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第14話 十二分目の鐘

十二分目の鐘は、すぐには鳴らなかった。


十一分まで進んだ時計台の針は、そこで息を止めたまま、夜の中に浮かんでいる。


まるで、最後の一分だけを誰かが指で押さえているみたいだった。


礼拝室には、ほとんど音がなかった。


眠っている子どもたちの気配が、奥の部屋からかすかに届く。


遠くの床板が鳴る。


窓の外で、風が屋根を撫でる。


それだけ。


けれど、その静けさは安心ではなかった。


何かが鳴る前の沈黙だった。


ましろは祭壇の前に座っていた。


膝の上には星律の杖。


隣には、夢見のランタンを抱えたねむ。


少し離れたところに、ソラがいる。


窓辺に寄りかかっているけれど、その目はずっと時計台の方を向いていた。


悠太は椅子に座り、スケッチブックを抱えたまま、眠気と必死に戦っている。


何度もまぶたが落ちて、そのたびに自分で首を振っている。


星守澄は名付け録の前に座っていた。


その胸元の名札は、まだ少しだけ白い。


星守澄。


読める。


けれど、完全ではない。


名前の端に、霜が残っているようだった。


レムは杖の宝石の中で、ずっと鏡を見ていた。


礼拝室の壁にかかった古い鏡。


いつもはただ暗い室内を映すだけのそれが、今夜は違う。


鏡面の奥に、星のない夜が沈んでいる。


そこに何かが眠っている。


失われた十二分。


十六年前、世界が覚えなかった夜。


ましろの名前が生まれる直前の、隠された時間。


「十二分目が鳴ったら」


ねむが言った。


声は小さい。


でも、眠そうではなかった。


「鏡が夜を返すんだよね」


「ええ」


レムが答える。


「正確には、隠された時間の一部を再生する。けれど、ただの記録ではないわ」


「また面倒な説明の気配」


「実際に面倒なのよ」


レムは視線を鏡から逸らさない。


「過去を見るだけならまだ安全。でも、失われた十二分は封印の内側にある。王冠がそこへ入り込めば、過去の記録そのものを書き換えようとする可能性がある」


ましろは杖を握る手に力を入れた。


「過去を、変えるってこと?」


「正確には、過去が“そうだった”と世界に思い込ませる」


レムの声は硬かった。


「名前に関わることは、それができてしまう。誰かの名が記録から消えれば、周囲の記憶も形を変える。名付けの瞬間を白く塗られれば、久遠ましろという名前は最初から根を張れなかったことになる」


