第11話 名付けた人
夜が明けても、星守澄の名前は戻らなかった。
顔は分かる。
白い髪も、穏やかな声も、子どもたちの肩にそっと置かれる手も、みんな覚えている。
けれど、呼び方だけが喉の手前で迷子になる。
「えっと……先生」
食堂の入り口で、小さな子がそう言った。
先生。
間違いではない。
けれど、足りない。
いつもなら自然に出てくるはずの「院長先生」という呼び名が、口の中でほどけて、そこまでたどり着かない。
呼ばれた澄は、ほんの少しだけ目を細めた。
悲しそうに見えた。
でもすぐ、いつものように微笑む。
「はい。どうしました?」
その声は穏やかだった。
穏やかすぎて、ましろは胸が痛くなった。
昨夜、空白の王冠はましろの名前を剥がそうとした。
けれど、悠太の声がましろをこちら側へ引き戻した。
ましろお姉ちゃんは、ましろお姉ちゃんでしょ。
その言葉で、ましろは戻ってこられた。
王冠は去った。
けれど、最後に残していった。
次に消えるのは、名付けた人。
その言葉の通り、今朝、星守澄という名前は孤児院のあちこちで薄くなっていた。
院長室の扉にかかっていた名札。
書類の署名。
古い名簿の管理者欄。
子どもたちの生活記録の最後に添えられた名前。
星守澄。
その文字は、どれも朝霧に濡れた炭みたいに、端からぼやけていた。
ましろは食堂の奥に立つ澄を見つめた。
澄はいつも通り、子どもたちにスープをよそっている。
パンの大きさを見て、小さい子には少し小さくちぎって渡す。
熱いカップを持とうとした子には、先に声をかける。
泣きそうな子には、理由を聞く前に背中を撫でる。
全部、いつも通りだった。
名前だけが、そこにない。
それが、こんなにも怖い。
「ましろ」
ねむが隣に来た。
目の下には、相変わらず深いくまが居座っている。
手にはメモ帳。
今朝はもう、表紙に新しい文字が増えていた。
星守澄を忘れるな。
「書いたんだ」
ましろが言うと、ねむは頷いた。
「起きてすぐ。書かないと危なかった」
「危なかった?」
「院長先生の名前を思い出す時、頭の中が白くなった」
ねむはメモ帳の文字を親指でなぞる。
「星守、までは出る。でもその先が空白になる。澄って書いたら戻った」
「澄……」
ましろはその名前を口の中で転がした。
星守澄。
今まで何度も聞いた名前のはずだった。
書類にも、手紙にも、孤児院の看板にもあった。
でも、ましろ自身がその名前を声に出して呼んだことは、ほとんどない。
院長先生。
ずっと、そう呼んできた。
優しい役割の名前。
帰る場所の名前。
でもそれは、星守澄という人そのものの名前ではなかった。
「ねむ」
「何」
「私、院長先生の名前をちゃんと呼んだこと、あったかな」
ねむは少しだけ黙った。
それから、食堂の奥で子どもにパンを渡している澄を見た。
「たぶん、ない」
「だよね」
「でも、それは悪いことじゃないと思う」
ねむは言った。
「院長先生って呼ばれて、院長先生でいられた時間もあるんでしょ」
ましろは頷く。
「うん」
「でも今は、足りない」
ねむの声は静かだった。
「役割だけだと、王冠に剥がされる。たぶん、あの人自身の名前を呼ばなきゃいけない」
ましろは胸元を押さえた。
青い宝石は、昨夜からずっと熱を持っている。
痛いほどではない。
けれど、澄の名前を考えるたびに、小さな星が内側から爪を立てるように脈打った。
「レムに聞こう」
「そうだね」
「あと、ソラにも」
ねむが言った。
「忘れられる側のことは、たぶんソラが一番知ってる」
窓際の席を見ると、ソラがそこに座っていた。
両手でミルクのカップを包み、じっと澄を見ている。
