第13話 最初の契約者
その夜、レムは一度も減点しなかった。
ましろが椅子の脚に足をぶつけても。
悠太が眠気に負けて、スケッチブックに顔をくっつけたまま船をこいでも。
ねむが夢見のランタンを抱えたまま、半分寝て半分起きているような顔をしていても。
レムは何も言わなかった。
それが、ましろには少し怖かった。
いつものレムなら、何か言う。
「注意力散漫」とか。
「寝るなら寝なさい、起きるなら起きなさい」とか。
「その姿勢は首に悪い」とか。
たぶん、そういうことを言う。
なのに、今夜のレムは、杖の宝石の中でずっと黙っていた。
青い光の奥に、小さな少女の姿がある。
淡い銀桃色の髪。
青い瞳。
白と水色の衣装。
いつも通りのはずなのに、いつもより少し遠く見えた。
まるで宝石の中にいるのではなく、もっと古い星の記憶の底に沈んでいるみたいだった。
礼拝室の祭壇には、名付け録が開かれたまま置かれている。
そこには、三つの名前が並んでいた。
久遠ましろ。
星守澄。
星白ミレア。
その名前を見つけてから、礼拝室の空気は変わってしまった。
誰も大きな声を出さない。
時計台の針は、十分進んだまま止まっている。
あと二分。
失われた十二分が戻るまで、あと二分。
それが何を意味するのか、誰もまだ言葉にしない。
言葉にしたら、本当に近づいてしまう気がした。
ましろは、杖の宝石を見つめた。
「レム」
返事はなかった。
「レム」
もう一度呼ぶ。
宝石の奥で、レムの肩がほんの少し揺れた。
「……聞こえているわ」
声はいつもより低い。
「だったら返事して」
「返事をする必要がある質問ではなかったから」
「名前を呼ばれたら、返事してほしい」
ましろがそう言うと、レムは一瞬だけ黙った。
その沈黙の中に、何かが刺さったような気配があった。
「そうね」
レムは小さく言った。
「名前を呼ばれたら、返事をするべきだった」
ましろは、その言葉の向こうに誰かがいるのを感じた。
星白ミレア。
白い髪の少女。
レムの最初の契約者。
名前を守るために、名前を失った人。
ましろに“ましろ”という響きを残した人。
「ミレアさんのこと、聞いてもいい?」
そう尋ねると、レムはすぐには答えなかった。
宝石の中で、彼女の指が小さく握られる。
いつもの腕組みではない。
何かを落とさないように、必死で掴んでいるような手だった。
「聞けば、近づくわ」
「何に?」
「王冠に。ミレアに。あなたの本当の名前に」
レムはましろを見た。
「近づけば、戻れなくなることもある」
「でも、知らないままでも、王冠は近づいてきてる」
ましろは名付け録を見る。
星白ミレアの文字は、薄く光っていた。
完全に戻ったわけではない。
けれど、もう消えてはいない。
その横には、黒い王冠の印がうっすら残っている。
王冠は、ミレアの名前を見つけた。
そして、その線を通って、レムにも触れようとしている。
「レムの名前も、危ないんでしょう」
レムの目が細くなる。
「誰から聞いたの」
「誰からでもないよ」
ましろは杖を握る。
「見れば分かる。レム、さっきからずっと薄い」
「失礼ね。私はもともと小さいだけよ」
「そういう意味じゃない」
「分かっているわ」
レムは目を伏せた。
「契約線が揺れているの。ミレアの名が戻ったことで、古い線が開いた。王冠はそれを辿ろうとしている」
「契約線……」
「契約は、ただの約束ではないわ。名前と名前の間にできる道。共に戦い、共に帰るための道」
レムの声が、少しだけ震えた。
「そこを王冠に触られると、私の記憶も削られる」
ましろの胸が冷たくなった。
「レムが、ミレアさんのことを忘れるってこと?」
「可能性はある」
「嫌だ」
ましろは即座に言った。
レムが顔を上げる。
「まだ何も起きていないわ」
「嫌だよ」
ましろは杖を両手で握った。
「ミレアさんの名前が戻ったのに、今度はレムが忘れるなんて嫌だ」
レムは何か言い返そうとして、やめた。