ねむが低く言う。


「つまり、ましろが今ここにいても、ましろとして立てなくなる」


「そう」


礼拝室の空気がさらに冷える。


ましろは自分の胸元に手を当てた。


青い宝石が静かに熱を持っている。


怖い。


でも、怖さの形が少し変わってきていた。


最初は、ただ知らないものが怖かった。


本当の名前が怖かった。


星骸が怖かった。


けれど今は違う。


自分を呼んでくれる声が、奪われることが怖い。


ねむの「ましろ」。


悠太の「ましろお姉ちゃん」。


ソラの、少し遠慮した「ましろ」。


レムの、怒ったような「ましろ」。


澄の、祈るような「ましろ」。


その全部が、なくなることが怖い。


「ましろ」


ソラが呼んだ。


ましろは顔を上げる。


「何?」


「もし向こうで、僕のことを忘れそうになったら」


ソラは窓辺から離れ、少しだけ困ったように笑った。


「呼んで」


ましろは瞬いた。


ソラは続ける。


「僕も、ましろを呼ぶ。たぶん、お互いに呼んでたら少し残れる」


「うん」


ましろは頷いた。


「ソラ」


「うん」


「忘れない」


「忘れたら?」


「また聞く」


「何回でも?」


「何回でも」


ソラは、それを聞いて少し笑った。


「それ、好き」


ねむが横から言う。


「そのやり取り、もう何回目?」


「忘れてもいいように何回もやるんだよ」


ましろが言うと、ねむは少しだけ目を細めた。


「まあ、それは正しい」


悠太が眠そうな声で言った。


「ぼくも呼ぶ」


スケッチブックをぎゅっと抱える。


「ましろお姉ちゃん。ソラくん。ねむお姉ちゃん。レムちゃん。星守澄先生」


レムが眉を動かす。


「ちゃん付けはまだ保留」


「まだ保留なんだ」


「永続保留の可能性もあるわ」


悠太はよく分からないまま頷いた。


「じゃあ、レムちゃん保留」


「呼称が悪化している」


ねむが小さく笑った。


その笑い声が、礼拝室の暗さを少しだけ薄めた。


澄はそんな彼らを見ていた。


とても静かな顔で。


けれど、その目には何かを決めた人の色があった。


「ましろ」


澄が呼ぶ。


「はい」


「十二分目の夜が戻ったら、あなたはきっと、見たいものを見ることになります」


「見たいもの?」


「自分がどこから来たのか。誰が名付けたのか。なぜ隠されたのか」


澄の声は穏やかだった。


「けれど、見たいものが、必ずしも今のあなたを守るとは限りません」


ましろは黙って聞いた。


「知らないままでいることは、もうできないでしょう。けれど、知ることにも順番があります」


「はい」


「だから、ひとつだけ約束してください」


澄はましろをまっすぐ見た。


「どんな声が聞こえても、ひとりで向こう側へ行かないこと」


鏡が、かすかに鳴った。


ましろは一瞬だけ、鏡の奥に白い髪の影を見た気がした。


星白ミレア。


レムの最初の契約者。


ましろに“ましろ”という響きを残した人。


「……分かりました」


ましろは頷く。


「ひとりでは行きません」


「よろしい」


レムが言った。


「そこは九十点」


「高い」


「守れたらの話よ」


「前払いじゃないんだ」


「信用は分割払い」


「レムらしい」


ねむが言う。


「何よ」


「別に。戻ってきたなと思って」


レムは一瞬だけ黙った。


それから、小さく顔を逸らす。


「余計な観察ね」


「得意だから」


ソラがぽつりと言う。


「ねむは、見てないふりをしてよく見てる」


ねむはソラを見る。


「ソラは、急に核心っぽいことを言うのやめて」


「ごめん」


「謝るのもやめて」


「分かった」


「素直なのも困る」


ましろは笑いそうになった。


その時だった。


時計台の針が動いた。


まだ鐘は鳴らない。


けれど、礼拝室の空気が一度だけ沈む。


全員が息を止めた。


窓の外。


北棟の時計台。


長針が、最後の一分へ滑っていく。


十一分。


十一分と半分。


十一分と、もう少し。


世界がゆっくり息を吸っている。


そして。


ごん。


十二分目の鐘が鳴った。


音は外から聞こえた。


