第16話 名前のない家
翌朝、悠太のスケッチブックは、まだ同じページを開いていた。
星見坂孤児院。
門の鐘。
時計台。
礼拝室。
食堂の窓。
そして、時計台の上に浮かぶ小さな青白い星。
その星の横に、悠太の字で書かれている。
みめいのほし。
まだ、なまえはない。
でも、へんじはした。
その下に、別の絵があった。
孤児院の外。
星見坂の街。
灯りの消えた窓。
名前のない家。
空っぽの表札。
そして、遠くの空に、欠けた王冠の影。
ページの端には、昨夜浮かび上がった文字が残っている。
王冠は、街へ落ちた。
ましろは、その一文を何度も読んだ。
読めば読むほど、胸の奥が冷えていく。
昨夜、空白の王冠は完全には消えなかった。
ましろが“未名の星”と呼んだものは、時計台の上で小さく瞬いている。
悪意そのものではなかった。
けれど、危険が去ったわけでもない。
王冠は、街へ落ちた。
孤児院の外へ。
ましろたちの知らない場所へ。
誰かの名前の上へ。
「街に行くの?」
悠太が聞いた。
眠そうな目をこすりながら、それでもスケッチブックだけはしっかり抱えている。
ましろは頷いた。
「行く」
「ぼくも?」
「今日はお留守番」
「えー」
悠太は不満そうに頬を膨らませた。
けれど、星守澄が静かに首を振る。
「悠太、今日は孤児院で記録係をお願いします」
「記録係?」
「ええ。もしノートに何か浮かんだら、すぐ教えてください」
悠太は少しだけ考えた。
それから、胸を張った。
「重要?」
「とても」
「じゃあ、やる」
ねむが横からぼそりと言う。
「悠太は単純で助かる」
「単純じゃないよ。重要なんだよ」
「重要な単純」
「それ褒めてる?」
「かなり」
悠太はよく分からないまま、少し嬉しそうに頷いた。
ソラは窓際の席に座っていた。
朝食のパンを両手で持ち、少しずつ食べている。
彼の席札は、今朝も残っていた。
ソラの席。
帳ソラ。
また明日。
何度も書き直された文字は、まだ少し不安定だ。
けれど、そこにある。
「ソラも来る?」
ましろが聞くと、ソラは少し考えた。
「行く」
「大丈夫?」
「たぶん」
ねむがすかさず言う。
「たぶん禁止」
ソラは困ったように笑った。
「じゃあ、大丈夫。嫌になったら逃げる」
「よろしい」
「ねむ、その基準好きだね」
「生存率が上がるから」
レムは杖の宝石の中で、食堂の窓の外を見ていた。
いつもより口数が少ない。
昨夜、王冠に名前を返す鐘を鳴らしてから、レムは少しだけ変わった。
毒舌は戻った。
点数もつける。
でも、ふとした瞬間に、遠い名前を聞いているような顔をする。
星白ミレア。
レムの最初の契約者。
ましろに“ましろ”という響きを残した人。
その名前が戻ったことで、レムの中にも、まだ揺れているものがあるのだろう。
「レム」
ましろが呼ぶ。
宝石の中のレムが、すぐに振り向いた。
「何」
「返事、早い」
「名前を呼ばれたら返事をするべきなのでしょう」
その言い方は少しだけ不機嫌だった。
でも、ましろは笑った。
「うん」
「笑うところではないわ」
「ちょっと嬉しかっただけ」
「喜びの基準が低い」
「七十点くらい?」
「五十八点」
「低い」
「調子に乗ったから」
ねむがパンをかじりながら言う。
「いつものレムに戻ってきた」
「戻ったのではないわ。継続しているだけ」
「はいはい」
「はいは一回」
「面倒」
そのやり取りで、食堂の空気が少しだけ軽くなる。
けれど、澄の表情は晴れなかった。
彼女はましろに、小さな星の護符を渡した。
「門を出る時、必ず自分の名前を声にしてください」
「名前を?」
「ええ。孤児院の結界は、あなたたちを送り出す時にも名前を覚えます。外で迷った時、戻ってくるための糸になります」
ましろは護符を受け取った。
紙ではなく、薄い木片のような手触り。
表には小さな星。
裏には、澄の字で書かれた名前。
久遠ましろ。
棘咲ねむ。
帳ソラ。
三つの名が、細い線で結ばれている。
「ありがとうございます」
ましろが言うと、澄は頷いた。
「無理はしないこと」
「はい」
