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第12話 白は空白じゃない

星守澄は、名付け録の前に座っていた。


礼拝室の夜は、まだ終わらない。


高い窓の外には星があり、時計台の針は九分進んだまま止まっている。


まるで時間そのものが、次に動く理由を待っているみたいだった。


祭壇の上には、古い名付け録。


その開かれたページには、ましろの名前がある。


久遠ましろ。


十六年前の日付。


流星群の夜。


名付けた者、星守澄。


そして、その横にある細い空白。


もう一人の名付け人がいるはずの場所。


そこだけが、最初から世界に書かれることを拒まれていたみたいに白かった。


ましろは、その空白から目を離せなかった。


白い。


ただ白い。


けれど、昨夜見た名札の白とは違う気がした。


王冠の白は、あったものをなかったことにする白だった。


けれど、この空白は。


何かを隠している。


あるいは、何かを待っている。


そんな白だった。


「ましろ」


澄が静かに呼んだ。


その声は戻っていた。


完全ではない。


けれど、星守澄という名前は、確かに彼女の中に戻りつつある。


子どもたちが呼んだ声。


ねむが書き留めた記憶。


ソラが見つけた違和感。


ましろが、初めてはっきり呼んだ名前。


それらが、澄をこちら側へ引き戻した。


それでも、澄の胸元の名札の端には、まだうっすらと白が残っている。


王冠の爪跡。


ましろはそれを見るたび、胸の奥が冷たくなった。


「話します」


澄は言った。


「私が覚えている限りのことを」


ねむは壁際に立っている。


眠そうな目をしているのに、まったく眠そうではない。


手にはメモ帳。


夢見のランタンは足元に置かれ、青黒い光を小さく揺らしていた。


ソラは少し離れた窓辺にいる。


自分の輪郭を確かめるように、時々、指先を握ったり開いたりしていた。


悠太は椅子に座り、スケッチブックを膝に置いている。


眠気に負けかけているのに、目だけは必死だった。


レムは杖の宝石の中で、いつものように腕を組んでいた。


けれど今日は、皮肉の準備をしている顔ではなかった。


もっと古い傷に触れる前のような、硬い沈黙をまとっていた。


澄は名付け録に指を置いた。


「十六年前の流星群の夜。あなたが孤児院の門前に置かれる少し前、時計台は止まりました」


ましろは窓の外を見る。


北棟の時計台。


止まっていたはずの針は、王冠の異変が起きるたびに少しずつ進んでいる。


今は九分。


「時計台は、ただ止まったわけではありません」


澄は続ける。


「十二分を、失ったのです」


「十二分?」


ねむが聞き返す。


「ええ。あの夜、時計台から十二分だけが消えました。針は止まっているように見えた。でも本当は、時間が隠された」


「時間が隠されたって、何ですか」


「起きたことを、世界が覚えないための隙間です」


澄の声が少し低くなる。


「名前を隠すためには、時々、時間ごと隠さなければならないことがある」


ましろは息を呑んだ。


時間ごと隠す。


それは、名前を消すよりもずっと大きなことのように聞こえた。


「その十二分の中で、私は彼女に会いました」


澄の指が、名付け録の空白をなぞる。


「もう一人の名付け人です」


礼拝室の鏡が、かすかに鳴った。


ちり、と。


誰も触れていない。


けれど、鏡面の奥で白い光が一瞬だけ揺れた。


ましろの胸元の宝石も、それに応えるように淡く光る。


「彼女は、白い髪をしていました」


澄は言った。


「長い白銀の髪。夜明け前の雪のような色でした。けれど、冷たくはなかった」


澄の目が、遠くを見る。


今の礼拝室ではない。


十六年前の、失われた十二分。


そこに視線を沈めている。


「礼拝室の鏡から現れたのです。扉を開けたわけでも、窓から入ったわけでもありません。鏡の奥から、水面を抜けるように」


ねむの指が、メモ帳の上で止まった。


「鏡……」


ねむの夢に出てきた鏡。


白い髪の少女。


その夢の冷たい水の匂いが、ましろの中にもかすかに戻ってくる。


見たことのないはずの景色。


けれど、もう他人の夢ではなくなっていた。


夢は、少しずつ現実へ染みている。


澄は続ける。


「彼女はひどく疲れていました。歩くたびに星屑のような光が床へ落ちて、すぐに消えた。胸元には、あなたと同じ青い光がありました」


ましろは胸を押さえた。


「私と同じ……?」


「同じではありません。似ていました」


レムが低く言った。


全員の視線がレムへ向く。


レムは、鏡を見ていた。


「彼女の光は、ましろの宝石よりも割れていた。長く使いすぎた星みたいに」


「レム、知ってるの?」


ましろが聞くと、レムはすぐには答えなかった。


宝石の中の小さな少女は、唇を結ぶ。


それから、珍しく少しだけ目を伏せた。


「知っているわ」


その一言で、礼拝室の空気が変わった。


ましろは息を止める。


レムが知っている。


澄も知っている。


ソラも、どこか知っているような顔をしている。


自分だけが知らない。


胸元の宝石が、小さく熱を持った。


澄は名付け録の空白に視線を戻す。


「彼女は、赤ん坊が来ると言いました。名前を持たない子が、この孤児院へ戻ってくると」


「戻ってくる?」


ましろの声が震えた。


置かれていた、ではなく。


来る、でもなく。


戻ってくる。


澄は頷いた。


「ええ。戻ってくる、と」


ましろの手が、膝の上で強く握られる。


この孤児院に、自分は戻ってきた。


それはどういう意味なのか。


自分はここに来る前、どこにいたのか。


澄は、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「私は彼女に尋ねました。その子は何者なのか。なぜ名前を隠さなければならないのか。本当の名前は何なのか」