代わりに、いつものように少しだけ眉を上げる。
「感情論ね」
「うん」
「対策としては雑」
「でも、本当」
レムはしばらくましろを見ていた。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「七十一点」
「低い」
「感情論としては悪くない点数よ」
「それ、褒めてる?」
「保留」
ねむが壁際から低く言う。
「便利な言葉を乱用しないで」
「あなたが広めたのよ」
「責任転嫁」
ソラが小さく笑った。
その笑い声で、張り詰めていた空気が少しだけ揺れる。
澄は名付け録の前に座ったまま、レムを見ていた。
「レム。見せるしかないのではありませんか」
レムの顔が険しくなる。
「澄」
「言葉で話せることには限りがあります」
「記憶は危険よ」
「ええ」
澄は頷く。
「けれど、隠されたままの記憶は、王冠に先に見つけられます」
レムは黙った。
その沈黙が、答えだった。
ねむがランタンを持ち上げる。
「夢見のランタン、使う?」
「夢ではないわ」
レムが言う。
「杖の記憶よ」
「杖にも記憶があるの?」
悠太が眠そうな顔で聞く。
レムは少しだけ悠太を見た。
「あるわ。物にも、場所にも、名前にも記憶はある。誰かに長く呼ばれ、使われ、触れられたものほど濃く残る」
「じゃあ、杖はいっぱい覚えてる?」
「覚えすぎているくらいよ」
その言葉は、少しだけ痛そうだった。
レムはましろを見た。
「見せられるのは、断片だけ。全部見ようとすれば、あなたの名前が反応する」
「うん」
「ミレアの本当の願いには近づきすぎない」
「分かった」
「王冠の声がしても答えない」
「分かった」
「私が止めたら止まること」
「……分かった」
「今の間は減点対象」
「やっぱり減点するんだ」
「必要だから」
レムは杖の中で深く息を吸うような仕草をした。
宝石が光る。
礼拝室の床に、淡い星の線が浮かび上がった。
名付け録。
夢見のランタン。
悠太のスケッチブック。
ソラの席札。
澄の名札。
そして、星律の杖。
それぞれから細い光の糸が伸び、祭壇の上で結ばれていく。
まるで、ばらばらに浮かんでいた星を、もう一度星座に戻しているみたいだった。
「ねむ」
レムが言う。
「ランタンで境界を照らして。夢の方へ落ちないように」
「了解。落ちたら?」
「引っ張り戻して」
「雑」
「あなたならできる」
ねむは少しだけ顔をしかめた。
「そういう信用の仕方、嫌いじゃないのが嫌」
「ソラ」
レムが続ける。
「忘れられた文字が混じったら教えて。王冠の白と、記憶の白を見分けられるのはあなた」
ソラは頷いた。
「つらくなったら逃げる」
「ええ。逃げなさい」
「レムが逃げていいって言うの、珍しいね」
「逃げることを知っている人間は、戻ってくる道も覚えやすい」
ソラは一瞬だけ目を丸くした。
それから、静かに頷いた。
「悠太」
レムが呼ぶと、悠太は背筋を伸ばした。
「はい!」
「見えたものを描いて。意味が分からなくてもいい。あなたの手は、理解より早い」
悠太はスケッチブックを開く。
「分かった」
「澄」
レムの声が少しだけ低くなる。
「あなたは、名付け録を閉じないで。何があっても」
澄は名付け録に手を添えた。
「分かりました」
最後に、レムはましろを見た。
「ましろ」
「うん」
「私を呼び続けなさい」
ましろは目を瞬いた。
「レムを?」
「そう。私の名前を」
レムの目が、ほんの少しだけ揺れる。
「もし私が薄くなったら、呼んで。レム・ステラと」
ましろは杖を握り直した。
「うん。絶対呼ぶ」
「絶対は危険な言葉よ」
「じゃあ、何度でも呼ぶ」
レムは、少しだけ笑った。
「八十二点」
「今日は高いね」
「今日くらいはね」
宝石の光が強くなる。
ましろの視界が、静かにほどけた。
礼拝室の床が遠ざかる。
壁が溶ける。
星の線が流れる。
音が消え、代わりに古い鐘の余韻だけが残った。