けれど同時に、床の下からも、胸の奥からも、名付け録のページからも響いた。


ましろは身体の内側を鐘で打たれたような感覚に襲われる。


青い宝石が強く光った。


夢見のランタンの中で、青黒い火が金色を帯びる。


ソラの輪郭が、一瞬だけ濃くなる。


悠太のスケッチブックが勝手に開く。


名付け録のページが震え、白い空白から星の線が伸びる。


鏡が光った。


鏡面の奥に、夜が戻ってくる。


流星群。


門。


白い布。


若い星守澄。


そして、白い髪の少女。


星白ミレア。


しかし、それはただ映っているだけではなかった。


鏡の中の夜が、礼拝室へあふれ出した。


床に星の光が落ちる。


壁の色が少し若返る。


古い木の匂いに、冷たい夜風が混じる。


ましろたちは、礼拝室にいた。


同時に、十六年前の星見坂孤児院にもいた。


過去と現在が、薄い硝子を重ねたみたいに重なっている。


「始まった」


レムが低く言った。


「誰も鏡から目を離さないで。でも、鏡だけを見すぎないで」


「難しい」


ねむが言う。


「難しいから言っているの」


鏡の中で、若い澄が立っていた。


今よりずっと若い。


けれど、背筋の伸ばし方と、誰かを守ろうとする時の目は同じだった。


その前に、星白ミレアがいる。


白銀の髪。


ひびの入った青い宝石。


手には星律の杖。


宝石の中には、幼いレム。


ましろは、息を止めた。


先ほど、杖の記憶で見た光景。


けれど今は違う。


あれは、レムの側に残っていた欠片だった。


今、鏡が返しているのは、世界そのものが隠した十二分だった。


「あなたは何者なのですか」


若い澄が尋ねる。


ミレアは少しだけ笑った。


「名前を守れなかった者です」


その声が、礼拝室にも響く。


ましろの胸が痛んだ。


ミレアは、自分をそう呼んだ。


名前を守れなかった者。


でも、ましろにはもう、それだけではないと分かっている。


彼女は名前を残した人だ。


白を空白から守った人だ。


ミレアは鏡の向こうに映る赤ん坊を見ていた。


門の前。


白い布。


胸元にまだ宝石のない小さな身体。


ましろは、自分自身の始まりを見ていることに気づいて、足元が少し揺れた。


「本当の名を?」


若い澄が聞く。


「いいえ。本当の名はまだだめ」


ミレアが答える。


「では、何と」


ミレアは、ほんの少しだけ目を閉じた。


「あなたの願いを半分」


若い澄の唇が震える。


「この子が、長い時間の中でも戻ってこられるように」


「久遠……」


若い澄が呟く。


その言葉が礼拝室に落ちた瞬間、ましろの胸元の宝石が柔らかく光った。


久遠。


時間の名。


戻ってこられるようにという願い。


ミレアが頷く。


「そして、私の祈りを半分」


白い髪が、流星の光に照らされる。


「ましろ」


ましろは、その音を初めて聞いたような気がした。


何度も呼ばれてきた名前。


自分の名前。


それなのに、今の「ましろ」は、ずっと古く、ずっと遠く、けれど不思議なほど温かかった。


若い澄が繰り返す。


「久遠、ましろ」


その瞬間、門の前の赤ん坊の胸元に、青い光が灯った。


ましろは自分の名前が生まれるのを見た。


言葉が、光になった。


祈りが、宝石になった。


封印が、帰る場所になった。


その時。


鏡の夜に、白い亀裂が走った。


レムが叫ぶ。


「来る!」


名付けの瞬間に、白い雪が降り始めた。


雪ではない。


名札だった。


何も書かれていない白い名札。


空白の王冠が使う、名前を置く場所を奪う雪。


ミレアが振り向く。


若い澄はまだ気づいていない。


過去の夜の中で、白い名札の雪だけが異物だった。


現在から侵入した王冠の爪。


「過去を書き換える気だ」


ソラが言った。


声が震えている。


「名前が生まれる場所を白くするつもり」


白い名札が、若い澄の足元へ落ちる。


久遠、と言ったばかりの声が、揺らぎ始める。


ミレアの「ましろ」という響きも、白い雪に薄められていく。


ましろは杖を握った。


「止めなきゃ」


「待って」


レムが鋭く言う。