「答えたんですか」


「いいえ」


澄は首を横に振った。


「彼女は、本当の名前だけは言いませんでした」


ましろは、なぜか少しだけ安心した。


同時に、怖くもなった。


本当の名前を言わない人が、また一人増えた。


でも、その沈黙はたぶん、隠したいからではない。


守るため。


あるいは、言ったら壊れるから。


「代わりに、彼女はこう言いました」


澄の声が、小さく震えた。


「この子の名前は、一つに戻してはいけない」


礼拝室が静まり返る。


ねむが小さく眉をひそめた。


「名前を、一つに戻してはいけない?」


レムが目を閉じる。


ソラは、窓辺で自分の指先を見た。


悠太は意味が分からないまま、でも大事なことだと分かったのか、スケッチブックを強く抱きしめる。


澄は言った。


「彼女は、あなたの本当の名前は強すぎる、と言いました。ひとつの音として戻れば、王冠に見つかる。星骸にも、古い扉にも、名前を欲しがるものすべてに」


「だから、隠した」


ましろが言う。


「ええ」


澄は頷く。


「ただ隠すのでは足りなかった。彼女は、名前を七つの帰る場所に散らす必要があると言いました」


悠太が顔を上げた。


「七つ?」


彼のスケッチブックが、かすかに光る。


七つの星。


ずっと描かれてきた星。


青く塗られた星。


黒い王冠の線が浮かんだ星。


ましろは悠太を見る。


「悠太くんの星……」


悠太はスケッチブックを開いた。


いつものページ。


大きな孤児院。


ましろ。


ねむ。


レム。


ソラ。


院長先生。


白い髪の少女。


そして、七つの星。


そのうちいくつかは、もう淡く色づいている。


青。


金。


灰。


黒に近い紫。


けれど、まだ完全には塗られていない。


「ぼく、ずっと七つあるから描いてた」


悠太は小さく言った。


「でも、七つが何かは分かんない」


「あなたは、覚えているのではなく記録しているのね」


レムが言う。


「本人の理解より先に、手が拾っている」


悠太は首を傾げた。


「むずかしい」


「つまり、すごいということよ」


「ほんと?」


「微妙に」


「微妙かあ」


ねむが横を向いて、少しだけ笑いをこらえた。


この場面で笑いそうになる自分を、ましろは少しだけ不思議に思った。


けれど、その小さな笑いがなければ、怖さに飲まれていたかもしれない。


澄は続ける。


「彼女は、七つの帰る場所と言いました。呼ぶ声。記す手。夢の灯り。忘れられた席。名付けた者。共にある杖。そして――」


そこで、澄の声が止まった。


最後のひとつだけが、喉の奥で白くなったみたいに。


レムの表情が変わる。


「言わないで」


「レム?」


「まだ早い」


レムの声は鋭かった。


「七つ目は、まだ名を持っていない。今ここで形にすると、王冠に道を与える」


「七つ目は、王冠に名前を渡さない」


悠太が、ぽつりと言った。


全員が彼を見る。


悠太自身も、言ったあとで驚いたように口を押さえた。


「今の、ぼく?」


「悠太くん」


「分かんない。でも、そう言わなきゃって思った」


スケッチブックの七つ目の星が、淡く震えた。


黒い王冠の線が、少しだけ浮かび上がる。


そして、すぐに消えた。


ましろの胸元の宝石が、強く光る。


七つの帰る場所。


名前を一つに戻してはいけない。


その言葉は、怖いのに、少しだけ腑に落ちた。


ましろの本当の名前は、ただ宝石の奥に隠されているのではない。


ばらばらにされている。


呼ぶ声に。


書く手に。


夢に。


席に。


名付けた人に。


杖に。


そして、まだ名前を持たない何かに。


だから、王冠は一つずつ触れている。


記憶。


席。


歌。


名札。


名付けた人。


全部、ましろの名前を支えるものだった。


「じゃあ、王冠は」


ましろの声がかすれる。


「私の本当の名前を、集めようとしているんですか」


澄は何も言わなかった。


代わりにレムが答えた。


「そうでしょうね」


その声は、いつもより冷たかった。


「でも、ましろのために集めるのではない。王冠は、名前を持たない。だから、強い名前を冠にしたがる」


「冠に?」


「名前は頭に載せるものではないわ」


レムは言った。


「名前は、呼ばれるものよ」