ましろは落ちているのか、浮いているのか分からなかった。
ただ、杖を握る手の感触だけがある。
レム。
レム・ステラ。
心の中で名前を呼び続ける。
やがて、白い光が晴れた。
ましろは、知らない夜に立っていた。
そこは星見坂孤児院ではなかった。
いや、似ている。
丘の上。
白い壁。
星の紋章。
けれど、建物は今の孤児院よりずっと新しい。
蔦はまだ絡まっていない。
門の鐘も、まだ錆びていない。
空には、星が多すぎるほどあった。
夜空というより、星の海の底にいるみたいだった。
「ここは……」
ましろが呟くと、隣でレムの声がした。
ただし、宝石の中からではない。
ましろの隣に、小さなレムが立っていた。
いつもの姿。
でも、少しだけ透けている。
「杖の記憶。私が初めて、星白ミレアと契約した夜」
その名前を聞いた瞬間、風が吹いた。
星の匂いがした。
本当に星に匂いがあるのかは分からない。
でも、ましろにはそう思えた。
冷たくて、少し焦げた砂糖みたいな匂い。
門の前に、白い髪の少女が立っていた。
星白ミレア。
長い白銀の髪が、夜風に揺れている。
年齢は、ましろより少し上に見えた。
けれど、その目はもっとずっと遠くを知っている。
彼女の胸元には、青白い宝石があった。
ましろのものと似ている。
でも、確かに違った。
その宝石には細いひびが入っていた。
光は綺麗なのに、どこか痛そうだった。
ミレアの手には、星律の杖がある。
今ましろが持っているものと同じ杖。
けれど、少しだけ装飾が違う。
白と金の輪が今より細く、杖先の宝石の周りに小さな銀の羽根が浮かんでいた。
その宝石の中に、今より少し幼いレムがいた。
「レムって、昔からその姿なんだ」
ましろが言うと、隣のレムは少しだけ眉を寄せた。
「精霊の姿は、契約者が見やすい形になる。ミレアには、こう見えていた」
「ましろにも、同じように?」
「ええ」
「どうして?」
「……似ているのよ」
レムはそれ以上言わなかった。
記憶の中のミレアが、杖を掲げる。
空から、黒い星屑が降っていた。
ましろは息を呑む。
星骸。
けれど、今まで見たものとは違った。
形がない。
仮面も、腕も、核もない。
ただ、名前のない感情が星屑になって降っているみたいだった。
それが地面に触れるたび、小さな文字が浮かび、すぐに消える。
「これは?」
「名になる前の欠片」
レムが言う。
「誰にも呼ばれなかった願い。途中で捨てられた約束。名前をもらう前に消えた子どもの声」
「そんなものまで、星骸になるの?」
「なるわ。世界は、呼ばれなかったものをどこかへ捨てるほど器用じゃない」
ミレアが杖を振った。
鐘の音が鳴る。
りん。
今のましろのルミナス・ベルより、少し低い音。
青白い光が広がり、降っていた黒い星屑が、静かにほどけていく。
攻撃ではなかった。
慰めるような光。
眠れない子の額に、そっと手を置くような魔法。
星屑の中から、小さな光がいくつも昇った。
それらは夜空へ帰っていく。
「ミレアは、戦う人だったの?」
ましろが聞くと、レムは少し考えた。
「戦うしかなかった人よ」
その言い方に、ましろは胸が痛くなった。
記憶の中のミレアが、杖の宝石を覗き込む。
幼いレムが何かを言っている。
声はまだ聞こえない。
ましろが耳を澄ますと、音が近づいた。
「だから言ったでしょう、単独で突っ込むのは三十四点」
幼いレムの声だった。
今とほとんど変わらない。
ミレアは、くすりと笑った。
「昨日より一点上がった」
「上がったことを喜ぶ点数ではないわ」
「じゃあ、明日は三十五点を目指す」
「目標設定が低すぎる」
ましろは思わずレムを見た。
「点数って、ミレアさんの時から?」
レムは目を逸らした。
「……必要な評価だったのよ」
「本当に?」
「少なくとも、最初は」
記憶の中のミレアは、星屑が消えた夜空を見上げていた。
笑っている。
けれど、その手は震えていた。
レムの声が少しだけ柔らかくなる。