「何かあれば、すぐ戻ること」
「はい」
「王冠の気配を追いすぎないこと」
「……はい」
ねむが横目で見る。
「今の間、減点」
レムが言う。
「同意」
「レムとねむが組むと逃げ場がない」
「逃げ場は必要よ」
ソラが静かに言った。
「戻る場所と同じくらい」
一瞬、食堂が静かになった。
ソラは自分で言った言葉に少し驚いたような顔をした。
ましろは小さく頷く。
「うん。ちゃんと戻る」
門を出る時、三人は順番に名前を言った。
「久遠ましろ」
ましろが言うと、門の上の鐘が小さく鳴った。
ちりん。
「棘咲ねむ」
ねむが言うと、鐘は少し低く鳴った。
「名前登録みたい」
「大事なことよ」
レムが言う。
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
ソラは門の前に立ち、少しだけ黙った。
朝の光が灰色の髪に落ちる。
彼の輪郭は、孤児院の中にいる時より少しだけ薄く見えた。
ましろは心配になり、彼の名前を呼ぼうとした。
けれど、その前にソラが口を開いた。
「帳ソラ」
門の鐘が鳴った。
ちりん。
今度は、少し遅れて。
まるで鐘の方も、彼の名前を探してから返事をしたみたいだった。
ソラは、ほっとしたように笑った。
「鳴った」
「うん」
「よかった」
その言葉が、ましろの胸に残った。
名前を言って鐘が鳴る。
それだけのことが、ソラにとっては“よかった”になる。
ましろは、もう一度強く思った。
この名前たちを、勝手に持っていかせたくない。
星見坂の街は、坂の多い街だった。
孤児院のある丘から下ると、石畳の道が細く曲がり、赤茶色の屋根が並んでいる。
朝市の準備をする人たち。
パンを焼く匂い。
窓辺の花。
洗濯物。
遠くで鳴る荷車の車輪。
一見すると、いつも通りの街だった。
けれど、少し歩くと違和感に気づいた。
表札がない。
完全にないわけではない。
家の門には木札がかかっている。
店の入口にも、看板がある。
けれど、人の名前だけが抜けている。
パン屋。
花屋。
薬草店。
時計修理。
そういう役割は残っている。
しかし、その下にあるはずの店主の名が白い。
ましろは立ち止まった。
「名前が……」
「薄いというより、避けられてる」
ねむが言った。
「人の名前だけ、街が読まないようにしてる感じ」
ソラは辺りを見回した。
「ここ、変だね」
「何が?」
「僕があまり目立たない」
その言葉に、ましろは胸が少し冷えた。
ソラは続ける。
「孤児院だと、僕だけが薄い。でもここは、みんな少しずつ薄い」
ねむが表情を険しくする。
「嫌な街の褒め方」
「褒めてないよ」
「知ってる」
近くのパン屋の前で、店主らしき女性が焼きたてのパンを並べていた。
ふくよかな頬。
白いエプロン。
よく通る声。
彼女はましろたちを見ると、明るく言った。
「あら、星見坂孤児院の子たちじゃない。今日はお使い?」
「こんにちは」
ましろは頭を下げた。
「すみません、少し聞いてもいいですか」
「何かしら」
「お店の看板、名前のところが……」
ましろが指さす。
看板には、焼きたてパン、と書かれている。
その下に、小さく何かが書かれていた跡がある。
けれど、そこだけ白く抜けている。
店主は看板を見上げた。
「あら、本当ね」
驚いたように言う。
けれど、その驚き方は浅かった。
服のほこりを見つけた時くらいの反応。
「気づいてなかったんですか?」
ねむが聞く。
「そうねえ。店の名前があれば困らないもの」
「あなたの名前は?」
店主は笑顔のまま口を開きかけた。
けれど、声が出なかった。
口だけが、名前の形を探している。
「あら」
彼女は首を傾げた。
「私、何だったかしら」
ましろは息を呑む。
店主は少し困ったように笑った。
「変ね。パン屋のおばさんで通じるから、まあいいかしら」
「よくないです」
ましろは思わず言った。
店主は目を丸くする。
「そう?」
「名前は、あった方がいいです」
「でも、なくてもパンは焼けるわよ」
その言葉は明るかった。
明るすぎて、ましろは言い返せなくなった。
