓の外を見る。
「呼ばれているのです。こちらにある名前が」
ましろは胸元を押さえた。
青い宝石が熱い。
火傷するほどではない。
けれど、皮膚の下で星がひとつ目を開けたようだった。
「私の名前?」
誰もすぐには答えなかった。
沈黙が、答えに似ていた。
ねむが一歩前へ出る。
「はっきり言ってください」
澄はねむを見る。
「ましろの中に封じられた名前に、王冠が反応しています」
その言葉で、礼拝室の空気が冷えた。
ましろは息を吸う。
うまく肺に入らない。
レムが続ける。
「名札を薄くしたのは、本命を探るためよ。孤児院中の名前を撫でて、どれが一番深いか確かめている」
「深い名前?」
ソラが聞く。
「呼ばれた時に、世界が反応する名前」
レムの声は硬かった。
「久遠ましろは封印名。表に置かれた名前。けれど、その下に別の層がある。王冠はそれを嗅ぎつけている」
ましろは自分の手を見る。
自分の手。
自分の名前。
久遠ましろ。
そう呼ばれてきた十六年。
その下に、別の名前がある。
まだ知らない。
知ってはいけないと言われた名前。
それが今、誰かに見つかろうとしている。
「じゃあ、どうすれば」
ましろが言いかけた時。
礼拝室の窓が、白く曇った。
外からではない。
内側から。
窓ガラスに、白い息を吹きかけたような曇りが広がり、そこに文字が浮かぶ。
ひとつ。
またひとつ。
読めない文字だった。
けれど、見た瞬間に頭が痛くなる。
名前ではない。
名前の抜け殻。
名前になる前に削られた音。
レムが叫んだ。
「見ないで!」
ましろは目を逸らした。
ねむがランタンを掲げる。
青黒い光が、窓の文字を照らした。
文字たちは一瞬だけ形を崩し、虫のように逃げる。
ソラは顔をしかめている。
「これ、見える」
「ソラ?」
「忘れられた文字に似てる。でも、もっと空っぽだ」
「空っぽ?」
ソラは唇を噛んだ。
「誰かの名前を食べた後の殻みたい」
その瞬間、礼拝室の床の魔法陣が強く光った。
星の線が走る。
青白い結界。
けれど、その上から白い亀裂が入る。
黒く割れるのではない。
白く、消えていく。
線が線であることを忘れさせられるように。
「結界の名前を剥がしてる」
レムが低く言った。
「結界から、結界である意味を奪っている」
ましろには、その言葉の恐ろしさが遅れて分かった。
扉が扉でなくなる。
鍵が鍵でなくなる。
道が道でなくなる。
なら、結界も結界でなくなる。
守るものが、自分が何のためにそこにあったのか分からなくなる。
床の魔法陣が、ひとつずつ白くほどけていく。
澄が古い本を開き、声を震わせずに詠唱した。
「星見坂の結界よ、子らの名を抱きなさい」
光が戻る。
けれどすぐに白く舐められる。
澄の額に汗が浮かんだ。
「長くは保ちません」
レムが言う。
「ましろ、変身を」
「うん」
ましろは杖を握った。
胸元の宝石から光が溢れる。
星律の杖が応える。
白と金の光がましろを包む。
けれど、その途中で光が途切れた。
衣装の線が途中でかすれる。
スカートの裾が、白い空白に削られる。
ましろは息を呑んだ。
「何……?」
レムの声が鋭くなる。
「ましろ、名前を呼びなさい。自分の名前を」
「久遠ましろ」
ましろは言った。
光が戻る。
「久遠ましろ」
もう一度。
髪が光に包まれる。
「久遠ましろ」
三度目。
ようやく、変身の光が完成した。
白と金の衣装。
青い宝石。
星律の杖。
けれど、いつもより少し重い。
まるで、自分の姿を自分で支えていないと、すぐにほどけてしまいそうだった。
ねむが夢見のランタンを持って隣に立つ。
ソラはましろの少し後ろ。
悠太は澄のそばで、スケッチブックを胸に強く抱きしめている。
「ましろお姉ちゃん」
悠太が呼ぶ。
その声で、ましろの輪郭が少し濃くなる。
「大丈夫」
ましろは答えた。
「大丈夫にする」
その時。
孤児院の外で、何かが落ちた。
音はなかった。
けれど、世界が一度だけ沈んだ。
空気が重くなる。
窓の向こう。
中庭の上に、黒いものが浮かんでいた。
王冠だった。
割れている。
欠けている。
完全な円ではなく、いくつもの破片が星座のように浮いている。
それは金色ではなかった。
黒でもなかった。
くすんだ銀と、古い骨の白と、夜の底から掬った青でできていた。
