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第15話 名前を返す鐘

門の鐘が鳴っていた。


ちりん。


ちりん。


夜明け前の星見坂孤児院は、まだ眠っている。


空は深い青で、朝と夜の境目だけがうっすら白い。


けれど門の前には、誰かがいた。


いや。


誰か、ではなかった。


白い名札が浮いている。


子どもの手のひらほどの木札。


表には何も書かれていない。


ただ裏側に、黒い文字が滲んでいた。


返して。


その文字は、インクで書かれたものではなかった。


木そのものが傷になって、そこから声をこぼしているように見えた。


ましろは門の内側に立ち、杖を握りしめていた。


胸元の青い宝石が、静かに脈打っている。


隣には、夢見のランタンを持つねむ。


少し後ろに、ソラ。


悠太は澄のそばでスケッチブックを抱えている。


レムは杖の宝石の中で、白い名札を睨んでいた。


澄は名付け録を胸に抱えている。


その表情は、いつもの院長先生のものではなかった。


星守澄という名を取り戻した人の顔。


そして、もう隠しているだけではいられないと知ってしまった人の顔だった。


「触らないで」


レムが言った。


「それは名札の形をしているけれど、ただの名札じゃない」


「王冠のもの?」


ましろが聞く。


「王冠が残したもの。でも、王冠そのものではない」


レムの声は硬い。


「奪われた名前の残響よ」


ねむがランタンを少し持ち上げた。


青黒い光が、白い名札を照らす。


すると、名札の表に細い影が浮いた。


文字ではない。


顔でもない。


小さな手形。


何人もの手が、内側から木札を叩いているみたいだった。


悠太が小さく息を呑む。


「中に、いる」


「誰が?」


ましろが聞くと、悠太はスケッチブックを開いた。


ページの上に、白い名札の絵が勝手に浮かんでいく。


その周りに、小さな丸い影。


顔はない。


名前もない。


でも、それらはみんな、門の方を向いていた。


悠太は震える声で言った。


「帰りたい子たち」


門の鐘が、もう一度鳴る。


ちりん。


白い名札が、その音に合わせて揺れた。


ましろの胸元の宝石が熱くなる。


名札の裏の「返して」という文字が、少しだけ濃くなった。


「何を返してほしいの」


ましろは問いかけた。


白い名札は答えない。


けれど、門の外の空気が変わった。


夜明け前の霧が、ゆっくり集まっていく。


霧の中に、黒い星屑が混じる。


それは渦を巻き、上へ上へと立ち上がった。


そして、霧の奥に王冠が現れた。


空白の王冠。


割れた破片が輪になり、白い仮面の上に浮いている。


くすんだ銀。


古い骨の白。


夜の底から掬った青。


仮面に顔はない。


けれど、ましろは分かる。


王冠は、こちらを見ている。


その胸元には、空洞の星型核。


前よりも欠けている。


けれど、その空洞の奥には、いくつもの小さな光が閉じ込められていた。


名前だ。


たぶん。


呼ばれなかった名前。


帰れなかった名前。


奪われた名前。


全部が、王冠の中で光になれずに震えている。


――返せ。


声がした。


それは王冠の声だった。


でも同時に、白い名札の中から聞こえる声でもあった。


――返せ。


ましろは杖を構える。


「誰に」


声は震えた。


でも、逃げなかった。


「どこへ返せばいいの」


王冠は首を傾けた。


仮面の奥で、青白い光が揺れる。


――知らない。


その答えは、あまりにも幼かった。


――知らない。

――でも、返せ。

――名前を。

――冠を。

――呼ばれる場所を。


ねむが低く呟く。


「めちゃくちゃ」


「でも、たぶん本音だ」


ソラが言った。


彼は王冠を見上げている。


震えている。


けれど、目を逸らさない。


「欲しいものの名前が分からないんだと思う」


ましろは、星白ミレアの言葉を思い出した。


王冠が本当に欲しいのは、冠じゃない。


返事をする場所。


呼ばれて、帰れる場所。


けれど、それを知らないから、誰かの名前を頭に載せようとしている。


名前を冠にしようとしている。


ましろは胸元の宝石に手を当てた。


「名前は、誰かの上に載せるものじゃない」


王冠の破片が、かすかに震えた。


「呼ばれて、返事をするためのものだよ」


王冠の声が、低くなる。


――返事。


「そう」


ましろは頷いた。


「あなたも、返事がしたいんでしょう」


その瞬間、王冠の仮面にひびが入った。


ほんの少し。


けれど、確かに。


レムが鋭く言う。