ソラの席札は、今朝も残っていた。
ソラの席。
帳ソラ。
また明日。
何度も書き直された文字は、まだ少し頼りない。
でも、消えてはいない。
ましろが近づくと、ソラは顔を上げた。
「おはよう、ましろ」
「おはよう、ソラ」
「院長先生のこと?」
ましろは少し驚いた。
「分かるの?」
「分かるというより、似てる」
ソラはカップの中のミルクを見つめた。
「僕が薄くなる時と、少し似てる。でも、院長先生の方が深いところから削られてる」
「深いところ?」
「僕は、人の記憶から外れやすい。でも、僕自身の中にはまだ僕がいる」
ソラは自分の胸元に手を当てる。
「でも院長先生は、本人の中からも名前が薄くなり始めてる気がする」
ましろは息を止めた。
本人の中から。
自分の名前を、自分で支えられなくなる。
それはどれほど怖いことだろう。
澄は今も笑っている。
子どもたちの前で、何事もないように朝食を配っている。
それなのに、彼女自身の中で、星守澄という名前が少しずつ白くなっている。
「どうすればいいの?」
ましろが聞くと、ソラは困ったように笑った。
「僕の時みたいに、書けば少しは残ると思う。呼べば、もっと残る」
「うん」
「でも、それだけじゃ足りないかも」
「どうして?」
「院長先生は、ましろに名前をつけた人だから」
ソラの声は小さかった。
「名前をつけるって、たぶん、ただ呼び名を渡すだけじゃないんだと思う。自分の一部を、相手の帰る場所に縫い込むみたいなことなんじゃないかな」
ましろは、澄の背中を見た。
ましろに名前をくれた人。
久遠ましろ。
その名前は封印だと、レムは言った。
本当の名前からましろを守るための名。
けれど、ましろは今、その名前で泣いたり笑ったりしてきた。
ねむに怒られた。
悠太に呼ばれた。
レムに減点された。
ソラと出会った。
この名前で生きてきた。
封印だったとしても。
借り物だったとしても。
そこには、もう十六年分の体温がある。
「星守澄さん」
ましろは小さく呟いた。
慣れない呼び方だった。
口の中で少し引っかかる。
でも、その名前を声にした瞬間、食堂の空気がわずかに揺れた。
澄がこちらを見た。
ほんの一瞬。
ましろの胸元の宝石も、かすかに光った。
礼拝室には、いつもより多くのものが集められていた。
院長室から運ばれた古い書類。
名簿。
手紙。
子どもたちの生活記録。
誕生日カード。
退院した子から届いた便り。
どれにも、星守澄の名前があった。
あったはずだった。
けれど今は、どれも薄い。
星守、までは読めるもの。
澄、だけが霞んでいるもの。
逆に、澄だけが残って姓が白くなっているもの。
まるで、名前が自分の形を忘れ始めているみたいだった。
レムは杖の宝石の中で、いつになく険しい顔をしていた。
「名付けた者を削る。厄介な選択ね」
「王冠は、院長先生を消そうとしているの?」
ましろが聞くと、レムは少し黙った。
「消すというより、ほどこうとしている」
「ほどく?」
「久遠ましろという封印名は、ただ紙に書いた名前ではないわ。名付けた者の記憶、祈り、後悔、約束。その全部が糸になって、あなたを今の名前に留めている」
ましろは胸元に手を当てた。
「その糸が、院長先生?」
「少なくとも、大きな一本」
レムの声が低くなる。
「王冠はあなたの名前を直接剥がしきれなかった。だから、今度はその名前を支える糸を切ろうとしている」
ねむが腕を組む。
「性格悪い」
「ええ」
レムはすぐに頷いた。
「かなり」
澄は祭壇のそばに立っていた。
自分の名前が薄れている本人なのに、一番静かだった。
静かすぎて、ましろは少し腹が立った。
「院長先生」
澄が顔を上げる。