その下に、白い仮面が浮かぶ。
顔はない。
目も口もない。
けれど、見ていると分かる。
こちらを見ている。
仮面の下に、黒い星屑でできた細い身体が形を取る。
長い腕。
尖った指。
胸元には、空洞の星型核。
背中には、骨のような星座の翼。
名札のない夜に、王冠が降りてきた。
誰も息をしなかった。
レムが、低く呟く。
「空白の王冠」
その名前を聞いた瞬間、ましろの胸元の宝石が強く光った。
王冠の破片が、かすかに震える。
仮面がこちらを向く。
そして、声がした。
耳ではない。
名前の奥に届く声。
――その名は、誰のものだ。
礼拝室に残っていた名前という名前が、一斉に白くなる。
棚に貼られた札。
古い本の題名。
祭壇に刻まれた星の名。
全部が、音もなく薄れていく。
ねむが歯を食いしばる。
「趣味が悪い」
ソラは震えていた。
でも、逃げなかった。
ましろは杖を構えた。
「ここには、みんなの名前がある」
声は震えていた。
それでも言った。
「勝手に持っていかないで」
空白の王冠は、首を傾けた。
仮面に顔はない。
けれど、笑ったように見えた。
――久遠。
ましろの心臓が跳ねた。
――ましろ。
名前を呼ばれた。
それだけなのに、足元が崩れそうになる。
久遠ましろ。
自分の名前。
けれど、その声で呼ばれると、名前が薄い紙みたいにめくれた。
その下に、別の音がある。
古くて。
遠くて。
あまりにも自分に近い音。
レムが叫ぶ。
「答えないで!」
ましろは唇を噛んだ。
空白の王冠が、指を伸ばす。
その指先から、白い文字の欠片が零れた。
地面に落ちる前に、それは名札の形になる。
白い名札。
何も書かれていない。
何枚も、何枚も。
中庭に白い名札が降る。
雪のように。
けれど綺麗ではない。
それは、誰かが呼ばれなかった証みたいだった。
――久遠ましろ。
王冠の声が、もう一度響く。
――おまえは本当に、その名なのか。
ましろの視界が揺れた。
礼拝室が遠くなる。
ねむの声も。
ソラの気配も。
悠太の泣きそうな呼吸も。
全部が白く遠ざかる。
久遠ましろ。
その名前が、自分のものではなくなる。
借り物の服みたいに、肩から滑り落ちそうになる。
「違う」
ましろは、かすれた声で言った。
レムが息を呑む。
ねむが振り向く。
ソラが一歩踏み出す。
ましろは自分でも、何を否定したのか分からなかった。
違う。
久遠ましろが違うのか。
王冠の声が違うのか。
自分が違うのか。
胸元の宝石が、痛いほど光る。
王冠の欠けた破片が、それに呼応する。
白い仮面の奥で、青い光が灯った。
――ならば、返せ。
声が変わった。
命令ではない。
祈りに近かった。
けれど、祈りなのに怖かった。
――名前を、返せ。
ましろの杖を握る手から、力が抜ける。
ルミナス・ベル。
唱えようとした。
けれど、言葉が途中で消えた。
ルミナス・
その先が出てこない。
ベル。
鐘。
名前を忘れたわけではない。
けれど、音が口の中で白くなっていく。
レムが宝石の中で叫ぶ。
「術式の名前を奪われてる!」
ねむがランタンを掲げた。
「ましろ、こっち見て!」
青黒い光がましろの頬を照らす。
その光の奥に、金色の火がひとつ灯る。
ねむの声が、白くなりかけた意識に刺さった。
「ましろ!」
その呼び方で、少し戻る。
ましろ。
久遠ましろではなく、ましろ。
孤児院のみんなが呼んできた名前。
ねむが雑に呼ぶ名前。
悠太が泣きながら呼ぶ名前。
レムが怒りながら呼ぶ名前。
ソラが少し遠慮して呼ぶ名前。
その声の重なりが、ましろの足元に戻ってくる。
「私は」
ましろは息を吸った。
「私は、久遠ましろ」
空白の王冠が動きを止める。
「本当の名前は、まだ知らない」
ましろは杖を握り直す。
「でも、今ここで呼ばれている名前を、あなたに渡す気はない」
杖の先端に、小さな光が灯る。
鐘の名前はまだ戻らない。
ルミナス・ベルが言えない。
なら。
ましろは歌を思い出した。
星が眠る丘のうえ。
ちいさな鐘が鳴りました。
帰る名前をなくしても。
あかりは窓に、待っている。
歌は魔法ではない。
けれど、名前を呼び戻す祈りだった。
ましろは杖を前に差し出し、静かに歌い始めた。
最初は震えていた。
でも、すぐにねむが続いた。
小さく。
不機嫌そうに。
それでも確かに。