名前がなくても、パンは焼ける。
生活は回る。
誰かは笑う。
そのことが、思っていたよりずっと怖かった。
ねむが低く言う。
「役割だけ残ってる」
「役割?」
「パン屋。花屋。先生。郵便屋。そういう呼び方だけ」
ソラがパン屋の看板を見た。
「名前じゃなくて、使い道だけ残った街」
ましろの胸元の宝石が、かすかに熱を持った。
それは星骸の気配ではない。
もっと生活に混じった、ゆっくりした異変だった。
街の奥へ進むと、郵便配達の青年が道端で立ち尽くしていた。
肩から革の鞄を提げ、手には封筒を何通も持っている。
彼は封筒を見て、困った顔をしていた。
「どうしました?」
ましろが声をかけると、青年はほっとしたように顔を上げた。
「ああ、孤児院の。ちょうどいいところに」
「何か?」
「配達できないんです」
彼は封筒を差し出した。
宛名の部分が、どれも真っ白だった。
住所の一部は残っている。
星見坂三番街。
坂の下。
赤い屋根の家。
そこまでは読める。
けれど、誰に届けるのかが分からない。
「全部、名前だけ消えてる」
ねむが言う。
「昨日まではありました?」
「ありました。たぶん」
郵便屋は額を押さえる。
「でも、誰宛てだったか思い出せない。届け先の家は分かるんです。道も分かる。でも、誰に渡せばいいのかだけがない」
「あなたの名前は?」
ねむが聞いた。
郵便屋は固まった。
そして、困ったように笑った。
「郵便屋で通じます」
「通じるかどうかじゃない」
ねむの声が少しだけ鋭くなる。
郵便屋は驚いたように彼女を見た。
ねむは目を逸らさない。
「あなたは、誰ですか」
郵便屋は答えようとした。
けれど、やはり声が出なかった。
喉に白い綿が詰まったように。
ましろは、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
この街では、名前が消えている。
でも、誰も本気で困っていない。
困る前に、困り方を忘れている。
「この家」
ソラが封筒の一枚を指さした。
「悠太の絵と似てる」
ましろは封筒を見る。
星見坂三番街。
坂の下。
赤い屋根の家。
名前のない家。
悠太のスケッチブックに描かれていた場所。
三人は、郵便屋からその封筒を預かった。
彼は少し迷ったが、結局渡してくれた。
「届けてくれるなら助かります」
「本当にいいんですか」
ましろが聞くと、郵便屋は苦笑した。
「誰に届けるか分からない郵便は、郵便じゃない気がするので」
ねむが封筒を受け取りながら言う。
「今の、かなり正しいです」
「そうですか」
「名前を思い出したら、もう一回言ってください」
郵便屋は少しだけ目を伏せた。
「思い出せたら」
星見坂三番街は、朝の市場から少し外れた場所にあった。
坂を下るにつれて、人通りが減る。
石畳の隙間から草が伸び、窓辺の花も少なくなる。
その時、坂の下の方で、低い鐘のような音がした気がした。
ごん。
けれど、時計台の鐘ではなかった。
門の鐘でもない。
ましろが振り返った時には、もう朝の市場の音に紛れていた。
赤い屋根の家は、すぐに見つかった。
絵と同じだった。
小さな家。
白い壁。
丸い窓。
玄関の横には、木の表札がかかっている。
けれど、そこには何も書かれていない。
完全な白。
ましろは息を吸った。
「ここだ」
家の前には、花が植えられていた。
枯れてはいない。
水もやられている。
窓は閉じているが、カーテンは清潔だ。
空き家には見えない。
けれど、人が住んでいる気配も薄い。
まるで、家そのものが、自分が誰の家だったか忘れてしまったみたいだった。
玄関の敷物には、古びた文字が残っている。
おかえり。
その文字だけは、なぜか消えていなかった。
ましろは、それを見て胸が詰まった。
名前がないのに、おかえりだけが残っている。
帰ってくる誰かを、まだ待っている。
「入るの?」
ソラが聞いた。
ましろはドアを見る。
鍵はかかっていなかった。
というより、鍵をかける相手の名前を、家そのものが忘れているようだった。
ドアノブに手をかけると、家の中から小さな音がした。