「はい」
「怖くないんですか」
そう聞いた瞬間、礼拝室の空気が少しだけ止まった。
ねむもソラも、レムも黙った。
澄はましろを見つめる。
それから、困ったように微笑んだ。
「怖いですよ」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
「とても」
ましろは何も言えなくなる。
澄は自分の胸元に手を当てた。
そこには、白くなりかけた名札がある。
星守澄。
読もうとすると、文字の端がにじむ。
「自分の名前が、自分の中から遠くなっていくのは、不思議な感覚です」
澄は言った。
「私は、星守澄です。そう言える。けれど、言った後で、誰のことを言ったのか一瞬分からなくなる」
「院長先生……」
「役割は残ります。子どもたちを守らなければならない。食事を出さなければならない。怪我をすれば手当てをする。眠れなければ隣に座る」
澄は小さく息を吸った。
「でも、その奥にいたはずの私が、少しずつ薄くなる」
言葉にした途端、彼女の名札がほんの少し白くなった。
ましろは反射的に叫びそうになった。
けれど澄が、手で制した。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃありません」
ましろの声は思ったより強かった。
澄が目を瞬く。
ましろは一歩近づいた。
「院長先生は、すぐそう言います。私を守るためって言って黙って、自分が怖いことは後回しにして、いつも大丈夫みたいな顔をして」
自分で言いながら、ましろは途中で少しだけ息を詰まらせた。
それは、いつかねむに言われた自分の姿にも似ていた。
すぐ謝る。
すぐ自分を後回しにする。
だからこそ、今、言わなければいけない気がした。
「大丈夫じゃないなら、そう言ってください」
澄の瞳が揺れた。
青灰色の瞳。
ましろが幼い頃から見てきた、優しい目。
「私たちは、守られるだけじゃありません」
ましろは言った。
「院長先生の名前も、守りたいです」
澄は何か言おうとした。
けれど、声になる前に唇を閉じた。
代わりに、静かに目を伏せる。
その横で、ねむがぼそりと言った。
「ましろが言うと説得力が半分くらい旅に出るけど、今日は正しいです」
「半分も?」
ましろが振り向く。
「戻ってきてほしいなら、普段の行動を改善して」
「今その話?」
「今だから」
ソラが小さく笑った。
その笑い声で、ほんの少しだけ空気がほどけた。
レムが咳払いのように言う。
「方法はあるわ」
全員の視線がレムに集まる。
「名付け返し」
「名付け返し?」
ましろが聞く。
「名を与えられた者が、名付けた者の名を呼び返す儀式よ。正式な術式ではない。もっと古い、ほとんど祈りに近いもの」
「それで院長先生の名前が戻る?」
「戻る可能性はある」
レムは澄を見る。
「ただし、ただ呼べばいいわけではない。星守澄という名前に結びつく記憶が必要よ。記録、声、手触り、匂い、温度。名前がその人に戻るための足場を集める」
「足場……」
ソラが小さく呟く。
「名前が立つ場所」
「そう」
レムは頷いた。
「白い空白は、その足場を消してくる。だから、こちらは逆に、足場を作る」
ねむがメモ帳を開く。
「つまり、院長先生の名前に関係するものを集める」
「ええ」
「子どもたちにも?」
「もちろん。呼んだ声が多いほどいい。ただし、無理に思い出させると逆に白くなる可能性がある」
「面倒」
「同感ね」
澄が口を開いた。
「子どもたちを巻き込むのは――」
「巻き込まれています」
ねむが即答した。
澄が言葉を止める。
ねむは眠そうな目のまま、まっすぐ澄を見た。