その言葉は静かだった。


でも、どこか怒っていた。


ましろは、自分の胸元を押さえる。


名前は冠ではない。


誰かの上に載せて支配するものではない。


誰かが誰かを呼ぶためのもの。


帰ってくるためのもの。


「だから、彼女は白を残したんです」


澄が言った。


「白?」


ましろが聞き返す。


澄は名付け録の空白を見つめる。


「彼女は、あなたの名前に“ましろ”という響きを残しました」


ましろの胸が、静かに鳴った。


久遠ましろ。


自分がずっと名乗ってきた名前。


その半分。


ましろ。


「私は、久遠という名を願いました」


澄は言う。


「長く続く時間の中でも、あなたが失われないように。どこかで本当の名に触れてしまっても、戻ってこられるように」


澄の指が、名付け録の文字をなぞる。


久遠。


「けれど、ましろという響きは、彼女が残したものです」


ましろは、鏡を見た。


白い髪の少女の影が、また一瞬だけ揺れる。


「どうして、ましろなんですか」


澄は答えようとした。


けれど、その前に、鏡面が淡く光った。


白い髪の少女が、そこに立っていた。


今度は少し長く映っている。


透明で、遠くて、今にも消えそうなのに、確かにそこにいる。


ましろとよく似た顔。


けれど、目の奥が違った。


長く失い続けた者の目。


それでも、何かを諦めきれなかった者の目。


少女の唇が動いた。


声は、鏡の奥からではなく、ましろの胸の中から聞こえた。


――白は、空白じゃない。


ましろは息を止めた。


――白は、まだ何も失っていない色。

――空白は、あったものをなかったことにする穴。


鏡の中の少女は、ましろを見ていた。


――あなたを、空白に渡さないために。


胸元の宝石が、強く光った。


ましろという名前が、初めてましろの中で別の響きを持った。


白いから何もないのではない。


白いから、これから呼ばれる声を受け取れる。


白いから、染まることができる。


白いから、消されたものとは違う。


ましろは小さく呟いた。


「白は、空白じゃない」


その言葉が礼拝室に落ちた瞬間、名付け録の空白に細い線が浮かんだ。


一文字。


また一文字。


消えかけては戻る。


まるで、誰かが遠くから指でなぞっているみたいに。


ソラが息を呑んだ。


「見える」


「読める?」


ねむが聞く。


「少し」


ソラは名付け録へ近づいた。


その顔は青ざめていた。


忘れられた文字を見ることは、ソラにとって簡単なことではない。


自分も一緒に薄くなる危険がある。


ましろは止めようとした。


でも、ソラは先に言った。


「つらくなったら逃げる」


ましろは言葉を飲み込んだ。


ねむが小さく頷く。


「よろしい」


ソラは名付け録を見つめた。


「星……」


文字が震える。


「白……」


白い髪の少女の影が、鏡の中で少しだけ目を細める。


ソラの声がかすれる。


「ミ……」


ねむが夢見のランタンを近づけた。


青黒い光の中に、金色の火が灯る。


空白の文字が、ほんの少しだけ深くなる。


ねむが言う。


「レ」


悠太がスケッチブックを開いた。


いつの間にか、白い髪の少女の絵の下に、小さな文字が浮かんでいる。


悠太はそれを指でなぞった。


「ア」


ましろの唇が震えた。


星白。


ミレア。


その名前が、礼拝室にまだ落ちていない。


ましろは、鏡の少女を見る。


「あなたは」


声が震える。


「星白ミレア……?」


その名前を口にした瞬間。


時計台の鐘が鳴った。


ごん。


一度だけ。


けれど、その音は礼拝室の外からではなく、名付け録のページの中から響いた。


空白に、文字が浮かぶ。


もう一人の名付け人。


星白ミレア。


文字は薄い。


けれど、読める。


確かに、そこにある。


レムが、小さく息を呑んだ。


「ミレア……」


その声は、いつものレムではなかった。


毒舌も、冷静さも、減点もない。


ただ、長い間閉じ込めていた名前を、ようやく口にした声だった。


ましろはレムを見る。


「レムの、知っている人?」


レムはしばらく黙っていた。


それから、宝石の中で小さく頷いた。


「私の、最初の契約者よ」


礼拝室が静かになる。


星律の杖。


レム・ステラ。


ましろの相棒。