ソラも続いた。
薄い声で。
消えないように。
悠太も泣きながら歌った。
音程は外れていた。
でも、そんなことはどうでもよかった。
澄も、扉の奥で歌った。
レムは何も言わなかった。
ただ、杖の宝石の光が、歌に合わせて強くなる。
空白の王冠が、初めて揺れた。
白い名札の雪が止まる。
歌が、礼拝室から廊下へ流れていく。
廊下から食堂へ。
食堂から子どもたちの部屋へ。
子どもたちの名札が、かすかに光る。
ユリ。
カナ。
トウマ。
リオ。
七瀬悠太。
棘咲ねむ。
帳ソラ。
久遠ましろ。
全部が、歌の中で少しずつ戻ってくる。
けれど、空白の王冠は消えなかった。
むしろ、仮面の奥の光が強くなる。
――その歌は、鍵。
ましろの背筋が凍った。
――鍵は、扉を開く。
王冠の破片が広がる。
中庭の上空に、割れた円が浮かび上がる。
それは魔法陣だった。
王冠の形をした、名前のない扉。
ましろの胸元の宝石が、悲鳴のように光る。
レムが叫んだ。
「しまった、歌に反応して――」
言葉の途中で、礼拝室の床が白く光った。
ましろの足元から、別の文字が浮かび上がる。
読めない。
けれど、分かる。
自分の名前ではない。
でも、自分に関わる名前。
本当の名前の、周囲にある文字。
ましろの唇が勝手に動きそうになる。
ねむが叫ぶ。
「ましろ、だめ!」
ソラが手を伸ばす。
「ましろ!」
悠太がスケッチブックを抱きしめる。
「ましろお姉ちゃん!」
その声が、最後に届いた。
ましろは、ぎりぎりで口を閉じた。
空白の王冠が、こちらを見ていた。
仮面の奥に、感情のようなものが揺れる。
怒りではない。
飢えでもない。
それは、悲しみに似ていた。
――なぜ。
王冠が言った。
――おまえだけが、呼ばれる。
ましろは何も答えられなかった。
その声は、あまりにも孤独だった。
空白の王冠は、敵だ。
名前を奪おうとしている。
子どもたちを危険にさらしている。
それなのに、その声の底には、ましろが知っている寂しさがあった。
呼ばれたい。
覚えていてほしい。
帰りたい。
けれど、誰も名前を知らない。
ましろは杖を握ったまま、動けなくなる。
レムが低く言った。
「同情しないで。引き込まれる」
「でも」
「でもじゃない」
ねむの声が飛ぶ。
「ましろが消えたら、誰があいつに怒るの」
ましろはねむを見る。
「怒る?」
「名前を奪うなって言うんでしょ」
ねむはランタンを握りしめている。
その手は震えていた。
「だったら、まず自分の名前を離さないで」
その言葉が、ましろの胸に落ちた。
そうだ。
救うことと、渡すことは違う。
分かろうとすることと、飲み込まれることは違う。
ましろは杖を構え直す。
鐘の名前は、まだ口に出せない。
でも、歌は残っている。
名前は残っている。
「あなたが何を失ったのか、私はまだ知らない」
ましろは言った。
「でも、誰かの名前を奪っても、あなたの名前にはならない」
空白の王冠の翼が広がる。
星座の骨格のような黒い線。
王冠の破片が、空へ散る。
――では。
その声が、礼拝室の壁を震わせた。
――おまえの名を剥がして、確かめよう。
次の瞬間、ましろの名札が砕けた。
廊下に掛かっていたはずの木札。
久遠ましろ。
その文字が、遠くで割れる音がした。
同時に、ましろの胸の中で何かが外れた。
視界が白くなる。
ねむの顔が遠ざかる。
ソラの声が聞こえない。
レムの叫びも届かない。
自分の手が、誰の手なのか分からなくなる。
私は。
誰。
ましろは膝をついた。
杖が床に転がる。
星の音が遠い。
空白の王冠が、ゆっくり近づいてくる。
その指が、ましろの胸元の宝石へ伸びる。
青い宝石が、静かに割れそうな光を放つ。
その時。
悠太が、前に出た。
澄の伸ばした手をすり抜けるようにして、スケッチブックを抱えたまま走った。
「だめ!」
小さな声。
けれど、白い世界の中で、その声だけが赤い糸みたいに見えた。
悠太は震えながら、スケッチブックを開く。
そこには、ましろの絵があった。
白と金の魔法少女。
胸元の青い宝石。
少し困ったように笑う顔。
絵の下に、何度も何度も書かれている。
ましろお姉ちゃん。
ましろお姉ちゃん。
ましろお姉ちゃん。
文字は子どもの手で、少し曲がっている。
でも、そのどれもが必死だった。