「ましろ、近づきすぎないで。理解と同化は違う」


「分かってる」


「分かっている顔ではないわ」


「でも、やる」


「減点対象」


「あとで聞く」


「後払いは利子が高いわよ」


そのやり取りに、ねむがほんの少しだけ笑った。


「戻ってきたね、いつもの感じ」


「この状況で安心材料がレムの減点なの、ちょっと嫌だね」


ソラが言う。


「同感」


ねむはランタンを掲げた。


「ましろ。王冠の中、照らす」


「大丈夫?」


「無理そうなら寝ない」


「今寝る話じゃないよ」


「私の能力周りはだいたい寝る話になる」


ランタンの中で、青黒い火が燃え上がった。


金色の芯が灯る。


その光が、王冠の胸元の空洞を照らした。


ましろは息を呑む。


そこには、無数の小さな部屋があった。


名前のない部屋。


扉のない部屋。


窓のない部屋。


その一つ一つに、小さな影が座っている。


子どものようにも見える。


星屑のようにも見える。


紙に書かれる前の文字のようにも見える。


彼らはみんな、膝を抱えていた。


呼ばれないまま。


返事の仕方を忘れたまま。


ねむの顔が青ざめる。


「何これ」


「王冠の中に残った名前の巣」


レムが言った。


「いや、巣ではないわね。墓に近い」


「やめて、その言い方」


ましろは王冠の胸の中を見つめた。


小さな影たちは、ましろを見ていない。


誰も、どこを見ればいいのか分からないみたいだった。


「呼んでも、返事できないんだ」


ソラが言った。


「呼ばれたことがないから」


その言葉に、ましろの胸が痛くなる。


呼ばれたことがない名前。


名前になる前に置いていかれたもの。


忘れられたのではなく、覚えられる前に失われたもの。


王冠は、そのすべてを集めたのか。


集めて、冠にしようとしたのか。


誰かに呼ばれる代わりに、自分の上へ載せようとしたのか。


「でも」


ソラが一歩前に出た。


「通り道はある」


ましろが振り向く。


「通り道?」


「王冠の中から、外へ出たい線が見える」


ソラの輪郭が、少しだけ薄くなる。


彼は自分の席札を胸元から取り出した。


ソラの席。


帳ソラ。


また明日。


何度も書き直された文字。


「ソラ、無理しないで」


ましろが言うと、ソラは小さく笑った。


「つらくなったら逃げる」


「本当に?」


「うん」


ねむが横から言う。


「逃げなかったら殴る」


「それ、励まし?」


「かなり」


ソラは少しだけ笑って、王冠へ向かって歩き出した。


王冠は彼を見ていない。


見つけられない。


記憶に残りにくいソラは、王冠の空白の隙間へ入り込める。


でも、それは同時に、消えやすい場所へ近づくということでもあった。


ソラの輪郭が薄くなる。


足元が霧に溶ける。


ましろは叫びそうになった。


けれど、ソラは振り返らずに言った。


「ましろ」


「何?」


「呼んでて」


ましろは息を吸った。


「帳ソラ!」


ソラの輪郭が少し戻る。


ねむも続ける。


「ソラ!」


悠太も叫んだ。


「ソラくん!」


澄が静かに言う。


「帳ソラ」


レムも、杖の中から言った。


「帳ソラ。見失ったら減点では済まさないわ」


「それは怖い」


ソラは王冠の空白に片手を伸ばした。


その手が、霧の中へ沈む。


王冠の胸元にある小さな部屋のひとつが開いた。


そこから、白い名札が一枚落ちる。


何も書かれていない。


けれど、悠太のスケッチブックが反応した。


ページが開き、白い名札と同じ形が描かれる。


悠太の手が、勝手に動き始めた。


「悠太くん?」


ましろが呼ぶと、悠太は顔を上げないまま言った。


「今、描かなきゃ消えちゃう」


鉛筆が走る。


白い名札の上に、小さな影。


その影のそばに、ひらがなで文字が浮かぶ。


かえりたい。


悠太の手が止まった。


「この子、名前じゃなくて、先にこれを言いたかったんだ」


ましろは、その文字を見つめた。


かえりたい。


名前ではない。


けれど、名前へ向かう最初の声。


レムが低く言う。


「帰りたい、は返事の前にある願い」


「名前を返すには、帰りたいって思わないとだめ」


悠太が呟く。


鏡の夜で受け取った言葉が、今ここで形を持つ。


持っていった側も、帰りたいと思わなければならない。


王冠は、まだ自分が帰りたいことを知らない。


だから奪っている。


だから冠にしようとしている。


ましろは杖を握った。


「じゃあ、教える」


ねむが顔を上げる。


「王冠に?」


「うん」


「簡単に言う」


「簡単じゃないよ」


ましろは王冠を見上げる。