「ミレアはいつも無茶をした。自分の痛みを数えない人だった。だから私は、点数をつけた」
「低い点数で止めるため?」
「違うわ」
レムはミレアを見つめる。
「次も生きて戻る理由にするため」
ましろは言葉を失った。
三十四点。
三十五点。
低くても、点数がつく。
つまり、まだ次がある。
まだやり直せる。
まだ続きがある。
レムの減点は、ただの毒舌ではなかったのかもしれない。
「じゃあ、私に点数をつけるのも」
「調子に乗らせないためよ」
「本当に?」
「……それだけではないわ」
レムの声は小さかった。
記憶が変わる。
星見坂孤児院のような建物が遠ざかり、白い部屋が現れた。
ましろはその部屋を知っている気がした。
夢で見たことがある。
名前を思い出しかけた時に、何度か脳裏をよぎった。
白い壁。
白い床。
窓のない部屋。
中央には、青い宝石が浮かんでいる。
その周りに、七つの小さな星が回っていた。
ミレアがそこに立っている。
髪は少し短くなっていた。
いや、違う。
切られたのではない。
光が欠けている。
ましろは直感した。
これは、契約の始まりではない。
もっと後の記憶だ。
そして、たぶん。
帰り道が失われる夜の記憶だった。
ミレアは、疲れている。
かなり。
杖の宝石の中のレムも、黙っていた。
部屋の奥には、黒い王冠があった。
今ましろたちを襲っている空白の王冠より、まだ形が定まっていない。
王冠というより、誰かが冠の形を思い出せずに作った影。
欠けて、歪んで、内側だけが白い。
ミレアはそれに向かって立っていた。
王冠の声が響く。
――名を、ひとつに。
ミレアは答えない。
――ひとつの名は、ひとつの冠。
ミレアは杖を構える。
「名前は、頭に載せるものじゃない」
その声は静かだった。
けれど、怒っていた。
「呼ばれて、返事をするものよ」
ましろは息を呑む。
レムが言った言葉。
名前は冠ではない。
名前は呼ばれるもの。
それは、ミレアの言葉だった。
王冠の影が揺れる。
――呼ばれないものは、どこへ行けばいい。
ミレアの表情が、ほんの少しだけ歪んだ。
その問いは、彼女を傷つけた。
ましろにも分かった。
王冠は、ただの悪意ではない。
呼ばれなかったもの。
帰る場所を持てなかったもの。
名前を欲しがったもの。
だからこそ、危険だった。
ミレアは一歩も引かなかった。
「だからって、誰かの名前を冠にしていい理由にはならない」
王冠が広がる。
白い光が部屋を飲み込む。
ミレアの胸元の宝石にひびが入った。
レムが叫んだ。
「ミレア!」
記憶の中のレムと、隣にいるレムの声が重なった。
ましろは反射的に杖を握ろうとした。
けれど、これは記憶だ。
手は届かない。
ミレアは、胸元の宝石を押さえながら笑った。
「大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
レムが叫ぶ。
「出力が落ちてる。名前の外殻が削られてる。これ以上は――」
「レム」
ミレアは宝石の中のレムを見た。
「もし私が戻れなくなったら」
「言わないで」
「次の子をお願い」
「言わないで!」
レムの声が、今まで聞いたことのないくらい鋭かった。
幼い姿なのに、泣きそうだった。
ミレアは杖を胸に抱いた。
「星律の杖は、武器じゃない」
「知ってる」
「名前を帰すための杖」
「知ってる!」
「それから」
ミレアは少しだけ笑った。
「ひとりで正しさを抱え込んじゃだめ」
レムが黙る。
「あなた、すぐ採点するけど、自分には点数をつけないでしょう」
「私は精霊よ。対象外」
「対象外にしないで」
ミレアの声は優しかった。
「失敗しても、点数が低くても、生きて次をやればいい。レムも」
レムの小さな手が宝石の内側に触れる。
「私は、あなたと契約している」
「うん」
「契約者を守るのが、私の役目」
「違うよ」
ミレアは首を振った。
「契約は、守る側と守られる側を決めるものじゃない」