その前に、星白ミレアという契約者がいた。


白い髪の少女。


ましろに“ましろ”という響きを残した人。


「ミレアは」


レムの声がかすかに震える。


「名前を守るために、名前を失った人よ」


ましろは何も言えなかった。


鏡の中のミレアは、ただ静かにこちらを見ている。


その表情は寂しそうだった。


でも、少しだけ安心しているようにも見えた。


名付け録の文字が、淡く光る。


久遠ましろ。


星守澄。


星白ミレア。


三つの名前が、同じページに並んだ。


その瞬間、ましろの胸元の宝石から、細い光の糸が伸びた。


ひとつは澄へ。


ひとつはレムへ。


ひとつは鏡の中のミレアへ。


ひとつは悠太のスケッチブックへ。


ひとつはねむのランタンへ。


ひとつはソラの席札へ。


そして最後の一本は、どこにも繋がらず、空中で震えていた。


七本目。


まだ名前のない帰る場所。


それを見た瞬間、ましろは息が止まりそうになった。


「七つ……」


ねむが呟く。


「あとひとつ、足りない」


レムは黙っていた。


澄も。


ソラも。


悠太だけが、スケッチブックの最後の星を見つめていた。


その星はまだ塗られていない。


黒い王冠の線も消えている。


ただ、白いまま。


空白ではなく。


まだ色を待っている白。


ミレアの声が、もう一度ましろの胸に届いた。


――最後の白を、急いで塗らないで。


ましろは鏡を見る。


「どういう意味?」


ミレアの輪郭が少しずつ薄くなる。


――名前は、早く完成させればいいものじゃない。


鏡面に、細かいひびのような光が走る。


――呼ばれるだけでは足りない。

――書かれるだけでも、夢に見るだけでも、守られるだけでも足りない。


ましろは息を呑む。


――その名で何を選ぶか。


ミレアの声が、遠くなる。


――最後の星は、あなたが選ぶ場所。


鏡の中の少女は、ましろに向かって微笑んだ。


ほんの少し。


「待って!」


ましろは一歩踏み出した。


「あなたは誰なの? 私の未来なの? 過去なの? それとも――」


ミレアは答えなかった。


ただ、消える寸前に唇を動かした。


声は、ほとんど聞こえなかった。


けれど、ましろには分かった。


――まだ、あなたではない。


鏡の光が消えた。


礼拝室に、静けさが戻る。


誰もすぐには喋れなかった。


ましろは胸元の宝石を押さえる。


まだ、あなたではない。


その言葉は、答えではなかった。


でも、否定でもなかった。


未来かもしれない。


過去かもしれない。


同じ名前の欠片かもしれない。


けれど、今のましろではない。


それだけが、はっきりしていた。


澄が静かに言った。


「彼女は、あなたに似ていました」


ましろは澄を見る。


「けれど、あなたではありませんでした」


「本当に?」


「ええ」


澄は少しだけ迷ってから続けた。


「少なくとも、私が会った彼女は、久遠ましろではありませんでした」


その言い方が、少しだけ引っかかった。


久遠ましろではない。


なら、何だったのか。


星白ミレア。


名前を守るために、名前を失った人。


レムの最初の契約者。


ましろに“ましろ”を残した人。


「どうして、その人は私に名前を残したんですか」


ましろが聞くと、澄は名付け録を見る。


「彼女は言いました」


澄の声が、少しだけ若い記憶を帯びる。


「この子がいつか、自分の本当の名を怖がる日が来る。その時、白を思い出せるように、と」


「白を……」


「本当の名前は強すぎる。けれど、“ましろ”は柔らかい。何度でも呼び直せる。何度でも書き直せる。間違えても、また上から光を置ける」


澄はましろを見る。


「だから、ましろ。あなたの名前は、ただの封印ではありません」


その言葉に、ましろの喉が詰まる。


「祈りだったのです」


ましろは、泣きそうになった。


久遠ましろ。


借り物だと思っていた名前。


本当ではないと思っていた名前。


封印だと知って、少しだけ怖くなった名前。


でも、そこには澄の願いがあった。


ミレアの祈りがあった。


孤児院のみんなの声が積もっていた。


ましろは、その名前でここまで来た。


「私は」


ましろは小さく言った。


「ましろでいても、いいんですね」


ねむが即答する。


「今さら?」