ことん、と。
誰かがカップを置いたような音。
ましろはねむを見る。
ねむはランタンを握ったまま頷いた。
「中に何かいる」
「星骸?」
「分からない。でも、寝てる時に嫌な夢を見る家の匂いがする」
「家の匂いで分かるの?」
「今、私も自分で嫌なこと言ったと思ってる」
ましろはドアを開けた。
軋む音はしなかった。
中は、綺麗だった。
小さな玄関。
棚の上に置かれた鍵。
壁にかかった帽子。
小さな靴。
大人の靴。
食卓には、三つのカップが並んでいる。
一つは大きい。
一つは中くらい。
一つは小さい。
ましろは小さなカップに触れた。
まだ少し温かかった。
「誰か、いる?」
声をかける。
返事はない。
けれど、奥の部屋でカーテンが揺れた。
風はない。
ソラが小さく言う。
「誰かがいた跡だけが残ってる」
「跡だけ?」
「うん。人は見えない。でも、暮らしていた形だけが濃い」
ねむが壁を見る。
そこには、子どもの身長を測った跡があった。
床から少しずつ伸びる線。
横には日付らしき数字がある。
けれど、名前だけが削れている。
一番下の線。
その横に、かすかに文字の跡。
たぶん、誰かの名前。
でも読めない。
ましろは指でなぞろうとして、途中で止めた。
消えた名前に触れるのが怖かった。
「この家、何がなくなったの」
ましろが呟く。
その時、食卓の上に置かれていた封筒が震えた。
郵便屋から預かった宛名のない手紙。
白かった宛名の部分に、黒い線が滲み始める。
文字ではない。
傷だった。
そして、その傷が、声になった。
――いらない。
ましろは息を呑む。
――もう、その名前はいらない。
家の中の空気が一気に冷たくなる。
壁の身長線が白く霞む。
玄関の「おかえり」の文字が、少しだけ薄くなる。
ねむがランタンを掲げた。
青黒い光が部屋を照らす。
食卓の下。
椅子の影。
そこに、何かがうずくまっていた。
小さな星骸だった。
身体は、家の模型みたいだった。
白い壁。
赤い屋根。
丸い窓。
けれど、その窓は目で、玄関は口だった。
身体のあちこちに、表札のような白い札が貼り付いている。
全部、空白。
その星骸は、テーブルの下で膝を抱えているように見えた。
家なのに。
子どものようにも見えた。
「星骸……」
ましろは杖を構える。
星骸はゆっくり顔を上げた。
玄関の口から、声が漏れる。
――いらないって、言った。
ましろの手が止まる。
「誰が?」
――売った。
ねむの目が細くなる。
「売った?」
星骸の身体から、紙片が一枚落ちた。
ましろはそれを拾う。
古い質札だった。
紙は薄く、端が焦げている。
そこには、こう書かれていた。
燐灯堂。
お預かり品。
帰る言葉。
ただいま。
期限。
満月まで。
受取人名。
白紙。
ましろは、文字を読んだ瞬間、喉が詰まった。
帰る言葉を預ける。
ただいまを預ける。
そんなことができるのか。
そんなことをしていいのか。
ソラは、自分の席札を押さえた。
何度も書き直された文字の奥から、知らない言葉が浮かんでくる。
「名前の質屋」
ましろは彼を見る。
「知ってるの?」
「知らない。けど、その言葉だけ浮かんだ」
ソラの顔色は悪い。
「名前そのものじゃなくても、呼び方を預けられるんだと思う。誰かに呼ばれていた言葉。帰ってきた時に言う言葉。昔のあだ名。捨てたい名前」
ねむが低く言った。
「最悪な店」
星骸が震える。
――いらないって言った。
――思い出すと痛いから。
――ただいまって言う相手が、もういないから。
ましろは動けなかった。
この星骸は、奪ったのか。
それとも、捨てられたものから生まれたのか。
誰かが「ただいま」を売った。
もう言う相手がいないから。
思い出すと痛いから。
なら、ただ「返す」と言えば済むのか。
ましろの中で、名前を返す鐘の音が遠くよみがえった。
でも、返す相手が受け取りたくない時は。
返すことは、救いなのか。
それとも、傷を開くだけなのか。
「ましろ」
ねむが言う。
「考えるのは後。今は、ここが食われる」
星骸が身体を震わせた。