「もう巻き込まれてる。なら、知らないまま怖がるより、自分たちの名前を守る方がいいです」
「ねむ……」
「あと、院長先生がいなくなると困ります」
ねむは少しだけ視線を逸らした。
「ましろがたぶん、かなり面倒になります」
「そこ?」
ましろが言うと、ねむは真顔で頷いた。
「かなり」
ソラも小さく頷いた。
「たぶん、かなり」
「ソラまで」
澄はそのやり取りを見て、ほんの少しだけ笑った。
けれど、その笑みの端はすぐに薄くなる。
名札の文字が、また少し白くなった。
猶予は長くない。
ましろはそう感じた。
名付け返しのため、ましろたちは孤児院の中を歩いた。
まずは院長室。
古い木の扉。
小さな鉢植え。
壁の時計。
机の上に整えられた書類。
そこには、星守澄の生活の跡があった。
澄が毎朝使うペン。
子どもたちの薬箱。
古い茶器。
誰かからもらった押し花の栞。
ましろは、それらをひとつずつ手に取った。
「院長先生って、いつもこのペンを使ってますよね」
「ええ」
澄が頷く。
「あなたが七歳の時、誕生日にくれたものです」
ましろは目を瞬いた。
「私が?」
「そうですよ。商店街の文具屋で、ずいぶん悩んで選んでくれました」
「覚えてない……」
「その頃のあなたは、青いインクばかり選んでいました」
澄は懐かしそうに言った。
「理由を聞いたら、星が沈んだ色だから、と」
ましろはそのペンを見る。
古びた万年筆。
持ち手のところが少し擦れている。
自分がこれを選んだ。
澄が、ずっと使ってくれていた。
その事実が、胸の奥に小さな灯りを置いた。
ねむがメモ帳に書く。
星守澄。
青いペン。
ましろが七歳の時に贈った。
その文字は、少しだけ紙に沈んだ。
さっきより重い。
ねむが小さく言う。
「乗った」
「乗った?」
「名前が紙に乗った感じがする」
レムが頷いた。
「いい兆候ね」
次は薬箱。
ましろは、幼い頃に高熱を出した夜を思い出した。
雨が降っていた。
廊下の窓が真っ黒で、世界中に自分と熱だけしかないような夜。
澄はずっとそばにいた。
冷たい布を額に置き、背中をさすり、水を飲ませてくれた。
ましろはあの時、たぶん何度も泣いた。
母親がほしいと泣いたのかもしれない。
自分でも覚えていない。
けれど、澄の手だけは覚えている。
骨ばっていて、温かくて、少し薬草の匂いがした手。
「院長先生の手、薬草の匂いがします」
ましろが言うと、澄は自分の手を見る。
「昔から薬箱を触ることが多いので」
「その匂いで安心してました」
澄の表情が揺れた。
名札の「澄」の字が、ほんの少し濃くなる。
ましろはそれを見た。
本当に、記憶が名前を支えている。
言葉だけではなく。
物でもなく。
そこにあった温度が、名前の下に土を戻していく。
院長室を出ると、子どもたちが待っていた。
ユリ。
カナ。
トウマ。
リオ。
悠太。
みんな、少し不安そうな顔をしている。
けれど、逃げてはいない。
悠太が一番前に出た。
スケッチブックを抱えている。
「院長先生の名前、呼べばいいの?」
「うん」
ましろはしゃがみ込む。
「でも、無理に思い出さなくていいよ。覚えてることを、ひとつずつ言ってくれたらいい」
悠太は考えた。
それから、スケッチブックを開く。
そこには、澄の絵が描かれていた。
白い髪。
長い服。
少し大きすぎる手。
そして、周りにたくさんの小さな星。
「これ、院長先生」
悠太は言った。
「ぼくが夜こわい時、背中とんとんしてくれる」
澄が息を呑んだ。
悠太は続ける。
「あと、パンの耳をカリカリにしてくれる」
「それは私も好き」
ユリが言った。
「私が転んだ時、怒らなかった」
カナが言う。