白い光が強くなる。
ミレアの輪郭が薄くなる。
「一緒に帰るための約束だよ」
ましろの胸に、その言葉が落ちた。
一緒に帰るための約束。
契約。
相棒。
杖。
レムは何も言えなかった。
王冠の白が部屋を満たす。
ミレアは杖を振った。
七つの星が、青い宝石の周りで強く光る。
「名前を一つに戻してはいけない」
ミレアが言う。
「七つに散らして。七つの帰る場所に」
七つの星が、それぞれ別の方向へ飛んだ。
呼ぶ声。
記す手。
夢の灯り。
忘れられた席。
名付けた者。
共にある杖。
そして、最後の白。
その白の奥には、名を残した者の祈りがあった。
七つ目だけが、まだ誰のものとも決まっていない。
ましろ自身が、いつか選ぶための白だった。
王冠が叫ぶ。
――欠けた名など、名ではない。
ミレアは、白い光の中心で微笑んだ。
「欠けているから、誰かが呼べるの」
その言葉と同時に、部屋が砕けた。
ましろは思わず目を閉じた。
次に開いた時、景色は変わっていた。
鏡の前。
星見坂孤児院の礼拝室に似た場所。
ただし、今よりもずっと静かで、夜の底に沈んでいる。
ミレアは鏡の前に立っていた。
杖は、彼女の手から離れている。
床に置かれている。
その宝石の中で、レムが泣いていた。
声は聞こえない。
でも、泣いているのが分かった。
ミレアの胸元の宝石は、ほとんど砕けかけている。
彼女は、鏡の向こうを見ていた。
鏡の中には、別の夜が映っている。
流星群。
星見坂孤児院の門。
白い布に包まれた赤ん坊。
まだ名前のない子。
ましろは、息を止めた。
自分だ。
ミレアは、その赤ん坊を見ていた。
手を伸ばす。
けれど、鏡の向こうには届かない。
「ごめんね」
ミレアは言った。
「あなたに全部を渡さないために、私はあなたから遠くなる」
ましろの胸元が熱くなる。
ミレアの声は、直接ましろに向けられているようだった。
「本当の名前は、いつかあなたを呼ぶ。でも、すぐには行かないで」
ミレアは、鏡越しに赤ん坊を見つめる。
「白を残すから」
その時、背後で若い星守澄が現れた。
今よりずっと若い。
けれど、目の奥にある優しさと悲しみは同じだった。
澄はミレアを見る。
「あなたは何者なのですか」
ミレアは微笑んだ。
「名前を守れなかった者です」
「その子の母親ですか」
「違います」
「未来の姿ですか」
「違います」
ミレアは少しだけ考える。
「でも、遠くない」
若い澄は言葉を失う。
ミレアは鏡の向こうの赤ん坊を見た。
「この子に、名前を」
「本当の名を?」
「いいえ。本当の名はまだだめ」
「では、何と」
若い澄の声が震える。
ミレアは、しばらく黙った。
それから、澄を見た。
「あなたの願いを半分」
「私の?」
「この子が、長い時間の中でも戻ってこられるように」
澄の唇が動く。
「久遠……」
ミレアは頷く。
「そして、私の祈りを半分」
白い髪が、鏡の光に溶ける。
「ましろ」
若い澄が、その響きを繰り返した。
「久遠、ましろ」
その瞬間、鏡の向こうで赤ん坊の胸元に青い光が宿った。
ましろは、自分の名前が生まれる音を聞いた。
それは鐘ではなかった。
歌でもなかった。
二人の声が、ひとつの名になった音。
久遠。
ましろ。
封印。
祈り。
時間。
白。
全部が混ざって、ましろという名前になった。
ミレアは、杖を若い澄へ差し出した。
「いずれ、この杖はあの子の元へ行きます」
「あなたは?」
若い澄が聞く。
ミレアは答えなかった。
代わりに、杖の宝石の中のレムを見た。
「レム」
宝石の中のレムは、顔を上げない。
ミレアは優しく言った。
「次の契約者に、点数をつけてあげて」
「嫌」
レムの声が聞こえた。
小さく、震えている。
「そんなの、嫌」
「低くてもいいから」
「嫌よ」
「続きがあるって、教えてあげて」
レムが顔を上げた。
ミレアは笑っていた。
「あなたは私を守れなかったんじゃない」
「守れなかった!」
レムの叫びが、礼拝室を揺らす。