壁の身長線が薄れていく。
カップの温度が消えていく。
おかえりの文字が、白くなりかける。
ましろは杖を構えた。
「ルミナス・ベル!」
鐘の音が鳴る。
光の輪が広がる。
星骸の身体に触れた。
けれど、いつものようにほどけない。
光は星骸の表面を撫で、すぐに滑り落ちた。
まるで、返す場所が見つからないみたいに。
レムの声が鋭くなる。
「ましろ、無理に鳴らさないで。受け取り手が拒んでいる名は、鐘だけでは戻らない」
「じゃあ、どうすれば」
星骸が低く鳴いた。
家が泣くような音。
窓が震える。
白い札が一斉に浮かび上がる。
ましろたちの足元に、空白の表札が降る。
「下がって!」
ねむのランタンが青黒い火を散らす。
空白の表札が一瞬止まる。
ソラが星骸の横へ回り込んだ。
「出口がない」
「出口?」
「この子の中に、帰る道がない。家なのに」
ソラの声が震える。
「おかえりだけ残ってるのに、ただいまがない」
ましろは玄関の敷物を見る。
おかえり。
薄れかけている。
それは誰かを迎える言葉だ。
でも、返る言葉がない。
ただいま。
それが売られた。
預けられた。
だから、この家は名前を失った。
帰ってくる声を失った。
「ただいまを、返せば」
ましろが言いかけた時。
外で鐘が鳴った。
ごん。
時計台ではない。
門の鐘でもない。
星律の杖の鐘でもない。
もっと低い。
もっと黒い。
鉄ではなく、怒りで鋳造されたような音。
ごん。
家の中の空気が、真っ二つに割れた。
星骸が怯えたように震える。
ねむが振り向く。
「何の音」
ソラの顔が青ざめる。
「黒い」
「音が?」
「うん。黒い鐘」
玄関の向こう。
朝の光が差すはずの道に、夜のような影が落ちていた。
誰かが立っている。
黒い服。
錆びた銀の飾り。
赤い紐。
肩に担いだ、黒い鐘のついた杖。
少女だった。
ましろと同じくらいの年頃に見える。
けれど、その目はずっと鋭い。
夜をそのまま削って作ったような黒髪。
首元には、割れた小さな名札。
そこには何も書かれていない。
少女は、ましろたちを見なかった。
ただ、テーブルの下の星骸を見ていた。
黒い鐘がもう一度鳴る。
ごん。
星骸の白い表札が、一枚砕けた。
ましろは反射的に叫んだ。
「待って!」
少女の手が止まる。
ゆっくり、こちらを見る。
その目は冷たかった。
でも、空っぽではない。
怒りで満ちている。
「その子、まだ――」
「返せると思ってるの?」
少女の声は低かった。
ましろは言葉に詰まる。
少女は黒い鐘の杖を下ろす。
床に触れた瞬間、家全体が震えた。
「返せる名前ばかりなら、誰も泣いてない」
その言葉が、ましろの胸に刺さった。
星骸が、また鳴く。
――いらないって、言った。
――でも。
その先は聞こえなかった。
黒い少女が鐘を掲げる。
ましろは一歩前に出た。
「壊さないで」
少女の目が細くなる。
「壊さなきゃ、食われる」
「でも、壊したら戻らない」
「戻らない名前があることを、あんたはまだ知らない」
黒い鐘が震える。
少女の周りに、黒い音の輪が広がった。
それは光ではない。
影でもない。
怒りの形をした音だった。
レムが低く言う。
「ましろ、注意して。あれは星骸じゃない」
「じゃあ」
「あなたと同じ、鐘を鳴らす契約者よ」
ましろは息を呑む。
「同じ……」
「ただし、あの鐘は救うためのものではない」
黒い鐘の少女。
その存在が、朝の名前のない家に立っている。
白と金のましろとは、まるで違う。
救うための鐘ではない。
壊すための鐘。
いや。
怒るための鐘。
少女はましろを見た。
「白い魔法で、街の名前が返ると思ってるなら」
黒い鐘が、もう一度鳴った。
「この街では長生きしない」
その鐘の音で、空白の表札がすべて砕けた。
星骸が悲鳴を上げる。
ましろは杖を握りしめる。
止めなければ。
でも、どうやって。
返せない名前を、どう守ればいいのか。
朝の光の中で、黒い鐘だけが夜の音を鳴らしていた。
そして、名前のない家の玄関で。
“おかえり”の文字が、とうとう半分消えた。