「直接過去に触れると、現在のあなたまで巻き込まれる」


「でも」


「歌で支える」


レムの声は速い。


「過去に手を入れるんじゃない。今ここから、名付けの音を支えるの」


ねむがランタンを掲げる。


「つまり、こっちで呼ぶ」


「ええ」


ソラが名付け録に手を添える。


「書く」


悠太がスケッチブックを開く。


「描く」


澄が名付け録のページを押さえる。


「覚える」


レムが宝石の中で言う。


「そして、ましろが立つ」


ましろは息を吸った。


鏡の中で、白い雪が名付けの夜を埋めようとしている。


若い澄の口元が、久遠という音を忘れかける。


ミレアの唇から、ましろという白が剥がれかける。


ましろは杖を掲げた。


「久遠ましろ」


自分の名前を呼んだ。


鏡の中の赤ん坊の胸元の光が、少しだけ強くなる。


ねむが続く。


「ましろ」


ソラも言う。


「ましろ」


悠太が大きく叫んだ。


「ましろお姉ちゃん!」


レムが、低く澄んだ声で言う。


「久遠ましろ」


澄が震える声で、けれど確かに言った。


「久遠ましろ」


名前が、礼拝室に重なる。


過去の名付けと、現在の呼び声。


二つの時間が同じ音を鳴らす。


白い名札の雪が、空中で止まった。


ミレアが、こちらを見た。


鏡の向こうから。


十六年前の夜から。


今のましろを、はっきりと見た。


「あなた」


ミレアの声が届く。


「来てしまったのね」


ましろは言葉を失った。


見えている。


ミレアには、現在のましろが見えている。


レムが息を呑む。


「ミレア……」


ミレアはレムを見た。


その表情が、少しだけ和らいだ。


「レム」


一言。


それだけで、宝石の中のレムの輪郭が強く光った。


「ミレア」


レムの声は震えていた。


「あなたは、また」


「怒られる時間はないみたい」


ミレアは微笑んだ。


白い名札の雪が、再び動き始める。


鏡の奥で、空白の王冠の影が現れた。


まだ完全な姿ではない。


けれど、王冠の破片が夜の上に浮かんでいる。


――名付けを、白へ。


王冠の声が、過去と現在の両方に響く。


――名を持たぬものへ、冠を。


ミレアは杖を構える。


若い澄は赤ん坊を抱きしめるように立った。


今のましろも杖を構える。


三つの影が、同じ夜に並ぶ。


若い澄。


星白ミレア。


久遠ましろ。


まるで、名前を守るための星座みたいだった。


「ましろ」


ミレアが言った。


「聞いて」


「はい」


「白いものを、全部敵だと思わないで」


ましろは息を呑む。


「王冠の空白は、奪う白。あなたの白は、受け取る白」


白い名札の雪が、周囲を舞う。


ミレアの髪も白い。


ましろという名も白い。


王冠の空白も白い。


同じ色なのに、違う。


「どうやって見分ければいいんですか」


ましろが聞く。


ミレアは、少しだけ寂しそうに笑った。


「呼ばれた時、返事をしたくなる白は、あなたの白」


王冠の影が広がる。


白い名札が、ミレアの足元を埋める。


「呼ばれても、誰も振り返れなくなる白は、王冠の空白」


ましろの胸元が熱くなる。


その言葉は、ましろの中の何かを深く押した。


白は、空白じゃない。


白にも、種類がある。


奪う白。


待つ白。


隠す白。


守る白。


まだ決まっていない白。


ましろは杖を握る。


「じゃあ、私は」


「選んで」


ミレアの声が強くなった。


「白を、何にするか」


王冠が叫ぶ。


白い名札が一斉にましろへ向かう。


レムが叫ぶ。


「ましろ!」


ましろは杖を前に出した。


ルミナス・ベル。


唱えようとして、止める。


鐘だけでは足りない。


浄化だけでは足りない。


これは過去を守る戦いであり、未来の白を決める選択だ。


なら、鐘に届くように、声を重ねるしかない。


ましろは歌った。


星が眠る丘のうえ。


ちいさな鐘が鳴りました。


帰る名前をなくしても。


あかりは窓に、待っている。


ねむが続く。


ソラも。


悠太も。


澄も。


レムも、今度は小さく歌った。