「泣いてもいいけど、傷は見せてくださいって言った」
トウマは少し考えてから言った。
「僕が皿を割った時、先に手を見た」
「手?」
「怪我してないかって」
リオが言う。
「名前を呼ぶ時、ちゃんと目を見る」
子どもたちの声が、ぽつりぽつりと落ちていく。
どれも小さな記憶だった。
大きな事件ではない。
すごい魔法でもない。
けれど、それらは確かに星守澄という人を形づくっていた。
ねむが全部を書き留める。
ソラは隣で、名札を見ていた。
「濃くなってる」
ましろが振り向く。
澄の胸元の名札。
星守澄。
確かに、少しだけ文字が戻っていた。
けれど、それは同時に、白い空白を呼び寄せてもいた。
名札の周りに、薄い霜のような白が浮かび始める。
ソラが眉を寄せた。
「来てる」
「王冠?」
「たぶん、欠片」
礼拝室の方から、白い風が流れてきた。
風なのに、音がない。
紙の余白だけを剥がして作ったような風。
それが廊下を這い、子どもたちの足元へ近づいてくる。
レムの声が飛んだ。
「離れて!」
ましろは杖を構えた。
けれど、白い風はましろを避けた。
ましろではない。
澄へ向かっている。
名札へ。
星守澄という文字へ。
澄は子どもたちの前に立った。
「下がりなさい」
その声は、いつもの院長先生だった。
だが、白い風が彼女の足元に触れた瞬間。
「院長先生」
ユリが小さく言った。
「……なんで、前にいるの?」
ましろの胸が冷たくなる。
守られた記憶が抜かれている。
澄が前に立つ理由。
その温度が、子どもたちの中から剥がされようとしている。
「だめ」
ましろは杖を振る。
「ルミナス・ベル!」
鐘の音が廊下に広がる。
白い風が揺らいだ。
けれど消えない。
王冠の欠片は、まるで風の形をした空白だった。
そこに攻撃する場所がない。
ねむがランタンを掲げる。
青黒い光が白い風を照らした。
すると、風の中に小さな文字の殻が見えた。
院長。
先生。
星守。
澄。
呼び名の欠片。
それらが噛み砕かれ、白い粉になっている。
「気持ち悪い」
ねむが低く言う。
「人の呼び方を食べてる」
ソラが一歩前に出た。
「僕、見える」
「ソラ?」
「名前の残りかすが、どこを通ってるか」
ソラは白い風を見つめた。
「廊下じゃない。名札から名札へ、呼び名の道を通ってる」
「呼び名の道?」
「みんながいつも呼んでいる言葉の跡」
ソラの声が少し震える。
「院長先生。澄先生。星守さん。そういう呼び方が、道になってる」
レムが即座に言う。
「なら、道を上書きする。呼んで!」
ましろは振り返った。
子どもたちは震えている。
でも、悠太が一歩前に出た。
「星守澄先生!」
その声が廊下に響く。
白い風が一瞬だけ止まった。
ユリも、涙を拭きながら言う。
「星守澄先生!」
カナが続く。
トウマも。
リオも。
子どもたちの声が、廊下に重なる。
星守澄先生。
星守澄先生。
星守澄先生。
それは少しぎこちなかった。
普段の「院長先生」より長くて、少し言いにくい。
けれど、だからこそ強かった。
ただの役割ではない。
その人自身の名前を含んだ呼び声。
白い風が後退する。
ましろは杖を握り直した。
「星守澄さん」
初めて、はっきりそう呼んだ。
澄がましろを見る。
ましろの喉が少し震えた。
それでも続ける。
「あなたは、私に名前をくれた人です」
礼拝室の奥で、時計台の鐘がかすかに鳴る。
まだ遠い。
けれど、聞こえる。
「久遠ましろという名前が封印だとしても」
ましろは言った。
「隠すための名前だったとしても」
胸元の宝石が熱くなる。
「私は、その名前で生きてきました」
ねむが隣に立つ。
ソラも、悠太も、子どもたちも、澄を見ている。