悠太は泣きながら叫んだ。
「ましろお姉ちゃんは、ましろお姉ちゃんでしょ!」
その声が、白い世界に穴を開けた。
ましろの胸の奥で、鐘が鳴る。
りん。
ひとつ。
りん。
もうひとつ。
久遠ましろ。
ましろお姉ちゃん。
名前が戻る。
完全ではない。
でも、戻る。
ましろは息を吸った。
空気が肺に入る。
床の冷たさが膝に戻る。
ねむの声。
ソラの気配。
レムの光。
悠太の泣き声。
全部が戻ってくる。
ましろは顔を上げた。
空白の王冠の指が、すぐ目の前にあった。
ましろは杖を拾えない。
でも、手を伸ばした。
自分の胸元を守るように。
そして、小さく言った。
「私は、ましろ」
声は弱かった。
でも、消えなかった。
「久遠ましろ」
空白の王冠の指が止まる。
仮面の奥の青白い光が、わずかに揺れた。
ましろは、もう一度言った。
「私は、久遠ましろ」
その瞬間、杖が光った。
床に転がっていた星律の杖が、ましろの手元へ滑るように戻ってくる。
宝石の中で、レムが叫ぶ。
「今なら通る!」
ましろは杖を握った。
鐘の名前が戻る。
ルミナス・ベル。
今度は、口の中で白くならない。
ましろは杖を前に向けた。
「ルミナス・ベル!」
鐘の音が、礼拝室いっぱいに響いた。
強い光ではなかった。
けれど、深い光だった。
悠太のノートの文字。
ねむのメモ。
ソラの席札。
澄の古い名簿。
子どもたちの名札。
それらが一斉に光る。
空白の王冠の身体が、大きく揺らいだ。
仮面にひびが入る。
王冠の破片が、いくつか砕ける。
けれど、核までは届かない。
胸の空洞には、まだ黒い星がある。
空白の王冠は、ましろを見た。
その声は、初めて少しだけ人に近かった。
――ましろ。
名前を呼ばれた。
さっきとは違った。
奪うためではなく。
確かめるように。
ましろは息を止める。
――その名で、まだ立つのか。
ましろは杖を握る。
「立つよ」
空白の王冠は、しばらく動かなかった。
そして、王冠の破片が空へ戻っていく。
白い名札の雪が、夜の中へ吸い上げられていく。
仮面のひびから、黒い星屑がこぼれた。
――ならば、次は。
声が遠ざかる。
――その名を支えるものから、喰らう。
「待って!」
ましろが叫ぶ。
けれど、空白の王冠は消えた。
中庭に残ったのは、砕けた王冠の小さな欠片。
そして、白くなった名札の破片だけだった。
礼拝室の空気が戻る。
子どもたちの泣き声。
澄の詠唱が途切れる音。
ねむが膝をつく音。
ソラがましろへ駆け寄る気配。
悠太が泣きながらスケッチブックを抱きしめている。
ましろは、息をしていた。
自分の名前を、まだ覚えていた。
でも。
礼拝室の奥から、小さな声が聞こえた。
「ねえ」
誰かが言った。
「院長先生って、誰だっけ」
その一言で、全員が凍った。
ましろは振り向く。
星守澄が、礼拝室の入口に立っている。
そこにいる。
確かにいる。
けれど、胸元に付けていた小さな名札が白くなっていた。
星守澄。
その名前が、ほとんど読めない。
澄は、自分の胸元を見下ろした。
それから、ましろを見た。
いつものように、穏やかに微笑もうとした。
けれど、その微笑みは途中で壊れた。
「……そう来ましたか」
その声は、少しだけ震えていた。
ましろは立ち上がろうとした。
けれど足に力が入らない。
レムが低く言う。
「ましろを剥がせなかったから、支えている名前に触れたのね」
ねむが顔を上げる。
「支えている名前?」
ソラが小さく呟く。
「ましろを、久遠ましろにした人」
ましろの胸が冷たくなる。
星守澄。
院長先生。
ましろを拾った人。
ましろに名前をくれた人。
その名前が、薄れている。
悠太のスケッチブックが、また勝手に開いた。
白い髪の少女の絵。
七つの星。
黒い王冠。
ページの下に、文字が浮かぶ。
次に消えるのは、名付けた人。
ましろは、その文字を見つめた。
声が出なかった。
時計台の鐘が、遠くで鳴る。
ごん。
ごん。
二度。
止まっていた針が、さらに二分進んだ。
これで、八分。
星見坂孤児院の夜は、もう元には戻らない。
名札だけでは守れない。
歌だけでも足りない。
名前を呼ぶだけでも、まだ足りない。
王冠は、ましろの名前ではなく。
ましろをましろにした人の名前へ、手を伸ばし始めていた。