ましろは目を瞬いた。


「え?」


「ましろはずっとましろでしょ」


悠太が大きく頷く。


「うん。ましろお姉ちゃん」


ソラも微笑む。


「僕も、そう呼んでる」


レムは少しだけ顔を逸らした。


「少なくとも、今の持ち主としてはその名で登録済みよ」


「登録?」


「気にしなくていいわ」


「気になる」


「減点」


「久しぶりに出た」


ましろは小さく笑った。


その笑いは少し震えていた。


でも、ちゃんと自分のものだった。


その時。


名付け録のページに、黒い線が走った。


誰も触れていない。


星白ミレアの名前の横に、小さな王冠の印が浮かぶ。


ましろは息を呑む。


レムの表情が凍った。


「見つかった」


「何が?」


「ミレアの名を戻したことで、王冠に道が一本増えた」


「そんな」


澄が名付け録を閉じようとする。


けれど、ページは閉じなかった。


黒い王冠の印が、ゆっくりと広がる。


ミレアの名前を飲み込もうとしている。


ましろは手を伸ばした。


「だめ!」


その瞬間、レムの宝石が強く光った。


星律の杖が震える。


宝石の中のレムが、胸元を押さえた。


「レム?」


ましろが呼ぶ。


レムの輪郭が、少しだけ白く霞んだ。


ほんの一呼吸。


けれど、確かに。


ましろの血の気が引く。


「レム!」


レムは歯を食いしばるように言った。


「大丈夫」


「大丈夫じゃない」


「まだ、持つ」


レムの声は硬かった。


けれど、いつもの強がりとは違う。


本当に痛みを飲み込んでいる声だった。


ソラが杖を見る。


「レムの名前にも、触ってる」


「どうして?」


ましろが聞くと、レムは名付け録のミレアの名を見た。


「私はミレアの契約精霊だった。彼女の名が戻れば、私との契約線も戻る」


「それが王冠に見つかった?」


「ええ」


レムは小さく息を吐いた。


「まったく。懐かしい名前を取り戻した瞬間にこれなんて、演出が悪趣味ね」


ねむが低く言う。


「冗談言ってる場合?」


「冗談を言えるうちはまだ大丈夫ということよ」


「それ、一番信用できないやつ」


ましろは杖を両手で握った。


「レムの名前も、守る」


レムはましろを見る。


一瞬だけ、いつもの皮肉が消えた。


「あなたは、本当にすぐ守ると言うわね」


「だめ?」


「いいえ」


レムは少しだけ微笑んだ。


「八十八点」


ましろは泣きそうになりながら笑った。


「高い」


「調子に乗ると減点」


「うん」


名付け録の王冠印は、まだ消えない。


けれど、ミレアの名前は飲み込まれなかった。


ましろが杖を握り、ねむがランタンを掲げ、ソラが名付け録の端に手を添え、悠太がスケッチブックに星を描く。


澄が星守澄という自分の名を、静かに声に出す。


「星守澄」


その声に、名付け録が応えた。


星白ミレアの文字が、淡く光る。


王冠の印が、少しだけ後退する。


完全には消えない。


でも、今は守れた。


時計台の鐘が、遠くで鳴った。


ごん。


一度だけ。


針が、また一分進む。


これで、十。


ねむが小さく言った。


「十二分まで、あと二分」


礼拝室の空気が冷える。


十二分。


失われた夜。


名前を隠すために切り取られた時間。


その時間が、少しずつ戻ってきている。


もし十二分すべてが戻ったら。


何が起きるのか。


誰も聞かなかった。


聞かなくても、分かる気がしたからだ。


名付け録のページが、最後にもう一度だけ光った。


ましろはそこに書かれた三つの名前を見る。


久遠ましろ。


星守澄。


星白ミレア。


その下に、誰の手でもない細い文字が浮かぶ。


白を空白にするな。


文字はすぐに消えた。


けれど、ましろは覚えていた。


白は、空白じゃない。


ましろは胸元の宝石に手を当てる。


遠いどこかで、名前がまた寝返りを打った気がした。


まだ目覚めてはいけない名前。


でも、もうただ怖がるだけではいられない名前。


ましろは、自分の名を小さく呼んだ。


「久遠ましろ」


それから、もう一度。


「ましろ」


青い宝石が、静かに光った。


その光は白かった。


でも、空白ではなかった。

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