ミレアも鏡の向こうで、同じ歌を歌った。


けれど、歌詞が少し違った。


あかりは窓に、待っている。


その後に、ミレアは一節を足した。


白い名前は、まだ泣かない。


ましろは、その歌詞を知らなかった。


けれど、歌えた。


なぜか、口から出た。


「白い名前は、まだ泣かない」


まだ奪われていない。


まだ、呼ばれるのを待っている。


その瞬間、白い名札の雪の一部が光へ変わった。


奪う白ではなく、待つ白へ。


名札の形をしていた空白が、小さな羽根みたいにほどけていく。


王冠の影が揺らいだ。


――白を、奪うな。


ミレアが言った。


――白を、冠にするな。


ましろも続いた。


「白は、誰かの頭に載せるものじゃない」


杖の光が強くなる。


「名前を待つ場所だよ」


礼拝室の床。


鏡の中の夜。


名付け録のページ。


すべてに青白い光が走った。


王冠の影が後退する。


けれど、完全には消えない。


むしろ、王冠の中心から黒い星が覗いた。


レムの声が硬くなる。


「核が見えた。でも遠い」


「今は倒せない?」


ましろが聞く。


「この夜は過去の封印の内側。ここで倒そうとすれば、名付けごと壊れる」


「じゃあ、どうするの」


ミレアが答えた。


「返す場所を作る」


「返す場所?」


「王冠は、名前を欲しがっている。けれど本当に欲しいのは、冠じゃない」


ミレアの声は、悲しいほど優しかった。


「返事をする場所」


ましろは息を止めた。


名前を奪う王冠。


名前を冠にしようとする存在。


けれど、その奥にいるものは、呼ばれたい。


返事をしたい。


帰る場所がほしい。


「欲しいものの名前を、間違えてるってこと?」


ねむが言う。


「本当は、呼ばれたいだけなのかもしれない」


ましろは呟いた。


「名前を返す……?」


ミレアは微笑んだ。


「次の鐘で」


時計台の針が、鏡の奥にも映っている。


十二分目。


すでに鳴ったはずの鐘。


けれど、まだ余韻が残っている。


ミレアはましろを見る。


「この夜は、長くは開かない。王冠は今、名付けの瞬間を壊せなかった。でも、次は現在へ戻ってくる」


「次って」


「あなたたちの夜へ」


王冠の影が歪む。


白い名札が、今度はミレアへ向かう。


レムが叫んだ。


「ミレア!」


ミレアは動かなかった。


「大丈夫」


「大丈夫じゃない!」


同じやり取り。


杖の記憶で見たものと同じ。


けれど、今のレムは違った。


宝石の中から、強い光を放つ。


「ましろ、契約線を」


「どうすれば?」


「私の名前を呼んで。ミレアの名前も」


ましろは頷いた。


「レム・ステラ!」


宝石が光る。


「星白ミレア!」


鏡の中のミレアの輪郭が強くなる。


「久遠ましろ!」


澄が叫んだ。


若い澄と今の澄の声が重なった。


三つの名前。


レム。


ミレア。


ましろ。


星の線が、鏡を貫いて結ばれる。


白い名札が、ミレアへ届く寸前で止まった。


レムは叫んだ。


「今度は、ひとりで行かせない!」


その声が、過去の夜を震わせた。


ミレアの目が見開かれる。


「レム……」


「契約は、一緒に帰るための約束でしょう!」


ミレアが、泣きそうに笑った。


「覚えてたんだ」


「忘れるわけないでしょう!」


レムの声は怒っていた。


でも、ましろには分かった。


それは泣いている声だった。


契約線が強く光る。


白い名札が砕ける。


王冠の影が、夜の奥へ押し戻されていく。


しかし、その瞬間、王冠がこちらを見た。


過去のミレアではなく。


現在のましろを。


――では、現在で待つ。


声が、冷たく響いた。


――名前を返す鐘を、奪いに。


王冠の影が消えた。


白い雪も消えた。


鏡の中に、流星群の夜だけが残る。


若い澄は赤ん坊を抱いていた。


ミレアは、今にも消えそうだった。


ましろは鏡へ近づく。


「待って」


ミレアがこちらを見る。


「まだ聞きたいことがあるんです」


「うん」


「あなたは、私なんですか」


その問いは、ずっと胸にあった。