「でも、言わなきゃ始まらない」


ねむは少し黙ってから、肩をすくめた。


「じゃあ、言う係はましろ。照らす係は私。道を見つける係はソラ。描く係は悠太。記録と結界は院長先生。減点係はレム」


「最後だけ不本意ね」


「相棒係に訂正する?」


レムが一瞬だけ黙る。


「……そちらで」


ましろは笑いそうになった。


こんな状況なのに。


王冠を前にしているのに。


それでも、みんなの声がある。


自分をここに留めてくれる声がある。


ましろは門の鐘を見た。


小さな鐘。


帰ってきた子を迎える鐘。


時計台を見た。


大きな鐘。


隠された時間を返した鐘。


そして、自分の手の中の星律の杖を見た。


星の鐘。


失われた名を星へ返すための杖。


三つの鐘。


ミレアが残した道。


「レム」


「分かっているわ」


レムの声は静かだった。


「三つの鐘を重ねる。門の鐘で迎え、時計台の鐘で時間を開き、星律の杖で名を返す」


「できる?」


「普通はできない」


「普通は?」


「あなたたちは、すでに普通ではないでしょう」


ねむが呟く。


「それ、褒めてる?」


「微妙に」


「微妙はやめて」


ましろは杖を掲げた。


「星守澄さん」


澄が頷く。


「門の鐘を」


澄は名付け録を左手に抱え、右手で星の護符を掲げた。


孤児院の門に、青白い線が走る。


門の上の小さな鐘が、かすかに震え始めた。


ちりん。


まだ小さい。


けれど、鳴っている。


「悠太くん」


「うん!」


悠太はスケッチブックを開く。


白い名札。


小さな影。


かえりたい。


その横に、門を描いた。


開いた門。


窓に灯るあかり。


帰ってきた子を迎える家。


ねむのランタンが光を増す。


青黒い火の奥で、金色が強くなる。


王冠の中の小さな部屋が、ひとつずつ照らされていく。


そこに座っていた影たちが、顔のない顔を上げる。


ソラは、王冠の空白の中で手を伸ばしていた。


「こっち」


彼は小さく言う。


「出口、こっちだよ」


その声は薄い。


けれど、ちゃんと届いている。


ましろはソラの名前を呼び続けた。


「帳ソラ」


ねむも。


悠太も。


澄も。


レムも。


呼ばれるたびに、ソラの輪郭が消えずに戻る。


王冠が初めて、ソラに気づいた。


白い仮面が、ゆっくりソラへ向く。


――なぜ。


その声は、怒りではなく戸惑いだった。


――なぜ、消えたものが道を持つ。


ソラは王冠を見上げた。


「消えてないから」


声は震えていた。


でも、逃げなかった。


「薄いだけ」


ソラは自分の席札を胸に押し当てる。


「呼んでくれる人がいるから、僕はまだいる」


王冠の破片が震える。


――呼ぶ。


「そう」


ましろは言った。


「呼ぶよ」


王冠がましろを見る。


「でも、あなたの名前はまだ分からない」


ましろは杖を構えた。


「だから、まずは名前じゃなくていい」


白い仮面の奥で、青白い光が揺れる。


「帰りたいって、言っていいよ」


王冠の身体が止まった。


空気も止まった。


門の鐘も、時計台も、杖の宝石も。


全部が、その一言の後に来る返事を待っていた。


王冠の胸の空洞から、いくつもの声が漏れた。


――かえりたい。


――でも、どこへ。


――かえりたい。


――でも、だれに。


――かえりたい。


――でも、なまえがない。


ましろの目に涙が浮かんだ。


怖い。


王冠は怖い。


それでも、この声は怖いだけではなかった。


ましろは歌った。


星が眠る丘のうえ。


ちいさな鐘が鳴りました。


帰る名前をなくしても。


あかりは窓に、待っている。


ねむが続いた。


ソラも。


悠太も。


澄も。


レムも。


歌は門へ流れる。


門から中庭へ。


中庭から時計台へ。


時計台の鐘が、応えた。


ごん。


一度。


隠された時間を返した鐘。


その音が、王冠の胸の中へ落ちる。


王冠の中の小さな部屋に、夜明け前の光が差した。


影たちが立ち上がる。


まだ名前はない。


けれど、帰りたいという言葉だけはある。


ましろは杖を掲げる。


「ルミナス・ベル」


鐘の音が鳴る。


りん。


門の鐘。


ちりん。


時計台の鐘。


ごん。


星律の杖の鐘。


りん。


三つの鐘が重なった。


その音は大きくなかった。


けれど、深かった。


孤児院の床下を通り、壁の星の線を走り、子どもたちの名札を震わせ、名付け録のページをめくり、ソラの席札を光らせ、ねむのランタンの火を金色に変え、悠太のスケッチブックの星を七つとも揺らした。