「あなたの名前が削られていくのを見ていた。契約線が切れるのを止められなかった。あなたが鏡の向こうへ行くのを止められなかった。私は、何も――」
「レム」
ミレアの声は静かだった。
「あなたは、私と帰ろうとしてくれた」
レムは言葉を失った。
「それで十分」
「十分じゃない」
「十分だよ」
ミレアは杖の宝石に指を触れた。
「でも、次は一緒に帰って」
「次?」
「ましろと」
ましろの胸が、痛いほど光った。
ミレアは、まるでこちらが見えているみたいに、鏡越しにましろを見た。
記憶の中なのに。
過去のはずなのに。
その目は、今のましろに届いていた。
「レムを、道具にしないで」
ミレアは言った。
「相棒にしてあげて」
ましろは息を止めた。
「レムは強い。でも、強いものほど自分の痛みをしまい込む。だから、呼んであげて」
ミレアの輪郭が薄くなる。
鏡の向こうの流星群が強くなる。
「レム・ステラって」
ましろは、無意識にその名前を口にした。
「レム・ステラ」
記憶の中のレムが、はっと顔を上げる。
今のレムも、隣で息を呑んだ。
ミレアが微笑む。
「ほら」
その声は、消えかけていた。
「ちゃんと、次が来た」
白い光が溢れた。
ましろは目を開けた。
礼拝室に戻っていた。
名付け録は開かれたまま。
夢見のランタンは、青黒い光を小さく揺らしている。
悠太はスケッチブックに何かを描いている途中で、ぽろぽろ泣いていた。
ねむはメモ帳を握りしめ、何も言わない。
ソラは窓辺に座り込んでいた。
顔色が悪い。
忘れられた文字を見すぎたのかもしれない。
澄は、目を閉じていた。
静かに、涙を流していた。
そしてレムは。
宝石の中で、ましろを見ていた。
いつものように腕を組んでいない。
点数をつける顔でもない。
ただ、小さく立っていた。
ましろは杖を握った。
「レム」
返事はない。
「レム・ステラ」
宝石の中の少女が、少しだけ震えた。
「いる?」
レムは、ようやく口を開いた。
「……いるわ」
その声は、ひどく小さかった。
ましろは胸がいっぱいになった。
「よかった」
「よくない」
レムはすぐに言った。
けれど、その声はいつもより弱い。
「記憶を見せすぎた。王冠に契約線の位置を知られた。私の判断としては四十点以下よ」
「でも、レムは覚えてた」
レムが黙る。
ましろは言った。
「ミレアさんのこと、覚えてた。ちゃんと」
「全部ではないわ」
「全部じゃなくても」
ましろは杖を両手で包む。
「残ってる」
その言葉に、ソラが顔を上げた。
自分がよく言われる言葉を、レムへ向けていると気づいたのかもしれない。
レムはしばらく何も言わなかった。
やがて、ほんの少しだけ笑った。
「あなたは、本当に人の言葉を勝手に使うのが上手いわね」
「何点?」
「採点拒否」
「初めて出た」
「特別扱いよ」
ねむがぼそりと言う。
「素直にありがとうって言えばいいのに」
レムが即座に返す。
「ありがとう」
礼拝室が止まった。
ねむが目を瞬く。
ましろも、ソラも、澄も、悠太も、全員がレムを見る。
レムはすぐに顔を赤くした。
「何よ」
「いや」
ねむが言う。
「今、世界がちょっと揺れた」
「大げさ」
「王冠より驚いた」
「それは失礼でしょう」
ましろは笑った。
少し泣きながら笑った。
その時、名付け録のページに黒い線が走った。
星白ミレアの名前の横に残っていた王冠の印が、じわりと広がる。
レムの宝石が白く霞んだ。
ましろは杖を握りしめる。
「レム!」
「大丈夫」
レムの声は戻っていた。
「今度は、線の位置が分かる」
「線?」
「王冠が契約線を辿るなら、こちらも辿り返せる」
レムは名付け録を見た。
「ミレアが残した道。私とミレア、そしてましろを繋ぐ線。その途中に、王冠が爪をかけている」
ねむが言う。
「爪を外せる?」
「今はまだ無理」
「また面倒なやつ」
「ええ。でも、見えた」
レムの瞳に、いつもの鋭さが戻る。