未来の自分なのか。


過去の自分なのか。


本当の名前の別の姿なのか。


ミレアは少しだけ首を横に振った。


「私は、あなたではない」


ましろは息を止める。


「でも、無関係でもない」


「どういう意味ですか」


ミレアは胸元のひび割れた宝石に触れた。


「私は、あなたの名前を守るために、遠くへ置かれた白のひとつ」


「遠くへ置かれた、白……」


「人として生きた。契約者として戦った。レムと出会った。たくさん間違えた」


ミレアは微笑む。


「だから、ただの欠片ではないけれど」


その輪郭が、少しずつ薄くなる。


「あなたがあなたでいるために、あなたから遠くなった白」


ましろは、その意味を完全には理解できなかった。


けれど、胸の奥で何かが震えた。


ミレアは、ましろではない。


でも、ましろの名前を守るために存在した人。


だから似ている。


だから遠い。


だから懐かしい。


「私は、あなたを助けられますか」


ましろが聞く。


ミレアは少し驚いた顔をした。


それから、困ったように笑った。


「私はもう、助けられる側ではないよ」


「でも」


「でも、呼んで」


ミレアの声が細くなる。


「星白ミレアって。呼ばれれば、少し残れる」


ましろは、涙がこぼれそうになった。


「星白ミレア」


ミレアの輪郭が、ほんの少し濃くなる。


レムも言った。


「ミレア」


ソラも。


「星白ミレア」


ねむは少し照れくさそうに。


「ミレアさん」


悠太は大きな声で。


「ミレアお姉ちゃん!」


ミレアは目を丸くした。


そして、笑った。


たぶん、初めて本当に笑った。


「お姉ちゃんかあ」


その笑顔は、ましろによく似ていた。


けれど、やっぱり別の人だった。


鏡の光が薄れていく。


若い澄が門へ向かう。


赤ん坊を抱き上げる。


その胸元に、青い宝石が宿っている。


ミレアは最後に、ましろへ言った。


「十二分は戻った」


「はい」


「でも、返された夜は、まだ閉じていない」


「え?」


「王冠は、鐘を待っている」


「どの鐘を?」


ミレアの声が遠ざかる。


「名前を返す鐘」


鏡の夜が揺れる。


「倒すためじゃない。奪われた名前を、帰る場所へ返すための鐘」


ましろは身を乗り出した。


「どうやって鳴らすんですか!」


ミレアは答えなかった。


ただ、口元だけが動いた。


その形を、悠太が見ていた。


悠太はスケッチブックに、急いで何かを書き込む。


鏡の光が消える。


流星群も、若い澄も、赤ん坊も、ミレアも、すべて夜の奥へ戻っていく。


礼拝室に、現在が戻った。


ましろは息をしていた。


膝が少し震えている。


ねむはランタンを抱えたまま、床に座り込んでいた。


ソラは窓辺にもたれ、顔色が悪い。


澄は名付け録に両手を置いている。


レムは宝石の中で、静かに泣いていた。


涙の形はない。


けれど、泣いているのが分かった。


「レム」


ましろが呼ぶ。


「泣いてる?」


「泣いていない」


「うそ」


「精霊に涙腺はない」


「でも泣いてる」


レムはしばらく黙った。


それから、小さく言った。


「少しだけ」


ましろは杖を抱きしめた。


宝石越しに、レムの温度があるわけではない。


でも、今は少しだけ温かい気がした。


「ミレアさん、笑ってたね」


レムは目を閉じた。


「ええ」


「ミレアお姉ちゃんって呼ばれて」


「悠太の命名能力は、ときどき危険ね」


「いい名前だったよ」


「……そうね」


悠太がスケッチブックを持って、ふらふらと近づいてきた。


眠気と興奮で、顔が真っ赤になっている。


「ぼく、見た」


「何を?」


ましろが聞くと、悠太はページを見せた。


そこには、鐘の絵が描かれていた。


孤児院の門の鐘。


時計台の大きな鐘。


星律の杖の先端に浮かぶ小さな鐘。


三つの鐘が、一本の線で繋がっている。


その下に、ひらがなで書かれていた。


なまえを かえすには

なくしたひとだけじゃなくて

もっていったひとも

かえりたいって おもわないとだめ


ましろは、息を呑んだ。


ねむが覗き込む。