ましろは叫んだ。


「名前を返す鐘!」


それは術式名ではなかった。


誰かが決めた魔法でもなかった。


でも、その瞬間、世界はその言葉を受け入れた。


三つの鐘の音がひとつになる。


王冠の胸から、白い名札がいくつも飛び出した。


何も書かれていなかった名札に、次々と文字が浮かぶ。


読めるものもある。


読めないものもある。


人の名前。


星の名前。


歌の名前。


約束の名前。


かつて誰かが大切にした、たくさんの呼び名。


それらは一斉に空へ舞い上がった。


そして、あるものは孤児院の古い名簿へ戻り。


あるものは子どもたちの夢へ戻り。


あるものは街の方へ飛び。


あるものは星空へ昇っていった。


王冠が苦しむように身体を震わせる。


けれど、それは壊される痛みではなかった。


抱え込みすぎたものを、ようやく手放す痛みだった。


――やめろ。


王冠の声が揺れる。


――なくなる。


――冠が、なくなる。


ましろは首を振った。


「冠じゃなくても、あなたはなくならない」


――名がない。


「今は、なくても」


ましろは杖を両手で握る。


「返事はできる」


王冠の仮面に、大きなひびが入った。


その奥に、初めて顔のようなものが見えた。


子どもではない。


大人でもない。


性別も年齢も分からない。


ただ、長い間誰にも呼ばれなかったものの顔。


目だけがあった。


その目が、ましろを見た。


――呼んで。


ましろは息を止めた。


「名前は、まだ分からない」


王冠の目が揺れる。


ましろは続けた。


「でも、あなたを“空白”とは呼ばない」


レムがはっと息を呑む。


ねむも、ソラも、澄も、黙ってましろを見る。


ましろは王冠の胸元の空洞を見つめた。


「空白は、あったものをなかったことにする穴」


白い名札が光る。


「でも、あなたは穴じゃない」


王冠が震える。


「あなたは、返事を待っている場所」


ましろは、ゆっくりと言った。


「だから今は、“未名の星”」


その言葉が、夜明け前の空に落ちた。


名前ではない。


完全な名ではない。


仮の呼び名。


けれど、王冠を空白として扱わないための小さな灯り。


未名の星。


まだ名付けられていない星。


王冠の仮面が、さらに割れた。


――みめい。


声が、初めてましろの言葉を繰り返した。


――ほし。


「うん」


ましろは頷いた。


「あなたが本当の名前を見つけるまで、そう呼ぶ」


――返事。


「できる?」


長い沈黙。


そして、王冠の奥の目が小さく揺れた。


――……いる。


それは返事だった。


誰かに呼ばれて、初めて返した声。


王冠の破片が、一斉に砕けた。


黒い星屑が白い光へ変わる。


仮面が割れる。


骨のような翼がほどける。


胸の空洞から、最後の白い名札が現れた。


そこには何も書かれていない。


けれど、裏側の「返して」という文字は消えていた。


代わりに、かすかな線が浮かぶ。


また、呼んで。


ましろは涙をこぼした。


王冠の身体が、光になってほどけていく。


完全に消えたわけではない。


未名の星と呼ばれたものは、残響だけを残して、小さな青白い星となって空へ昇った。


けれど、その星は孤児院から遠ざからなかった。


時計台の上で一度だけ止まり、まるで帰る場所を覚えようとするみたいに、ゆっくり瞬いた。