「その名前で、ねむに怒られて」
「かなり怒った」
ねむが小さく言う。
「悠太くんに呼ばれて」
「ましろお姉ちゃん!」
悠太が叫ぶ。
「レムに減点されて」
「それは必要な指導よ」
レムが言う。
「ソラに会って」
ソラが少しだけ笑う。
「うん」
ましろは澄を見る。
「だから、久遠ましろは嘘だけじゃありません」
澄の瞳が揺れる。
「ましろ……」
「あなたがくれた名前は、私の帰る場所になりました」
その瞬間、白い風が大きく揺らいだ。
澄の名札が、強く光る。
星守澄。
文字の下に、青白い根のような線が伸びる。
廊下の床へ。
壁へ。
孤児院そのものへ。
まるで、澄という名前が、この家にもう一度根を張り直していくみたいだった。
白い風の奥で、王冠の欠片が形を取る。
小さな王冠。
本体よりずっと小さい。
けれど、同じ空白の白をまとっている。
その欠片が、ましろを見た。
――名付けは、鎖。
声がした。
――鎖を断てば、星は戻る。
ましろは杖を構える。
「違う」
今度は、迷わなかった。
「名前は鎖になることもある。でも、それだけじゃない」
白い欠片が震える。
「名前は、帰る場所にもなる」
ましろの杖に光が集まる。
鐘の音。
歌の声。
子どもたちが呼んだ、星守澄先生という少しぎこちない声。
全部が混ざる。
「ルミナス・ベル!」
光の鐘が鳴った。
廊下に、澄んだ音が広がる。
白い風がほどけていく。
王冠の欠片が砕ける。
その中から、黒い星屑ではなく、白い羽根のようなものが一枚落ちた。
ましろは息を呑む。
羽根は床に触れる前に、淡い光へ変わった。
そこに、一瞬だけ声が残る。
――名付けた者は、罪を持つ。
その声は、王冠のものだったのか。
それとも、もっと古い誰かのものだったのか。
分からなかった。
白い風は消えた。
廊下に、子どもたちの泣き声と、荒い息遣いだけが残る。
澄の名札は戻っていた。
星守澄。
完全ではない。
端がまだ少し白い。
でも、読める。
ましろは力が抜け、その場に座り込んだ。
ねむが隣にしゃがむ。
「大丈夫?」
「たぶん」
「そのたぶん、今日は許す」
「ありがとう」
「早い」
ソラは澄の名札を見ていた。
「戻った」
「うん」
ましろは頷く。
「でも、完全じゃない」
「うん」
ソラは小さく言った。
「でも、完全じゃなくても、残ってる」
ましろはその言葉に救われた気がした。
完全ではない。
でも、残っている。
それは今の彼らにとって、十分すぎるほど大切だった。
澄は、しばらく自分の名札を見下ろしていた。
それから、ましろの前に膝をついた。
「ましろ」
「はい」
「ありがとう」
その声には、いつもの穏やかさが戻っていた。
けれど、その奥にまだ震えがある。
ましろは首を振った。
「私だけじゃありません。みんなで呼びました」
「ええ」
澄は子どもたちを見る。
「聞こえていました」
悠太がスケッチブックを抱えて近づいてくる。
「星守澄先生」
澄は目を丸くした。
悠太は少し得意げに笑う。
「言えた」
澄は口元を押さえた。
泣きそうな顔だった。
けれど、泣かなかった。
代わりに、悠太の頭をそっと撫でた。
「はい。よく言えました」
その夜。
院長室に、古い箱が出された。
澄が、自分で持ってきたものだった。
木でできた小箱。
鍵穴には、星の形の飾りがついている。
ましろ、ねむ、ソラ、レム。
そして悠太。
全員が礼拝室に集まっていた。
子どもたちはもう眠っている。
けれど悠太だけは、「わすれないノート係」として残ることを許された。
本人は眠そうにしながらも、必死に起きている。
澄は箱を開けた。
中には、古い紙束が入っていた。
名付け録。