「これ、悠太が考えた?」


「わかんない」


悠太は首を振る。


「ミレアお姉ちゃんの口、こう動いてた気がした」


ソラが小さく言う。


「持っていった人も、帰りたいと思わないとだめ」


レムの表情が険しくなる。


「つまり、王冠を無理やり浄化するだけでは足りない」


「王冠自身に、返したいと思わせる必要がある?」


ましろが言うと、レムは頷いた。


「そういうことになるわ」


ねむが額を押さえる。


「敵の説得まで追加。難易度が悪趣味」


「でも」


ましろは悠太の絵を見る。


三つの鐘。


門の鐘。


時計台の鐘。


杖の鐘。


「それが、名前を返す鐘なんだ」


時計台の針は十二分を指していた。


もう進んでいない。


けれど、止まっているのではない気がした。


待っている。


次に鳴るべき鐘を。


澄が静かに言った。


「門の鐘は、帰ってきた子を迎える鐘です」


レムが続ける。


「星律の杖の鐘は、失われた名を星へ返す鐘」


ソラが窓の外を見る。


「時計台の鐘は、隠された時間を返す鐘」


ましろは三つの鐘を思い浮かべた。


迎える鐘。


返す鐘。


時間を開く鐘。


その三つが重なった時。


名前を返す鐘になる。


「次は」


ねむが言った。


「王冠が来る」


「うん」


ましろは頷いた。


「でも、今度はただ追い返すんじゃない」


胸元の宝石が静かに光る。


「奪った名前を、帰る場所へ返す」


ソラが不安そうに聞いた。


「王冠にも、帰る場所があるのかな」


ましろは答えられなかった。


けれど、ミレアの言葉を思い出す。


王冠は、本当に欲しいのは冠ではなく、返事をする場所。


呼ばれたかったもの。


帰りたかったもの。


ましろは、杖を握る。


「作れるかもしれない」


「帰る場所を?」


「うん」


ねむがため息をついた。


「ましろがまた無茶なことを言い始めた」


「だめ?」


「だめとは言ってない」


「じゃあ」


「一人でやるのがだめ」


ねむはランタンを持ち直した。


「やるなら、全員で」


ソラが頷く。


「僕も」


悠太が手を挙げる。


「ぼくも!」


レムが言う。


「悠太は安全圏から記録係」


「えー」


「重要任務よ」


「じゃあやる!」


澄は名付け録を閉じた。


その表情は、まだ疲れている。


けれど、逃げてはいなかった。


「私も、今度こそ隠すだけではなく、話します」


ましろは澄を見た。


「はい」


「十六年前の十二分は戻りました。次は、あの夜に何を隠したのかを、私の口から」


澄の声は静かだった。


「王冠が来る前に」


その時、礼拝室の外で門の鐘が鳴った。


ちりん。


小さな音。


誰も触れていない。


時計台の鐘ではない。


孤児院の門の、小さな鐘。


帰ってきた時に鳴る鐘。


ましろたちは顔を見合わせた。


ソラが窓へ近づく。


「誰か、門にいる」


ましろは息を呑んだ。


夜明け前の門。


白い霧。


その中に、ひとつの影が立っていた。


人の形ではない。


王冠でもない。


小さな、白い名札だった。


門の前に、ひとりで浮いている。


何も書かれていない。


けれど、裏側に黒い文字が滲んでいる。


ましろは窓越しに、それを見た。


文字は逆さまで、読みにくい。


けれど、なぜか意味だけが胸に届いた。


返して。


たった一言。


誰の名前を。


どこへ。


何から。


まだ分からない。


けれど、次の鐘は、もう夜明け前の静けさの中で、鳴る準備を始めていた。


ましろは杖を握った。


レムが宝石の中で静かに言う。


「行くわよ」


「うん」


ねむがランタンを掲げる。


ソラが席札を胸にしまう。


悠太がスケッチブックを抱える。


澄が名付け録を持つ。


夜明け前の礼拝室で、みんなが同じ扉を見る。


外では、門の鐘がもう一度鳴った。


ちりん。


その音は、小さかった。


でも、今までで一番、帰ってきてほしいと願っている音だった。

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