その瞬間、孤児院中の名札が光った。


ユリ。


カナ。


トウマ。


リオ。


七瀬悠太。


棘咲ねむ。


帳ソラ。


星守澄。


久遠ましろ。


全部の名前が、朝の光の中で濃くなる。


ソラの席札も。


澄の名付け録も。


ねむのメモ帳も。


悠太のスケッチブックも。


レムの宝石も。


ましろの胸元の青い宝石も。


一斉に、同じ鐘の余韻を抱いた。


ちりん。


門の鐘が、最後にもう一度鳴った。


帰ってきたものを迎えるように。


ましろは膝から力が抜け、その場に座り込んだ。


変身の光がほどける。


杖だけが手の中に残った。


ねむが隣に座り込む。


「無茶」


「うん」


「かなり無茶」


「うん」


「でも」


ねむは少しだけ息を吐いた。


「悪くなかった」


「ねむ的には?」


「かなり」


ソラが、ましろの前に立っていた。


彼の輪郭は、今までで一番はっきりしている。


けれど、完全ではない。


少しだけ朝の光が透けている。


「ソラ」


ましろが呼ぶと、ソラは返事をした。


「いるよ」


その返事だけで、ましろは泣きそうになった。


悠太が走ってきた。


スケッチブックを抱えたまま、ましろに飛びつく。


「ましろお姉ちゃん!」


「悠太くん」


「王冠、いなくなった?」


ましろは空を見た。


時計台の上に、小さな青白い星がある。


「いなくなったというより」


言葉を探す。


「少し、帰り方を覚えたのかも」


悠太は首を傾げた。


「じゃあ、また来る?」


「たぶん」


「悪い子?」


ましろは少し考えた。


王冠は怖かった。


名前を奪った。


傷つけた。


けれど、その奥には呼ばれなかったものがいた。


「悪いことはした」


ましろは言った。


「でも、悪い子って決めるのは、まだ早いかも」


悠太は真剣に頷いた。


「じゃあ、スケッチブックに書いとく」


「何て?」


悠太はスケッチブックを開き、青い星をひとつ描いた。


その下に、ひらがなで書く。


みめいのほし。

まだ、なまえはない。

でも、へんじはした。


ましろはその文字を見て、胸の奥が温かくなった。


レムが杖の宝石の中で言った。


「採点が必要ね」


「今?」


ましろが聞く。


「今だからよ」


レムは少しだけ偉そうに腕を組む。


けれど、その目は穏やかだった。


「ましろ。名前を返す鐘、初回発動。制御は粗い。理論は即興。危険度は高い。無茶。非常に無茶」


「はい」


「でも」


レムはほんの少しだけ微笑んだ。


「百点」


ましろは目を丸くした。


「え?」


「一回しか言わないわ」


ねむが横から言う。


「今、全員聞いた」


「記録にも残す」


ソラが言った。


悠太もスケッチブックを掲げる。


「書く!」


レムの顔が赤くなる。


「やめなさい。百点を乱用すると価値が落ちる」


「今日だけ?」


ましろが聞くと、レムは少しだけ目を伏せた。


「今日だけ」


そして、小さく続ける。


「帰ってきたから」


ましろは杖を抱きしめた。


「うん」


「一緒に」


「うん」


「……よろしい」


星守澄は門の前に立っていた。


朝の光が、白い髪を淡く照らしている。


名札には、星守澄としっかり読める文字が戻っていた。


完全ではない傷跡は残っている。


けれど、そこに名前はある。


澄は門の鐘を見上げていた。