そう書かれている。
表紙の文字は、少しかすれているが、まだ読めた。
ましろは息を詰める。
「それは……」
「星見坂孤児院で、特別な保護を必要とする子に名前を与えた時の記録です」
澄は静かに言った。
「普通の名簿とは違います。結界と結びつく名前を記すもの」
レムが黙っている。
その沈黙が、これが重要なものだと告げていた。
澄はページをめくる。
古い名前がいくつもあった。
読めないもの。
かすれたもの。
消されたもの。
ましろは、それらを直視できなかった。
いくつもの名前が、かつてここにあった。
誰かが守ろうとした。
守れた名前も、守れなかった名前もある。
やがて、澄の手が一枚のページで止まった。
そこには、ましろの名前があった。
久遠ましろ。
十六年前の日付。
流星群の夜。
ましろの胸元の宝石が、静かに光る。
その下に、名付けた者の欄があった。
星守澄。
その文字は戻っていた。
けれど、その横に、もう一つの空欄があった。
細長い空白。
そこだけ、最初から誰かの名前を待っていたように白い。
ましろは目を凝らした。
「名付けた者……二人?」
澄は何も言わなかった。
レムも。
ソラも。
ねむが低く言う。
「院長先生」
澄はゆっくり目を閉じた。
「私は、あなたに名前を与えました」
その声は静かだった。
「けれど、私一人で決めた名前ではありません」
ましろは息を忘れた。
「どういうことですか」
澄は、名付け録の空白に指を置く。
その指先が、ほんの少し震えていた。
「久遠は、私が願った名です」
ましろは聞いていた。
「あなたが、長く続く時間の中でも、自分を失わないように」
澄の指が、次の文字をなぞる。
ましろ。
「でも、ましろという響きは」
その瞬間、礼拝室の鏡がかすかに揺れた。
誰も触れていない。
鏡面に、白い髪の少女の影が一瞬だけ映る。
ましろに似ている。
でも、ましろではない。
その少女は、こちらを見ていた。
悲しそうに。
そして、どこか懐かしそうに。
澄の声が、かすれた。
「私が、最初に呼んだ名ではありません」
ましろの胸元の宝石が、強く光った。
悠太のスケッチブックが、ぱらりと開く。
白い髪の少女の絵。
七つの星。
その横に、新しい文字が浮かび上がる。
名付けた人は、まだいる。
文字はすぐに薄れた。
けれど、消えなかった。
時計台の鐘が、遠くで鳴る。
ごん。
一度だけ。
針が、また一分進んだ。
これで、九分。
ましろは名付け録の空白を見つめていた。
そこに誰の名前が入るのか、まだ分からない。
けれど、分かってしまったことがある。
久遠ましろという名前は、ただの封印ではなかった。
一人の願いだけでもなかった。
そこには、もう一人の誰かがいる。
白い髪の少女。
歌を聞いていた人。
また歌ってね、と残した人。
ましろの本当の名前の近くに立つ誰か。
澄は静かに言った。
「話さなければならない時が、来ているのかもしれません」
ましろは顔を上げる。
澄の名札は、まだ少し白い。
けれど、その声はもう、逃げていなかった。
「ましろ」
「はい」
「次は、私が覚えている限りのことを話します」
礼拝室の外で、夜が深くなる。
時計台の針は、九分進んだまま止まっている。
王冠はまだ、どこかでこちらを見ている。
それでも、ましろは頷いた。
自分の名前をくれた人。
その名を支えたもう一人。
そして、本当の名前へ続く空白。
知らなければならない。
でも、飲み込まれてはいけない。
ましろは胸元の宝石に手を当てた。
「聞かせてください」
青い宝石が、静かに光った。
まるで、遠いどこかで眠っていた名前が、
ほんの少しだけ寝返りを打ったみたいに。