「王冠は、名前を奪っているだけじゃない。集めている」
「集める?」
ましろが聞く。
「冠にするためよ」
レムは低く言った。
「ましろの本当の名前を一つに戻し、それを自分の冠にしようとしている」
礼拝室の空気が冷える。
久遠ましろ。
星守澄。
星白ミレア。
レム・ステラ。
七つの帰る場所。
全部が、ひとつの線に繋がり始めている。
ばらばらだった帰る場所が、少しずつ線になっている。
悠太がスケッチブックを開いた。
新しい絵が描かれていた。
白い髪の少女。
その隣に、小さなレム。
二人は手を繋いでいる。
でも、その間に黒い王冠の爪が挟まっていた。
悠太は震える指で、その爪を指さした。
「これ、取らないとだめ」
「うん」
ましろは頷いた。
「取ろう」
レムがましろを見る。
「簡単に言うわね」
「簡単じゃないのは分かってる」
「分かっていないと思う」
「でも、言わないと始まらない」
レムは、少しだけ呆れたように笑った。
「六十点」
「下がった」
「でも、開始点としては悪くない」
ましろは杖を握る。
「レム」
「何」
「ミレアさんは、レムを道具にしないでって言った」
「……ええ」
「だから、私からも言うね」
レムが少し身構える。
ましろはまっすぐ宝石を見た。
「私は、レムを道具にしない」
宝石の光が、ほんの少し強くなる。
「レムは相棒。だから、一緒に帰る」
レムは何も言わなかった。
代わりに、宝石の中で目を伏せた。
その横顔は、小さな精霊ではなく、ずっと長い時間をひとりで歩いてきた誰かに見えた。
やがて、レムは言った。
「契約更新」
「え?」
「今の言葉で、契約線が少し変わった」
「大丈夫なの?」
「ええ」
レムはましろを見る。
「前より、少しまし」
「何点?」
「八十九点」
「高い」
「残り十一点は、これから取りなさい」
「うん」
ましろは頷いた。
その時、時計台の鐘が鳴った。
ごん。
一度だけ。
礼拝室の窓が震える。
名付け録のページが、ぱらぱらとめくれた。
止まっていた針が、また一分進む。
これで、十一分。
失われた十二分のうち、十一分が戻った。
ねむが息を呑む。
「あと一分」
十二分まで、あと一分。
失われた流星群の夜。
ミレアが鏡から現れた十二分。
ましろに名前が与えられる前の、隠された時間。
それが、もうすぐ戻る。
名付け録のページが、最後に一枚だけ開いた。
そこには何も書かれていない。
真っ白なページ。
けれど、ましろはもう、その白を空白だとは思わなかった。
そのページには、まだ書かれていないだけだ。
けれど、次の瞬間。
白いページの中央に、細い文字が浮かび上がった。
十二分目の鐘で、鏡は夜を返す。
文字はすぐに消えた。
でも、全員が見た。
鏡。
夜。
十二分目。
レムが低く言う。
「次の鐘で、十六年前の十二分が戻る」
澄の顔が青ざめる。
ソラは窓の外の時計台を見る。
ねむはランタンを握りしめる。
悠太はスケッチブックを閉じることができずにいる。
ましろは胸元の宝石に手を当てた。
青い光が、静かに脈打っている。
遠い夜が、こちらを呼んでいる。
でも、もうただ怖いだけではなかった。
レムがいる。
ねむがいる。
ソラがいる。
悠太がいる。
澄がいる。
そして、星白ミレアの名前も、もう完全な空白ではない。
ましろは、鏡を見た。
そこには今、何も映っていない。
けれど、次の鐘で。
あの鏡は、夜を返す。
失われた十二分を。
ましろの名前が生まれた、あの夜を。
そしてたぶん。
本当の名前に、一番近いものを。
ましろは小さく息を吸った。
「行こう」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
でも、レムが答えた。
「ええ」
宝石の中の少女は、ましろを見上げる。
「今度は、一緒に帰るわ」
時計台の針は、十一分を指したまま止まっていた。
あと一分。
世界が隠した夜が、もうすぐ目を覚ます。