「この鐘が、こんな音で鳴るのを聞いたのは久しぶりです」


「前にも?」


ましろが聞く。


澄は頷いた。


「十六年前。あなたが来た夜に」


ましろは門を見る。


白い布に包まれていた赤ん坊。


若い澄。


星白ミレア。


失われた十二分。


その全部が、今は遠い夜ではなく、ましろの中に少しだけ居場所を持っている。


「星守澄さん」


ましろは、もう一度その名前を呼んだ。


澄は振り向く。


その顔に、少しだけ驚きが浮かぶ。


それから、とても静かに微笑んだ。


「はい、ましろ」


ましろは笑った。


まだ慣れない呼び方。


けれど、呼ぶたびに、澄という人が少し近くなる気がした。


食堂では、子どもたちが朝食の準備を始めていた。


昨夜のことを、全員がはっきり覚えているわけではない。


怖い夢を見た気がする子。


門の鐘を聞いた気がする子。


名前を呼ばれて嬉しかったことだけ覚えている子。


それぞれだった。


でも、名札は戻っている。


席札も。


歌も。


ソラの席も。


ましろは、窓際の席を見た。


ソラが座っている。


ミルクのカップを両手で包んでいる。


隣に悠太が座り、スケッチブックを広げて何かを描いている。


ねむは眠そうな顔でパンをかじっている。


レムは杖の宝石の中から、食堂の様子を見ている。


澄は子どもたちにスープをよそっている。


いつもの朝。


けれど、もう以前と同じではない朝。


ましろは、自分の胸元に手を当てた。


青い宝石は静かだった。


本当の名前は、まだ分からない。


七つの帰る場所も、最後の白も、まだ完全には分からない。


王冠も、完全に消えたわけではない。


未名の星。


そう呼んだものが、時計台の上で小さく瞬いている。


それでも、ましろは今、久遠ましろとして立っている。


それでいい。


今は、それでいい。


食堂の中で、誰かが歌い始めた。


星が眠る丘のうえ。


ちいさな鐘が鳴りました。


帰る名前をなくしても。


あかりは窓に、待っている。


そこへ、子どもたちが自然に声を重ねる。


ましろも歌った。


ねむも小さく。


ソラも少し遅れて。


澄も、食堂の奥で。


レムは歌わないふりをしていた。


けれど、杖の宝石が淡く光っていたから、ましろには分かった。


レムも、たぶん歌っている。


歌が、朝の食堂を満たしていく。


それは勝利の歌ではなかった。


ただ、帰ってきた名前たちを迎える歌だった。


その日の夜。


悠太のスケッチブックが、またひとりでに開いた。


ページには、星見坂孤児院が描かれている。


門の鐘。


時計台。


礼拝室。


食堂の窓。


そして、時計台の上に小さな青白い星。


その星には、まだ名前がない。


ただ、隣に小さくこう書かれていた。


みめいのほし。


そのページの端に、もう一枚の絵が浮かび上がる。


孤児院の外。


星見坂の街。


灯りの消えた窓。


名前のない家。


空っぽの表札。


そして、遠くの空に、欠けた王冠の影。


文字が浮かぶ。


砕けた王冠の影は、街へ落ちた。


悠太は眠っていた。


だから、その文字を見た者はいない。


けれど、ページの青い星だけが、夜の中でかすかに光っていた。


まるで、次に呼ばれる名前を待っているみたいに。

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